53.Thus the girls easily lost their temper.


※ゴンタクレプリンセス登場



リョーマはぱちぱちとその丸く、釣り上った大きな瞳を瞬かせた。普段より見開かれた目の上を瞼が行き来する様は年相応の幼さを存分に振りまいて愛らしかったのだが、そんな可愛らしい瞳が映すのは悪鬼のように不穏なオーラを振りまく一人の少女であった。

センターコートを堂々と構えたこのドームでは、準決勝の一試合、四天宝寺中学校対青春学園の団体戦が催され、それもついさっき幕を閉じた。結果は青学の三勝一敗、天才と呼ばれる不二周助の敗北はチームに多大なる衝撃を与えたものの、彼の志を継いだ部員たちによって無事勝利を収めることとなった。しかしながら四天宝寺中が強敵であったことに変わりはなく、また彼らが正統なスポーツマンシップに則って快い戦いを挑んでくれたことも事実である。挨拶は既に済ませたが、両校の生徒は自然と歩み寄り、各々戦友として歓談を始めていた。絵に描いたように爽やかで、和やかなその空気を引き裂いたのが、他ならぬあの少女なのであった。
それは燃えるような赤髪の乱舞と共に現れた。小柄な体からは想像もできないような逞しい足音をたて、彼女は全員の頭上からセンターコート内へ降ってきた。降ってきたのである。言い繕いようもない見事な飛び降りっぷりで、皆度肝を抜かれるより先に感心するほどの跳躍であった。けれども真っ先に正気に返った四天宝寺中の部長、白石蔵ノ介が面持ちからは想像出来ないような大きな声を上げた。
「き、金ちゃん…!どないしたん、試合は…!」
叫びつつ抜かりのない蔵ノ介は金ちゃん、と呼んだ少女のふありと巻きあがったスカートを素早い手つきで押さえつけた。といってもその下には黒いスパッツを着用しているので大事なものは元より守られているが、彼にはそれでも足りないくらいなのだろうことが必死な形相から窺えた。一方の「金ちゃん」なる少女はそんな蔵ノ介の親心に何の感動も抱くことがなかったらしく、むしろ不機嫌そうな瞳をジロッと背後の彼に投げつけていた。彼女に対する予備知識のない青学陣から見てもなかなか凄みのある睨みであることが見てとれた。四天宝寺中のメンバーはそれに慣れている様子で、口々にやはり蔵ノ介と同じような言葉を彼女へかけ、金ちゃん、とか、金太郎さん、とか親しみ深そうに名前を呼んでいた。
リョーマはと言えば、彼女はまったくの傍観者であった。何せこの団体戦は本来彼女には皆無と言っていいほど関係のないもので、それは彼女の性別が最たる原因である。それに大人しくしている、というのはスミレに監視されているためでもあった。リョーマが今こうして久しぶりに青学の面子と肩を並べているのも、スミレの監督の下なら、という父親の数少ない譲歩のおかげである。
竜崎桜乃と小坂田朋香を伴った失踪まがいの冒険は、やはり痛く父親の叱責を買う事態であった。家に帰りついたのも夜中近く、恐らくリョーマは人生で初めて父親にぶたれた。別段それは彼女にとって不思議ではなく、当然のこととして受け入れ、珍しくも素直に「ごめんなさい」と呟いた。ぶるぶると震える両手でリョーマの肩を掴み、玄関で崩れ落ちた父親はどんなに娘のことを心配していただろうか。想像に難くなく、また同時に推し量りきれないことをリョーマは切々と感じていた。南次郎の後ろで佇んでいた母親や菜々子も心なしか涙ぐんでいた。桜乃も朋香も真っ青になって泣きながら謝り倒していた。皆泣いていた。泣いていないのはリョーマだけだった。ありがとう、もう大丈夫だから、と言って微笑むくらいには、リョーマの涙は枯れていた。
そして再び戻ってきた青学の仲間たちと共に過ごす空虚な夏が数日過ぎた。相変わらず彼らは優しく、温かく、リョーマがちょっと無茶なことをしたり言ったりしても苦笑や心ある諫言で受け止めてくれた。そのような対応には帰ってきたという実感が湧く反面、守られるだけのぬるま湯のように感じてしまう瞬間が前より増えた。青学の皆と過ごすだけの狭くて優しい時間を享受するとそれだけ、反動のように少し離れた空の下で同じスポーツに勤しんでいるだろう彼が、一体何を思っていて、誰と一緒にいるか、偲ばれて仕方なかった。しかしそれも心中のことに過ぎず、実際には特別取り乱すこともなければ、何か突飛な行動を起こすこともない。周りから見れば本当にリョーマはもう大丈夫であった。前とは比べ物にならないほど、弦一郎への想いが募るのに、ただ今のリョーマには何をすればいいかが、どうしても分からない。だから鬱屈とした日々がただ過ぎる一方であった。
