50.May you all your best.


「ああー!リョーマ様ー!」
「リョーマちゃん!無事でよかった…!」
石垣で出来た駅の上には元気の有り余る様子の朋香と桜乃が待ち構えていた。二人はリョーマの姿を見るや否や、階段を上って来たばかりの彼女に飛びつき、おいおい泣き喚いた。
「え、なに…。」
「なに、じゃないですよー!携帯全然出ないからリョーマ様に何かあったのかと思って…。」
滝のような涙をハンカチで拭う朋香の言葉に、あ、と小さく声を上げたリョーマは複雑な顔をしてポケットをあさった。
「あのさ、竜崎、これ…。」
「え?あ…。」
ピンク色の携帯電話をおずおずと差し出された桜乃は、まだ玉のような滴がたっぷりと付いたそれとリョーマの姿を交互に見比べ、珍しいリョーマのすまなそうな顔の訳を察した。
「こ、壊れちゃっ、た…?」
「……ごめん。」
持物を返された桜乃は、いいよ、とか、気にしないで、とかいった言葉を困った笑顔で振りまいたが、結局しょぼんと俯いて眼の端に涙を浮かべた。貸しただけのつもりの携帯電話が水没した上、ご臨終して帰って来たとあっては仕方のない反応だ。覚悟していたもののさすがに申し訳なくてリョーマは再び、ごめん、と呟いた。
ところがそれを遮るように、今度は朋香が大声で、ごめんなさい、をリョーマに向けて言い放った。慄いて一歩引いたリョーマに、思い出したように桜乃も慌てて頭を下げ、訳が分からずリョーマは目を瞬かせた。やがて、ごめんなさいを連呼していた朋香が顔を上げた。
「私たち、結局ゲンイチローさんを、見つけられなくて…それで…。」
言葉尻が萎んだ朋香から桜乃へ目を移すと、そちらは携帯が駄目になったことよりも更に辛そうにしていたのでリョーマは仰天して手をかざした。
「いや、別にいい、っていうか、あの、弦一郎さんには…。」
そこまで言って、言い淀んだ。リョーマの言葉の続きを待って、揃って顔を上げた二人の前で大いに眼を泳がせていたリョーマだったが、しばらくして笑顔ともつかない苦笑で答えた。
「弦一郎さんには会えたから、いいよ。ありがとう。」
そう言ってリョーマは肩を落とし、朋香と桜乃はお互い顔を見合わせた後、歓喜してリョーマに抱きついた。よかった、よかったと我が事のようにはしゃぐ二人を受け止めながら、リョーマも薄く笑っていた。
確かに、彼とは会えた。会えて、追われて、逃げて、捕まって、抱きしめられて、話をして、キスをして、さよなら、と手を振った。それだけのことが出来たのだから満足だ。これはそういう笑顔だ。だから汗が少し滲んでしっとりした朋香と桜乃の服の肩口に顔をうずめて、リョーマはもう一度、ありがとう、と言った。
幸せな、これは本当に幸せな夢だった。
背後に錆びかけたブレーキの騒音と、重い車体の揺らぐ音がして、風が吹きさらしの駅の上を滑った。電車の扉が開いて、リョーマの体から二人のかわいらしい少女が離れて電車へ向かう。誘われてリョーマも振り返ろうとした。そして今日が終わって、明日になったらもういい加減にこの夢は終わる。子どもの頃から見続けた長い長い夢が、ついに終わるのだ。一種の安堵があった。これで終わる。もう苦しまなくていい。明日にはきっと全部忘れる。忘れられる。だから微笑もうとしたリョーマの視界に、道路の対岸で佇む二つの影が見えた。それが緩慢に、いや実際は一瞬でひとつになり、祭りの最後の花火が上がって辺りが一時昼間のように明るくなった。
全ての影を消し去って現れたのは、まだリョーマに忘れることを許さないと宣告するような光景だった。駆り立てられたのは偏に、嫉妬だ。

