56.He's just remembered the day when he had fallen in love.


景吾は少し訝って目の前の男に自分の声が聞こえるかどうか、一度尋ねた。すると彼は変わらず虚ろな目をしていたが辛うじて頷いた。それで十分だった。了承した、と景吾も頷き返し、深く息を吸い、吐く。大きく波打たせた腹に力を込めて覚悟を全身に伝えた。景吾とて、本当に何もかもを知っているわけではないのだが、それでも今から自分がしようとすることは恐らく残酷であろうと感じていた。しかし身体に込めた力で同情は食いとめた。憧憬の想いすら難なく持つことが叶わなかった二人は憐れで、けれども乗り越えてその先へ進もうともしも望むのなら、この辛い橋渡しの役を誰かが果たさなければならないのだ。それは大人では駄目だった。彼らは、その実、見守ることしかできなイキモノだ。傷つく痛み、傷つける痛みにもはや耐性のない彼らにこの荷はかち過ぎていた。そのくせ放ってはおけないからと二人をひき合すだけ引き合わせたその所業は身勝手で腹が立ったが、再会してしまったからにはもう何もかも遅かった。
そのせいで自分はフラれたんだなあ、と思うと緊張に似合わず苦笑がもれた。
景吾の見つめる先で、もうここには居ないような風をしている弦一郎が、ふと、顔を上げた。それに合わせて景吾もいい加減片手を水平に掲げてみせた。ひとつ、真っ直ぐ指を天に向けて立てる。質問が始まった。
「今から聞くことに一切反論するな。一年前の夏、お前は何をしてた。」
帽子の前唾で出来た影の下で、微かに弦一郎の瞳が揺れる。
「無論、全国大会の只中だった。」
この回答にこっくりと満足げに頷いて、景吾は二本目の指を立てた。
「そうだな、それでいい。同じように答えろ。じゃあ二年前の夏は。」
「同じく、大会に。」
三本目の指が立つ。
「三年前の夏は。」
「通っていたテニススクールの、やはり大会に出ていた。」
四本目の指が立つ。
「四年前の夏は。」
「同じスクールの大会に。」
五本目。
「五年前の夏は。」
「……さっきから何なのだ。同じ質問ばかり繰り返しおって…。」
弦一郎の反応にぴくり、と瞼を振るわせた景吾が突如、五本立てていた指をぱちりと鳴らした。瞠目した弦一郎がその小慣れた動作の先端を見つめていると、険しい景吾の声が急くような追及を口にし始めた。
「やっぱり言い淀みやがったな。」
「言い淀んでなどおらん。ただお前の質問に何の意味があるのか分からんと……。」
弦一郎がため息交じりに、いかにも呆れた風で言い返せば、景吾は一層目を憐れそうに細めて問い返す。
「意味か、答えられたら教えてやるよ。五年前の夏、お前は何をしてた。」
変わらない質問だった。そんなものを浴びせられたので弦一郎は至極鬱陶しそうな視線を景吾に送ったが、肝心の彼はそれを跳ね返さんという気概でいるようである。実際瞳に込めた気迫が凄まじく、弦一郎の軽い嫌悪は敢え無く叩き落とされてしまった。そこで仕方なく答える気力を呼び戻して弦一郎は口を開いた。
「……どうした、何か言ってみろよ。」
確かに口は開いた。しかし声は出なかった。痙攣したように喉はひくつくばかりで肝心の音が出てこない。どうしたことだ、と思って俄かに弦一郎が喉元を摩ると、彼はあることに気がついた。自分は今、何を言おうとしたのだろう。慌てて景吾の質問から思い返す。五年前の夏、自分は何をしていたのか。たったそれだけのことである。ほっと息を吐いて記憶を巡らせた。五年前なら、自分は小学四年生、十歳で、既にかつて学んでいたテニススクールに入っている。ならばその後の二年と同じく大会に出ていたはずだ。そうに違いない、と安堵しかかったが、不意に家の居間に飾られているトロフィーやらメダルやらを思い出すと、ぽっかり空いたところのあったことが思いだされた。あれを自分で不思議に思うことはなかったが、一度甥にどうしてそこだけメダルがないのか、と聞かれたことがあったように思う。そのときは、きっと大会に出なかったんだろう、などと適当に、答えにもならないことだけ言って随分甥に馬鹿にされた。それでも腹は立てなかった。仕様がないと思っていた。何故ならば彼にはそれが。
「どうだ。答えられねえだろう。」
顎を居丈高に上げている景吾ではあったが、どうも目だけは優しかった。それが不思議で弦一郎が何も言わずにいると、側にある木で蝉が一匹、かしましい声で鳴き喚き始めた。すると急に景吾が二の句をつぐのが怖く感じて、弦一郎は後ずさりそうになる。なのに足は微動だにしなかった。誰かに押しとどめられているような感じでもあった。もう逃げてはいけない、と彼のすぐそばで誰かが意地を張っている。自分よりもっと泣きそうなその子は、変に汚れたTシャツを着ていて、小刻みに震えている。後ろ前逆に被った、少し大きな黒い帽子の下で、乱暴に目元を腕で擦る姿は懐かしくて、もう遠い。そう、遠いのだ。
大きな手でもって、彼の頭を撫でてやった。その手はどっしりと重く、もう震えていない。頑張ってきた五年間がそこに詰まっているのが分かって、宥められた少年はやっと顔を上げた。

「五年前の夏、お前は日本にいなかった。家族旅行でアメリカへ。二度目だ。それより四年ほど前に訪れたとき、知りあった家族とまた過ごす予定だった。そしてその頃、その家族が住んでいる住宅地の近辺では少女を狙った連続強姦事件が起こっていた。けれど間もなく犯人は捕まった。最後に襲った少女の、越前リョーマの傍らで、重傷を負って倒れていたらしい。当時の地方新聞の隅には『少女は事件のショックで記憶喪失になり、事件のことや友人のことなど今も思い出せないでいる。』と同情を誘うように記事の最後に添えてあった。……おい、真田。」

「五年前の夏、お前たちに何があった。」
優しい目は泣きそうだからだと分かった。それでも真実を求めようと酷薄なことをするから張った虚勢がいつもの高飛車な風に見えただけだったようだ。実は彼の思いやりがひしひしと知れて何だかおかしい。良い奴なのだな、と言ってやると、そんなことはどうでもいい、と怒鳴り返されて弦一郎は余計湧いてくる笑いが禁じえない。
そうこうしている内にも、頭の中では激しい渦を巻くようにたくさんのことが思い出されていた。その奔流が収まるまで、弦一郎は何もしゃべらず、薄ら口元だけで笑って忍んでいたが、とうとう五年前の夏が始まった日にたどり着くと、彼はゆっくり帽子を脱いで真っ向から日差しを浴びた。
「さて、な。何かあった、と言えるのかどうか。……少なくともあの頃は分かっていなかっただろうな。分かる、というのは馴染むように、いつの間にか起こっていることを指すものではないか。だとしたら、俺は分かってなどいなかった。ただ、あれはもっと凶悪で、酷いものだった。気付く、などとそんな生易しいものではない。あたかも皮膚を無理やり剥がされるような、そういう激しい痛み、だった。それでいいなら、あったとも。俺は」
日に焼けた顔が、どうしてだか妙に子どものそれのように見えて、つい景吾は何度か瞬きをした。そうするともう元の彼の顔に戻っていたが、一瞬見えた苦々しくもはにかんだような表情だけは、やはり子どもの顔だった。
「初めて、人を好きになるということを知った。」


――――――

べさまの情報収集能力の高さェ…。



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