54.Somebody's voice is telling you to stop dreaming a sweet dream.


景吾はフェンスの金網が指に食い込むほど、動揺し、またそれ以上に興奮していた。名古屋星徳対立海大付属の試合は、結果として三対二で立海大付属中の勝利に終わった。その内初め二つのダブルスはどちらも惨憺たる敗北を、あの王者立海が帰してしまい、つまりは後のシングルス三試合で連続勝利を収めたということである。勝敗を分ける第三試合は、二年生エース切原赤也の劣勢が長らく続いたが、終盤に差し掛かり彼は豹変した。普段からキレやすい選手ではあったが、もはやそのような易い言葉では形容しつくせない怒涛にして苛烈を極める攻めを彼は繰り出し、文字通り血戦の後、目も当てられないような光景とともに勝利した。続く第四試合からは一変して王者立海が息を吹き返した、否、成りを顰めていただけに過ぎなかったのだろう。柳蓮二は危なげなく平然と留学生選手を打ち負かした。そして彼の涼やかな試合運びでしんと静まり返ったコートを最後に激震させたのは、やはり皇帝、真田弦一郎であった。
それに感化された者の中に、景吾もいた。何と圧倒的な勝利であったろう。決して景吾のプレイスタイルとは相いれないが、確かにコートに君臨する彼のように真正面から相手を叩き潰すならば、その征服感たるや、勝利の快感を知る者なら唾を呑んで欲するほどのものに違いない。また景吾も一人のプレーヤーとして、あれほどの力量を備えた選手をどうすれば攻略出来るか、必然と必死になって考えていた。この瞬間の熱中と恍惚もまたたまらなく加虐心をそそってならない。
半分陶酔したような心地で試合の終わった、熱気の名残りが漂うコートを見つめていると、とん、と背中を叩かれ柄にもなく景吾は仰天して振り返った。その先には、同じようにひどく驚いた顔をした弦一郎が立っていた。あ、と抜けた声を零した後、慌てて目を瞬かせて夢現の心地を追い払った景吾は、ふ、と息をついた。
「何だ、随分手の込んだ試合だったじゃねえの。」
「…俺たちの勝利に必要だったのに過ぎん。」
地獄絵図にも近かった第三試合のことを思い出したのだろう。コートを離れてほんの僅かに威圧感の減じた弦一郎が俄かに曇った表情でそう答えた。景吾はそれを鼻で笑ったが、確かに気持ちのいいものではなかった。けれども彼の言葉の真意はそれだけではない。
「他にも用意周到な奴はいただろうが。」
そう言って軽く睨んでやると、視線を受け止めた弦一郎がほとんど汗も掻いてない顔を険しく歪めた。第六試合、大将戦で見せた秘蔵の技の話だと感づいたのは間違いなかった。
「相変わらずテメェは手塚一筋だな。まあ、気持ちは分かるけどよ。」
「今日のは小手調べに過ぎんが…無駄だったかもな。」
友情の片鱗で語りかけた景吾に対し、弦一郎は存外素っ気なかった。それどころかどうやら、本番では使わない、と示唆したらしい一言に景吾はつい体裁もない怒声を張り上げた。
「はあ!?何言ってやがんだテメェ!関東の時みたいな腑抜けを二度もこの俺様に見せようってのか!」
掴みかからん勢いで吠える景吾を弦一郎は冷たく見やった。そして緩く首を振った。ひどく覇気がなかった。
「手塚に勝つことは、俺にとって悲願だが、それと優るとも劣らぬほど特別な意味もある。今の俺にはその意味を、受け入れるつもりがないのだ。…跡部。」
何だ、と語気も荒く応じてやると、弦一郎が笑った、のだと思われた。ほんの少し眉根が寄って、口角が微妙に浮き、苦笑のようでもあったがそんな取るに足らない表情では決してなかった。
「以前俺に、お前に対してリョーマを好きだと言えるか、とたきつけたな。」