そんな何もかも分からなくて塞ぎこんでいるところへ、もっと分からないものが降ってきた。観客席からそれを見ていたリョーマには、あの赤い髪の少女が客席にある通路口から射出していったのも見えていたし、目下蔵ノ介をねめつけているのもしかりと見えていた。そして口々に四天宝寺中の人たちが彼女を「金太郎」と呼ぶのも、ついには耳に届いた。まるで絵本で読んだ昔話の主人公の名前である。けれどあれは確か男の子で、だから金太郎というのは男の子の名前で、しかしコートの中の彼女は真っ白なスカートをはいている。
「…変な名前。」
自分のことはさておき、そうリョーマが興味なく呟いた。そのとき、金太郎が睨みの対象をリョーマへとぐりっと変えた。まさに、殺気。リョーマは彼女の視線にビリっと全身が戦慄くのを感じた。久しく感じていないが知っている感情が寝たくを起こされて不機嫌だ。咄嗟に同じくらいの強さで睨み返すと、金太郎は上気した頬でにやりと笑った。
「見つけたでぇ…コシマエ!うちと勝負せぇ!」
背中に背負っていた袋からさっと取り出したのは年季の入った木製のラケットで、それを振りかざした金太郎は真っ直ぐリョーマを指してみせた。どこからどう見ても立派な挑発であり、また場も空気も弁えていないその挙動に誰もが唖然と目を剥いた。
「ちょ、待ちぃや金ちゃん!試合は構んけどまさか、今ここでなんて、言わん、よな?」
蔵ノ介が顔面蒼白で恐る恐る目の前の金太郎の背中に問いかけた。彼は金太郎の熱の入りようから嫌な予感がしたのだろう。勿論振り向いた金太郎は凄みの増したふくれっ面で、当然やんけ、と返す。そしてリョーマへとまたひどい剣幕で振り返った。
「今すぐや!降りてこんかーい!」
「やっぱりかー!」
途端に、ぎゃーっと喚きだした四天宝寺メンバーたちは、どうしよう、どうしよう、とおろおろお互いの顔を見合わせてはオーバーリアクションで慌てっぷりを振りまき始めてしまう。変わらず呆然と事の成り行きを見守っていた青学陣であったが、渦中のリョーマはさっくり、ヤダ、と気まぐれに答えた。すると逆上した金太郎は何か色々恐ろしげな罵声を吐きながらリョーマへ突進しようとする。当然彼らは四天宝寺中の人々と共に大慌てで彼女を取り押さえにかかった。
リョーマはそれすら冷めた目で見ていた。馬鹿らしい。確かに先ほど、昼の休憩中に出くわした四天宝寺中の白石蔵ノ介に試合の依頼をされて、そのときは快諾した。しかしあんな不快な人間と、とは聞いていない。リョーマの冷たい一言に歯を剥いて、足をあげ、大柄な少年たち数人に掴まれてもじりじりリョーマの方へ進んでくるような野蛮人の挑発に、誰が乗ってなどやるものか。つん、と顔を背けたリョーマは知らんぷりを決め込んだが、耳へは次から次へと金太郎の文句が飛び込んでくる。
「コシマエのアホ―!ボケー!カスー!女のカザカミにも置けんやつやな、この臆病もーん!お前なんかうちにかかったらどつきまわされてボロクソやわ!悔しかったらラケット持ってみーや、洗濯板〜!」
彼女もまた人のことを言えた義理ではないのだが、最後の一言と言われ放題の現状にリョーマのこめかみがぴくりと疼いた。帽子の前唾で出来る影以上の暗さが目元を翳らせ、すうっと立ち上がったリョーマは流れるような動作で脇に置いていたバッグからラケットを一振り、取りだした。
「さっきからギャーギャーうるさいんだけど…ちょっと黙ってくんない?」
不敵な笑みが言葉よりもはっきりと、むしろ黙らせてやる、と雄弁に語っていた。下方で金太郎を押さえていた一人の大石秀一郎の顔がひぃっと言ってひきつり、二本の前髪が飛びあがってよれよれと萎れた。優雅に階段を下りてくるリョーマは、久方ぶりに臨戦態勢に入っており、その活気に満ちた姿は喜ばしい反面恐ろしかった。それもそのはずで、近頃鬱憤をため込むばかりで、感情すら吐き出していないリョーマはテニスも感覚を失わない程度にしか嗜んでいない。つまりストレスたまりまくりである。そこへちょうどいい馬鹿が転がり込んできた。何て叩き潰し甲斐があるのだろうか!
とうとう金太郎の目の前までやってきたリョーマが、あっはっは、と全然笑っていないが実に愉しそうな声を上げる。するとつられて金太郎も、へっへっへ、とリョーマへガンくれながら同じような声を上げる。それすら張りあいになり、どんどん笑い声が大きく、ドームの天井まで叩いて反響を始め、ついには全員の鼓膜が痛いほどの腹筋を全力で駆使した高笑いに転じてしまう。あーははは!だの、なーははは!、だの年頃の見目愛らしい少女たちがもらすにはまったく幻滅甚だしい叫喚がぐるぐる会場を駆け巡る。全員の中からこの二人を止めるという思考の無力さが次第に駄々漏れていった。
かくして、異色の、男子の団体戦であるにも関らず、何故か女子対女子の熾烈な第六試合は始まったのである。


――――――

べさまと試合ができないので高笑いもらいました。



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