潮でべたつく全身が不快だった。下手な走り方をしているせいで呼吸は上がり、妙に濃く感じてしまう磯の香りが気持ち悪い。こんな体を捨ててしまえたら、いっそどんなに気分がいいだろう。けれど足は止まらず、ひどい顔をして海岸端を走り抜ける弦一郎を時たますれ違う人の中には振り返るものもあった。
誰か笑ってくれないだろうか。嘲笑でもいい、苦笑でもいい、心から笑ってくれるなら何でもいい。達観したようなあの優しさだけで貼りついた薄ら笑いをかき消してほしい。それをどうにも出来なかった自分を、どうにも出来ないと逃げ出してきた自分を、間違っていると言って笑ってほしい。
そういう気持ちでずっといたから、いざ足を止める場所まで来たとき、最初に見つけた途方に暮れる少年の背中を弦一郎は笑わなかった。喉から下手くそな呼吸の抜ける間抜けな音が繰り返し聞こえ、耳障りさに眉を顰めて弦一郎は雅治の名を呼んだ。
雅治は振り返らなかった。肩がびくりと跳ねたから驚いたには違いなかったが、それもすぐにがくんと落ちた。もどかしそうに、ふわふわとした髪を掻き毟った彼の後頭部をしばらく見つめていると、雅治の向こうからすすり泣きが聞こえた。しばらくして、ふらりと雅治はその場を立ち去った。何も言わず、相変わらずの猫背のまま、とても寂しそうに砂浜へ降りて行ってしまった。それをずっと目で追った後、再び視線をさっき雅治がいたところに戻せば、歩道にしゃがみ込んですんすん言っている幸村がいた。綺麗な手のひら二つで顔をすっかり覆っていたが、弦一郎が気遣いもなくずかずかと近寄ると突然彼女が叫んだ。
「来るな!あっち行け!」
大声を出して緊張の糸が切れてしまったのだろう、それからわっと盛大に幸村は泣きだした。子供っぽい言い草にぴったりの我慢しない泣き方だった。指先や手の腹や甲で何度も何度も涙を拭い、それでも拭いきれないものが良いしつらえの浴衣の膝に止め処なく落ちていく。その姿が、弦一郎にはどこか微笑ましく映った。幸村はいい。今彼女が怒っているのは容易に知れる。理由は良く分からなくても、怒っているのは明白で、ある程度慰め方だって弦一郎は心得ていた。何せ付き合いが長い。だからこういう泣き方をするときは、まず存分に泣かせてやるのが一番だと知っていて、じっと彼は待った。
勿論待っている手持無沙汰な間にやることはない。とりあえず幸村が背にしている波止場のコンクリートの上に腰かけて、弦一郎は手を開いた。そこで転がった銀細工の髪留めは、さっきリョーマに持たされたものだ。幸村のものらしいから返してやれ、とそう言われて持たされた。弦一郎の手には小さなそれを、包み込む真似をして指先で意味もなく突く。外気に晒されて次第に冷たくなってきた銀細工は、確かに幸村によく似あいそうで、女はこういうものをもらったら喜ぶのだろうな、などと考え付いた。
普通は、と何気なく付け足して思ったとき、急に弦一郎は立ち上がった。リョーマが側にいないことを、唐突に悟ったからだった。そこで慌てて自分が来た方を振り返ると、県道沿いに反対側の歩道をとぼとぼ歩いてくる小さい体躯を見つけた。寂しそうな様に歓喜した。やはり、お互い側にいないと悲しいのだ。さっきの上っ面の笑顔こそが嘘だったのだ、と混濁する意識の中で弦一郎は口角を釣り上げた。笑顔など彼は決して上手くないが、これを笑顔と呼べるならどんな嘆きの表情も笑顔と言えただろう。呪われたようにまた彼女のもとへ向かおうと足が動いたが、不意に弦一郎がだらりと下げた銀細工を持ったままの手が引っ張られた。
「行くな……、行ったら、許さない…。」
覇気のない声が下の方からそう勧告して、弦一郎が引かれ続ける腕に力を込めると、それに縋って立ち上がって幸村が彼の肩口に額を押し当ててきた。
「私に返すものがあるだろう…ねえ、真田。」
夢から無理に覚まさせられるような不快感があった。しかし左手の中に幸村の銀細工の髪留めがある事実が、仕方なしに彼を振り返らせた。
噎せ返りそうだった潮の香りが甘い匂いにふっとかき消された。それは心地よくて、さっきまでの不快感などもう露と彼の中にはない。カタン、と鳴ったのは幸村の下駄が地面に落ちた音で、背伸びを終えた彼女が恥ずかしそうに小さな唇をきゅっと横に結んだ。自分の唇に残る甘いような気がする柔らかさに気がついて、幸村、と彼女を呼んだら、本当の、ただ自分に恋焦がれているだけの少女の笑顔がそこにあった。
ついに髪留めを持たされた理由が分かったようで、弦一郎は胸にもたれかかってきた幸村に何をすることも、何を言うことも出来ずにいた。
「ねえ、真田。私は君が好きだよ。だから、どうかここにいて、あの子のところに行かないで。そうしないと君は、不幸になる。」
別れの笑顔は嫌いだ。悲しいのに、また会おう、などと口々に言ってごまかすために笑うのだから。それはよく見知った絶望の形で、特に彼女がくれた弦一郎の幸せだけを願っている虚無な笑顔は、前にも一度だけ見たことがあった。
あんな失望、もう二度と味わうものかと思っていたのに。
どうしてお前はいつも最後の最後で俺を裏切るのだ。
大の男が、と思ったがもう我慢が出来なかった。誰でもいい。だから手近だった少女を片手で引き寄せて、弦一郎はその肩に顔を埋めた。その甘い匂いは都合がいいほどに全てを隠してくれて、背に回された手が幸せそうに肌を擦る感覚が耽溺したくなるほど気持ちよく、また同時に嘔吐しそうなほど気持ちが悪かった。

――――――
次回から浪速のみんなのターン!


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