雨の夜、繁華街での騒動が一瞬にして景吾の脳裏に呼び戻された。水気を含んだ空気の中で丸く煌めく明かりが美しい夜だった。あの時の清々しさは全く今の弦一郎には感じ取れず、それに気付いた景吾は言われる前から険しく目を釣り上げた。
「今はもう、言えそうにない。」
前唾を握って弦一郎が顔を伏せた。逃げるようなその所作に、先ほど景吾を痺れあがらせた王者の貫録も強靭さも微塵と残っていない、失望し、逆上した景吾はとうとう弦一郎の襟首を掴みあげた。
「ふざけんな!テメェ、どの口がそんな贅沢言ってやがる!あの女がどれだけお前のこと想ってるのか…。」
消えそうな語尾と共に景吾は、関東大会決勝戦直後に出くわしたリョーマの姿を思い出していた。懸命に涙を堪えて、誰かの後を追い、求める人のためについには狂ってしまった憐れな姿すら晒していた。あのときの彼女はそら恐ろしくもあり、切ないほ愛しい女だった。出来ることならこの腕のなかに閉じ込めて、嘘のような安らぎと愛情をくれてやりたいほどに。
景吾のように気位が高い人間に嫉妬などという苦しみをもたらすほど、強く想われている弦一郎がただでさえ心底、憎らしいと言うのに、何故それほど男がこのように情けない言葉を吐くのか。不可解だった。例え理由がなんであれ、景吾の自尊心がそんな理由で傷つくことは許されない。
「惚れてくれた女一人満足に想ってやれないだと…何でだ!何でテメェほどの男がその程度のことも出来ないなんて言いやがる!アイツにはテメェしかいない、分かってやれよ!」
「分からんのだ!」
揺すぶられるばかりであった弦一郎が、唐突にそう叫んだ。景吾が求めた理解を真っ向から否定した弦一郎は、それこそ泣きそうにひどく顔を歪めていた。それから間髪入れず掴みあげてくる景吾の手を払いのけた。しかし堪えようもなかったのか、よろめくように一、二歩後ずさると、景吾を追い払った頼りないその手で、弦一郎は目元と額を一挙に覆った。
「あいつが何をしたいのか、俺には分からない。側にいて、守ってやりたいと、そう願っているのに、俺だって狂おしいほどあいつが欲しいのに、急に、それが恐ろしく感じる。あいつがまるで独り歩きしているようで、俺を置き去りにして、俺の知らないものになり果てて、なのにそのままあいつは俺を求め続ける。……誰なのだ、あれは!」
答えなど得られるはずがないと分かっていても、そう聞かずにはおれなかった。あやふやな不安の吐露は弱音にしか聞こえず、格好悪さを噛みしめて、弦一郎は、畜生、と呟いた。けれども明確な疑問もあった。リョーマに対してずっと抱き続けてきた違和感、つまり子どもの頃から見知っているはずなのに、絶対に信頼を抱くことのできないもどかしさだ。そしてそこから見えたリョーマという人間の辻褄が合わない部分。記憶の中のリョーマと目の前にいるリョーマの、何かが違う。年月がそうさせたと考えるにはどうしても納得がいかない。そんな気持ちの悪い感覚が弦一郎の中で渦巻いていた。
だから、それを一番強く感じてしまったあの夜、リョーマを侮蔑するような目で見てしまった。そのような言葉を吐いてしまった。そしてそれに勘付いてしまったらしい彼女から逃げた。堪え切れない後ろめたさから目を背けたくて、ただ手近だった少女に身をゆだねてしまった。翻弄されてしまった事実が悔しく、抗えず、情けなさを覆い隠そうと弦一郎は我武者羅にテニスに打ち込んだ。けれどもそんな数日は苛立ちが募るだけで何の意味もなかった。
初めての恋なのに、好きで好きで仕方のない女なのに、どうして分かってやれないのだろう。
何がいけなかったのだろう。
いつ、どこで、自分は間違えてしまったのだろう。
