51.Another war of love comes again!


大会本部で受付を任されている青年が、ふう、と額を拭った。顔を上げれば、白いテントの端から漏れて降り注ぐ陽光に思わず目を細める。彼がそのまま目を閉じると、再び額に滲み出てしまう汗を感じた。びゅん、と吹いた風もまた涼しくない。快晴なのは大会運営上大変よろしいのだが、人の体にはあまり快いものではない。
さて、目を開くと書類が数枚宙を舞っていた。さっき吹き抜けた風のせいだろうか。
「あーあー。」
拾えもしないと分かっていても青年の手が伸びた。それと同時に視界の隅から、にょ、と二本の細腕が伸びてきて、難なく紙を鷲掴んでくれた。くしゃ、という音が耳に障る。少しだけ表情を顰めた彼が腕の主を見ると、彼の好まない暑気を煽る、燃えるような赤色がふわふわと踊っていた。
「堪忍やで、にーちゃん。うち、急いどったから。」
二カッ、と笑ったのは幼顔だった。とっさに大人らしく、いいよ、とか、ありがとう、とか彼は言ってみた。それは実際、その子供の笑顔が人好きのするようなものであったからだし、少々不謹慎な話ではあるが、先ほどから何かにつけ大きく動くその子の太股の上で、ひらひらゆらゆらする短いスカートのおかげでもあった。
しかしそれを悠長に眺めていることは出来なかった。本当に、よほど急いでいたのだろう。書類を青年の手に押し込めるや否や、少女は、ほな、などと元気に別れの言葉を告げ、踵を返すとつむじ風のように、あっという間に消え去ってしまったのだ。そのスピードたるや、驚異的な脚力の持ち主であることが窺える。驚嘆してぼうっとしていた彼は、声をかけられてはっとした。ここは大会本部である。まだ選手登録を済ませていない者たちは続々と押し寄せてきていた。くしゃくしゃにされた紙を必死に延ばして、彼は手続きを黙々とこなし始めた。そして仕事に立ち返って、ふと思い出す。今の少女が羽織っていた、黄色と黄緑色の二色で爽やかに仕立てられたジャージ。あれは、そうだ。あの女の子も関西弁で喋っていたし、間違いない。あのジャージは大阪の、

「…四天宝寺中の人?」
人の腕に支えられながらにも関らず、不躾にそう尋ねてきた少女に白石蔵ノ介は仰天した。仰天したが、笑顔は崩さなかった。何故ならば腕の中にいる彼女が何者であるか、彼にはすぐ察しがついたからである。
白い帽子がトレードマーク、青春学園の青と白で彩られた爽快なジャージは少々大きめで、彼女の体の小ささを余計感じさせた。咄嗟に抱きかかえた体は、アスリートの筋力を持つ蔵ノ介には軽いもので、同時に柔らかい手応えで自身の手で抱える人が女性だと確信した。つまり、青学のレギュラージャージを着られる女子に心当たりがあった。
「ああ、確かに俺は四天宝寺中のモンや。君は青学の越前リョーマさん、やな?」
無駄な言葉も所作もなく、蔵ノ介は倒れかけていたリョーマの体を真っ直ぐ立たせてやった。丁寧な対応と、さっと離れてくれた手に警戒心を緩めたのか、リョーマは帽子の唾を軽く握ってしっかり蔵ノ介の顔を見上げた。
「そうだけど、何で?」
問いかけた相手の、灰色がかって、蕩けるように薄い茶色の毛色が夏の日差しにつやつや照りかえって眩しかった。目つきや輪郭は少し尖った印象もあるが、表情は穏やかで大人びている。彼が美男子であることはリョーマの目にも一目瞭然であった。一方で帽子の陰に覗く顔立ちに蔵ノ介も感心していた。一見少年の出で立ちであったため、最初は倒錯的かとも思われたが、こうして近くでまじまじと見れば越前リョーマというのは随分と綺麗な少女であった。先っぽでくるりと丸まった睫毛が微笑ましいほど愛くるしい。これを少年と思ったら、そいつはよほど鈍いか、馬鹿かの二択でしかあるまい。どちらにしろ失礼な話だ。
「風の噂っちゅうやつでな。それにウチの部員でえらい君と試合したがっとんのがおんねん。」
試合、と聞いてリョーマの目の色が変わった。近頃はめっきりその機会を得ることができず、鬱憤が溜まっていたところである。にやっと笑い、リョーマは蔵ノ介から与えられた情報に食いついた。
「へえ、面白いじゃん。俺はいいよ。どこにいんの、そいつ?」
「ちょっと待ちぃや。誰も今すぐ試合してくれとは言っとらんで。」
え、と非難の声を上げ、一変して眉を顰めたリョーマに蔵ノ介は苦笑した。
「思わせぶりに聞こえたんやったら堪忍な。けどアカンねや、そいつ今大会に参加しとるさかい。」
「ああ…そーゆーこと。」
納得したのかあっさり平静な顔つきに戻ったリョーマが、これまた興味を無くしたのかあっさり背を向けた。それにまたぎょっとして蔵ノ介は軽く手を翳して声を張った。
「やけど大会終わったら、寧ろぜひ頼むわ。」
「は?別にいいけど…。」
逆に食いつかれて驚いたリョーマは足を止めた。振り向いた彼女は怪訝な雰囲気を振りまいたものの、ひとまず了承されたことにほっとした蔵ノ介は、おおきに、と言って笑顔を見せた。それがまるで我がことのように嬉しそうで、余計不審がったリョーマはぶっきらぼうに聞いた。
「随分必死だね。部員のことでしょ?だったらそいつが俺に言えばいいじゃん。」
「あー、そらまあ、そうなんやけど…折角君と話せた機会逃したらあの子に悪いしなあ…。」
最後はまるで独り言のように呟いた蔵ノ介が、少し幼い表情で微笑んでいた。いっそ照れているように頬を指で描く様がやはり不思議だ。とは言えこうして部員に骨身を惜しまず世話を焼いてくれる人には、リョーマも心当たりがないわけではない。そういうものか、とぼんやり感心した。
「…かわいがってんだね、その人のこと。後輩?」
今一つ煮え切らない回答に立ち去ることが出来ず、リョーマが少し掘り下げて聞き直したとき、蔵ノ介の背後で遠くから彼を呼ぶ声がした。
「あ…アカン、もうこんな時間か。君も先輩らんとこはよ帰り。」
急に忙しい態度を取った蔵ノ介が駆けだそうとするので、慌ててリョーマは呼びとめようとした。けれども蔵ノ介の方が先に去りがてら、こう声をかけてきた。
「試合のこと、ほんまおおきにな!うちのゴンタクレプリンセスもごっつ喜ぶわ!」
さっと手を振って、結局蔵ノ介はリョーマの制止もよそに走り去ってしまった。
ジリジリと背中を叩く日射で出来た、目前の真っ黒な影を不満そうに見下ろし、リョーマは、小首を傾げた。
「ゴンタクレプリンセスって、何……。」
よく分からない口約束というのは何とも腑に落ちない。しかし蔵ノ介が急いでいたように、そろそろリョーマの先輩たちも敵情視察に向かう頃だ。まさに敵とは今出会った彼が所属する四天宝寺中学のことであり、観戦するのはかつて青学が雌雄を交えた不動峰中学との対戦である。見ない手はなく、肩を竦めることで色々を流したリョーマはてくてくと呑気に遊歩道を歩いていった。すぐ脇の茂みの中に潜む殺気には微塵も気付くことなく。


――――――

ゴンタクレプリンセスとゴンタクレ姫と無駄に迷った挙句の前者。
語呂で決めました。



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