52.The boy holding a key to the truth.


全国大会も準決勝に到り、四強と呼べる学校がついに高々とその名を掲げていた。この日のプログラムは午前に、前日雨で中断を余儀なくされた青春学園対氷帝学園の準々決勝、第四試合、及び第五試合が行われ、それによって四強は大阪代表の四天宝寺中学校、東京代表の青春学園、愛知代表の名古屋星徳中学校、そして神奈川代表の立海大付属中学校に絞られた。
しかしながら息つく間もなく、午後からは四強同士のせめぎ合いたる準決勝が幕開けを待っている。対戦カードは四天宝寺中学校対青春学園、そして名古屋星徳中学校対立海大付属中学校である。後者の対戦は屋外のテニスコートで催されることとなっており、炎天下ではあったが既に選手たちが揃いつつあるその場には季節がもたらす音と緊張を含んだ観衆の静かなざわめきだけが漂っていた。
戦場としてはふさわしい様である。ウォームアップから戻ってきた部員たちに混じって、弦一郎は仮初の穏やかな精神をその場の緊張感で引き締めた。恐らく、準決勝程度の試合に臨むのには、嘘で固めた平静の心で間に合うだろう。何よりテニスに私情は挟まないのが信条だ。たとえ周りから見ても、自分でも、弦一郎の心がバラバラに崩壊しかけているのが感じられようとも、今は騙すより他ないのだ。勝利の栄光、宿敵との再戦、どちらも彼の野心が激しく求めているのに違いはなかった。だからそういう意味では、何があっても試合に参加し、勝つことに何の疑問も不安もない。
そろそろだな、と誰かが言った。静かな声音のそれに呼応して、ばらばらと座っていたり少し離れたところにいたりしていた者たちが同じ扉へと吸い込まれ始める。フェンスに覆われたその扉をくぐれば、弦一郎の迷いもきっと隠れる。束の間、忘れられる。不思議と足が急いだ。まるで浮足立っているようで、その証拠に、平素ならありえないだろう、弦一郎は高飛車な声に呼び止められた。扉はくぐれなかった。その寸前で凍りついたように動かなくなった足を軸にして、上体だけ軽く捻って振り返る。
「何だ?その情けねえ面は。」
接戦の痕が隠せない、上気した顔はそれでも変わらない美貌を備えていた。見紛うはずもない、灰褐色の髪に青い瞳が冷ややかで、より彼に高貴な雰囲気を纏わせている。
「…何か用か、跡部。」
思ったより落ち着いた声で弦一郎がそう問い返せたのは、息が上がっていて、よく見れば汗も拭いきれていない、景吾の珍しい姿を目にしたほのかな驚きのおかげであった。それで我に帰った弦一郎は、彼の様子すら、なるほど、と冷静に勘付くことが出来た。
「負けたのか。」
「だったら何だってんだ。」
ふん、とニヒルに笑ってみせたところを見る限り、死力の限りを尽くしたようであり、彼にとっては最早勝敗云々ではない試合だったのであろう。挑発的な問いかけには、いや、と適当な相槌で答え、弦一郎は改めて景吾を振り返った。
「悪いが俺はこれから試合がある。用なら…。」
「ああ、試合の後でいい。だから絶対に逃げんじゃねえぞ。」
いやに強い語気に弦一郎は眉を顰めた。けれども睨もうが凄もうが景吾の揺るぎない瞳にこもる意志は恐ろしく固い。試合の直前に他校の選手に声をかけるなどという、一見愚行とも思えることをしたのには、それ相応の理由があると見て取れた。信念や決意のある者を蔑にする気は毛頭なく、弦一郎は訳が分からないながらに深く頷いた。
それを見て景吾が深い笑みを浮かべた直後、二人のもとにふわりとした風が緩く吹き付けた。驚いて見やれば膝に軽く手をついて地面へ顔を向けた頭がふうふう、と小さく上下していた。微かにうねる青い髪が揺らめけば紅梅の芳しさを思い起こさせるような紅潮を湛えた笑顔が浮いた。
「よかった…間に合ったみたいで。」
景吾は目を見張った。それはこの場に突如としてこの少女が、幸村が現れたことに対してでもあったし、先ほどまで毅然とした態度で景吾に相対していた弦一郎が、彼女の出現で脆い表情を刹那、見せたためでもあった。
「早かったな、幸村。勝ったのか。」
途端幸村へ向き合った弦一郎は、景吾の位置からでは帽子の唾で目元が見えなくなる。少しだけ笑っているようにも見えた。