「叱ってくれるなら、いっそ教えてくれないか、跡部。」
そんな無茶なことを言って苦笑した。景吾はさっきから一言も喋らない。当然だろう。何の事情も知らない彼にとって弦一郎の苦しみなどただの世迷言にしか聞こえまい。どんなに愚痴を零したところで何も変わらない。何も変わらないまま、こじれて、崩れて、いつか消えるんだと諦めがついたらこの想いも消えてしまうに違いない。今はもうそれを待つことしかできない。そんな風に悟っていた弦一郎はまったく途方に暮れていた。
彼のそのような姿は、本当に、景吾には腹が立つばかりの馬鹿馬鹿しさであった。
「いい加減にしやがれ……。」
静かな怒りだった。元よりドスの利いたところのある声をした景吾である。その声の凄みが増すほどに、絶望の淵に立っているような顔をしていた弦一郎すら、面を上げた。景吾は、何故だか悔しそうな顔をしてこう言った。
「さっきから黙って聞いてりゃ、分からねえ分からねえの一点張りじゃねえか。びーびー泣くだけの迷子と大差ねえ。」
「な、んだと……!」
酷い形容にカッとなった弦一郎が詰め寄ると、むしろ景吾から弦一郎にぐっと歩み寄った。息のかかるような距離で見た景吾の瞳は本当に綺麗な青色をしていた。冷たいが、吸い込まれるような、少し早い時季の浅い海の色だと思った。襲ってきた懐かしさにまた弦一郎が後ずさりそうになると、彼の襟を掴んで景吾は離さなかった。
「逃げんなっつっただろうが。教えろだと?上等だ。お望み通り教えてやるよ、お前が分からないことを、いや、忘れちまったことをよ。」
忘れた、と弦一郎が不可思議そうに反復した。そんなものに心当たりはなかった。
忘れていることなど何一つない。あるはずが、否、あってはならない。
だから、聞いてはいけない。この男がこれから言おうとしていることを、自分は聞いてはならない。
無意識に、やめろ、と呟いて首を横に振っていた。弦一郎の青ざめた表情に、景吾は非情で、温かい色をあの青い瞳に宿した。語りかけた声も宥めるように優しく、しかし甘さのない突き放すような強さがあった。
「もうやめろ。忘れたふりして、堂々巡りの甘ったるい夢見んのは。」
襟を離した景吾の手がとん、と弦一郎の肩を叩いた。
それは分厚くて屈強な肩だ。叩かれたことに微動だにしない自身を見て、弦一郎は少しずつ、理解が頭の中を侵食していくのを感じた。
自分は強くなった。
当然だ。今までずっと、一生懸命、強くなろうと努めてきたのだから。
では何故、自分は頑張ってきたのだろう。
例えば、小学校6年生の夏に味わったあの敗北の悔しさ。それを理由にしたのも嘘ではない。けれどあれは偶然にすぎなかった。あの日、彼が現れて、弦一郎を打ち負かした。たまたまあのタイミングがよかっただけにすぎない。あのとき以前の、僅かな間、強さを求めた弦一郎の理由は違っていた。それはむしろ、守れる強さであったり、堪えられる強さであったりした。無力は嫌いなのだ。ただ指を咥えて見ているしか出来ないような、そんな思いを二度と味わいたくない。どんな現実も、どんな悲劇も受け止めて生きていきたい。きっとそんな大人になって見せる。

だからそれまでの間、あと十年もあるかないか分からない刹那のような時間だけ、どうか夢を見させてほしい。ただひらすら強さのために強さだけ求める無邪気な少年でいたい。
あの日、急に、ひとりだけ大人になってしまった君に追いつくまで。
いつか君との本当の初恋に戻るその日まで。


――――――

立海サイドと四天宝寺サイドのこの温度差!



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