「素っ飛んで来たんだ。勝ったのか、なんてわざわざ聞かないでよ。」
ふふ、などと愛らしく艶やかに微笑んでいながら威圧的な一言だ。なるほど、三年間中学女子テニス界の頂点に君臨し続ける女とはかくも強かなものか。景吾が嫌そうに眼を細めると、まるで彼などいないかのように幸村は弦一郎の背後に回った。
「ほらほら、これから試合だろ。頑張ってよ、大将。」
俄かに動揺して、有耶無耶な声を上げた弦一郎であったが、フェンスの向こうに押し出されると、すっと冷静になったようである。試合慣れした男の習慣のようなものだろう。落ち着き払って一度だけ振り返った彼に、幸村はフェンスに張り付いてにこにこと笑い、手を振った。若干照れ臭そうに俯いた弦一郎は、前を向くと選手たちが控えているベンチ際へ迷いなくすたすたと歩き去った。
外に残された景吾は、今はもう手を下ろし、うっとりと見送った男の背を見つめる少女にきつい眼差しを向けていた。そう関りのある人ではないが、こうもすっきり存在を無視されるのは景吾の誰よりも高いプライドが許さない。ずかずかと不躾にフェンス際まで歩いて行くと、景吾は幸村の視界を塞ぐように、彼女の真横に立ち並んだ。
「…邪魔だなあ。」
不満そうな声に隣を見下ろすと、幸村が白けた瞳で見上げているのにかちあった。思わず景吾は舌を打った。
「この俺様にそんな口を聞く女がこの世に、二人もいるとはな。」
「二人?」
言い淀んだ後、景吾が口にした数に案の定幸村が関心を持った。しかし答えてやる気もさらさらなく、景吾はフェンス越しにコートを睨んだ。真夏の強烈な陽光で眩しく光るそこに何本もの影が立つ。既に両校選手が整列、対峙していた。気力の充実した挨拶が空気を震わせるのを、どこか遠くのことのように思いながら、景吾はちらりと横目に隣の少女の様子を窺った。先ほど景吾に向けたものとは打って変わって、穏やかで、熱のこもった優しい目をしていた。凛とした横顔には大人びた空気が漂っており、美人というより麗人と言いたくなる容貌は見ていて気分の悪いものではない。ところがある一点を映した瞳だけは訳が違った。
それは情熱や優しさ以上のものを多分に孕んでいた。挙げればきりがないが、支配欲や優越感や劣情の片鱗すら浮かべたときには、その執着の色濃さにぞっとしなかった。十五の少女の割に随分熟れた想いだ。
「ったく、テメェも趣味が悪いんだな。」
「え、何か言った?」
またもや景吾の存在を忘れていたらしい一言に、ひくりとこめかみが疼いた。慣れているような、それでいてまた性質が違う腹立ちが湧いて、組んだ腕にぐっと力を入れて景吾はなるべく冷静な声で再度尋ねた。
「…だから、テメぇもあんな時代錯誤がお気に入りなんだろっつってんだよ。」
「テメェも、って…えっ。」
緊迫した幸村の声に、多少驚いて景吾は彼女へ顔を向けた。そこにはやはり驚愕の表情、というよりどこか嫌悪や好奇心のない交ぜになった複雑な表情が控えており、口元へ白魚のような手を宛がった彼女は、何やら憐れみを含んだ声で、そうなんだ、などと漏らした。
「あ?何だよ。」
景吾が不可解な幸村の態度に不機嫌さを露わにして問いかけると、ややあって伏し目がちに彼女がこう答えた。
「…いや、跡部って意外とそういうシュミなんだなって…。」
でも真田はキツいだろ、と妙に頬を染めた幸村の興味津々な目で見上げられ、一瞬瞠目したあと、景吾は激昂した。
「じょ、冗談じゃねえッ!」
怒鳴りつけると驚いた幸村が、ひゃっ、と言って首を引っ込めた。いっそ怒りのままその場を立ち去ってしまいたかったが、弦一郎との約束の手前それは適わず、くさくさした気持ちのまま景吾はひどく顔を歪めるにとどめた。
一方、きゅっと目を瞑っていた幸村はすっとそれを開いた。勿論さっきのはただの冗談で、怒鳴られてやったのも余興にすぎない。驚いてみせたのもとりあえず合わせただけで心は冷静だった。というのも幸村の関心事の実態は先ほどの猿芝居の驚きに潜めた本当の驚きであった。口角を微かに上向けて幸村はまたコートの方を向いた。いっそこの男、利用できまいか、と彼女に優るとも劣らない、今は少し台無しの感が張り付いている美しい横顔を見上げた。
「ねえ、君が越前リョーマのことを好きって、本当?」
くしゃりと歪めていた景吾の顔が、瞬時に解けた。僅かに驚いた表情で幸村を見下ろした彼は、屈託のない微笑を浮かべた少女をその瞳に映しとった。
「…何で知ってんだ。」
「え、有名じゃない?風の噂ってやつだよ。」
ほう、と相槌を打った景吾はどうやら納得したようであった。何事も派手な彼であるからして、幸村の提示した理由には納得がいったのだろうし、彼の自尊心がくすぐられるところもあったのだろう。男は得てしてそういうところがあるものだ。密やかにその単純さを、くすり、と笑って幸村は肩にかけているジャージを軽く引き寄せた。
「いいんじゃない。お似合いだよ。彼女、なかなか可愛いし、君と並んだら絵になるよ。」
持ち上げる言葉を連ねに連ねて幸村はにっこりとほほ笑んだ。彼女を見下ろす景吾も実に満足そうな表情を浮かべており、今にも高笑いのひとつでも上げて颯爽と意中の少女を射止めにかかっていきそうに見えた。軽く景吾が顎を上げた。わざとへりくだった幸村を、彼はあえて目一杯見下してみせた。
「都合の良さそうな男に媚び売って満足か。」
いつもの高飛車なトーンのようで、実は冷淡な一声に幸村は笑顔が凍りついてしまい、中途半端に笑っていない瞳だけを開いた。目の前には潔白とした、本当に高貴な者の威風堂々たる姿が聳えており、思わず幸村は半歩後ずさった。
「…何だい。」
声の質を硬くして、身構えるように尋ねた幸村を景吾は鼻で笑った。
「面の皮が厚いかと思ったら案外脆いもんだな。その方がよっぽど可愛げあるぜ。」
「…悪いけど君は私の趣味じゃない。」
口元でにやりと笑いかけたが、幸村の虚勢を景吾は見透かしていた。また軽く笑ってやると、ゆったり前髪を掻きあげた彼は息を吐いて、途端に甘さも情けも捨てた冷厳を彼女へ突き付けた。
「そんなもんこっちから願い下げだ。俺様は潔癖なんでな、テメェよりずっと純な女が好きなんだ。」
「よく言うよ。あの子が純かどうかなんて、本当は知らないくせに。」
してやったりという風に幸村が醜悪な色を瞳に浮かべた。その笑顔が物悲しく思えて景吾は目を伏せた。純というなら確かにこの少女もそうなのかもしれない。純が過ぎて、どこか狂ってしまっただけの、なれの果てだというなら愛しいものだ。あの少女だって、自分が愛したあの子だってそうだったのだから。
「知ってる。事実は全て、な。」
伏し目のままでいた景吾には見えなかったが、確かに幸村が息を呑む音が聞こえた。それ以上彼女の悲痛さを見守ることはせず、景吾は劣勢極める立海大付属中の攻防を見つめた。既にダブルス二戦が敗北、観衆がは絶望の色を呈していたが景吾の目には白々しさが手に取るように分かった。追い詰められた二年生エースの覚醒まで、もう秒読みだ。
「どうして…。」
幸村は静かに佇む少年の言葉が受け入れられずに震えていた。彼の横顔は穏やかで、瞳には慈愛が甘く潤んでいた。奥に潜む消えない情熱の火は灯したままで、だから幸村には余計景吾の心が推し量れない。
「全て知っていてどうして…。」
頬を叩きつけるような悲嘆を、景吾は瞳を閉じて受け止めた。隣で、愛する男にしがみつきたいばかりに画策しているようで、その実どうしようもない真実に溺れて喘いでいるだけの彼女に憐憫の情がわいた。ふ、と小さく彼は笑った。
「馬鹿な女だな、お前。この俺様が惚れたんだぜ?たとえ蛇が出ようが鬼が出ようが、それがあいつである限り揺らぐはずがねえんだよ。きっと、」
あいつもな、と呟くとコートの周囲に犇めく人々から大きな歓声が上がった。それに幸村の絶叫はかき消された。唯一側でそれを聞いていた景吾が慄いて彼女の方を向いたが、靴音すらどよめきに呑まれており、もうすっかり幸村の姿も行く末も窺い知る余地すらなかった。女によくあるヒステリーか、などとざわつく胸を治めつつ、再びコートを振り返った景吾は目を見張った。
鮮血を散らしながらゆらゆらとコートの中心を歩く少年がひとり、悪魔に生まれ変わった、まさにそのときであった。


――――――

べさまお久しぶりです。



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