49.You are not what you used to be?


「もういい!」
リョーマの懺悔半ばで我に帰った弦一郎が、ひどく焦って、唐突にリョーマを抱きすくめた。密やかにこぼしていた涙を宙に散らしたリョーマは上背の彼の肩に顔を半分も埋めて、包まれた我が身に言葉にならないほどの悔しさと安堵を感じた。何て弱い自分、何て優しい彼。全部の罪を被った彼女をいつでもこうやって庇うのは彼だ。それが嬉しくて、けれど停滞したまま動けない自分が、彼が、悲しい。まだ、自分たちは何も出来ない子どものままなのだろうか。
「ごめんね…。」
この罪悪感はどこから湧くのだろう。腕の中のリョーマが嗚咽交じりに謝れば謝るほど、弦一郎の中には怒りにも似た後ろめたさが犇めいた。もういい、と諌めたにも関らずリョーマは謝り続ける。それが腹立たしい。
ではこの後ろめたさは何だ。嫌がっていたリョーマの腕を離さなかったことに対してか。違う。
謝られて後ろめたいのは、謝らなくていいと言いきったくせしてどこかで、それを当り前だと思ったからだ。
反吐が出る!
軟弱な思考が自分の中に存在したことに、弦一郎は慄くとともに激怒した。ぎゅっ、とリョーマを抱く腕に力がこもった。そうやって迸る感情を身体に預けると、冷静さの割り込む余地が出来た彼の心の中に、微かに答えじみたものが浮かんだ。
あのリョーマに対してのみ、決定的に親しみを抱くことが出来ないもどかしさは、どうやらその軟弱さにあるらしい。つまり、どうしてだろう、リョーマを素直に、純粋に、愛せない。
逃げられれば形振り構わず追ってしまうほど彼女への欲望は尽きないのに。
好きだと言われれば全身の血が沸騰するのではないかと思うほど嬉しいのに。
泣かれたらこの命を賭しても守りたいと思うのに。
これではまるでリョーマへ抱くこの想いが嘘であるかのようではないか。本物を装った上っ面だけの愛情を、どうして抱かなければならない。そんな生半可なものをこの真田弦一郎が何故持ち合わせるようなことがあるのか。
けれど、もしも、もしもそうなのだとしたら、辻褄は合う。
弦一郎はゆっくりリョーマの肩を掴み、彼女の体を離した。膝の上に乗って、小さな体を震わせる彼女が顔を上げて、すまなそうに、少し不思議そうに弦一郎をその大きな瞳で捉えた。潤う唇が噛みしめたせいで真っ赤だ。それが僅かな動きで彼の名を象ると、唐突に突き飛ばしてやりたくなった。生き残る理性でそれだけは堪えたものの、今弦一郎の頭の中を占めるのはこの女の顔とあの日見た幼いリョーマの顔の対比だった。同一人物に違いない、髪の色も、瞳の釣り上がり具合も、丸い頬も、小さな口元も、瓜二つなのに全然違う。
やや俯いていた顔を上げないまま、弦一郎は二重の筋がくっきりと表れた瞼を押し上げ、瞳をギロリと上向けた。額に張り付く前髪の隙間から覗いた少女はもう泣きそうな顔で彼の名前を再び呼んでいる。その姿がだんだんと、どす黒い赤で覆われていく。あまりに暗くて、赤とも判別はつかないはずなのだが、確かに彼はそれが赤いと知っていた。
そして思った。

誰だ、お前は。

ひりつくような喉の痛みは自分の限界を超えるほどの声で叫んだからだ。震える手の中の狂気を正義だと言って許した。そんなものが何の慰めになるのか、あの頃の自分にはまだ分からなかったのだろう。子どもだった。けれどそれは理由にならない。ただ善悪に境はなくて、選んだものがたまたま悪にもなるものだった。それはいい。いけなかったのは覚悟が足りなかったことだ。人を救うなどということは、そんなに簡単ではない。無知こそが唯一の悪に思えた。彼は、ただ非力だった。

海面が緑に光る。今度打ち上がった花火もまた奇抜で美しい色をしていて、音だけで忍び寄っては引いていく海の姿を時々露わにしてはつれなく消えた。
雅治は花火が嫌いではない。だから海沿いに随分と歩いてきた今も、飽きもせずあの大輪が打ち上がる度に一々目をくれてやっている。屋台の立ち並ぶ祭りの中心地からすっかり遠のいて、人気が減った。いいロケーションだな、と薄ぼんやり思って傍らでゆっくり歩きながらせわしなく首を巡らしている少女の着る浴衣の襟元を覗き込んでいたら、連れの気配がひとつなくなっていた。それにたった今気がついて、急に雅治の心は花火の情緒どころではなくなってしまった。焦って口元を押さえて細目を右へ左へ鋭く飛ばしたが、七三分けの眼鏡はやはりどこにもいない。なるほどさすが紳士である。パートナーの恋慕の気持ちを思いやって、素敵な場所へさしかかったところで音もなく姿を晦ましてくれたのだろう。ありがた迷惑だ馬鹿野郎、と顔を顰めると鼻先の上に皺が寄った。嫌なことがあるとしてしまう癖のような表情だから、このときも何気なくしてしまった。ほのかな笑い声が傍らから上がった。
「なに変な顔してるんだい。」
それを見られているとはさらに予想外であった。見下ろすと少しだけ嬉しそうな顔をした幸村が微笑んでいて、またひとつ上がった、今度は赤い花火でそんな表情が綺麗に見えた。おかしい、とくすくす笑い続けながら前を向いた彼女の横顔はすらりとした線でのみ出来ていて、美形であると感じると同時に、こんな麗しいものを曇らせようとしていた自分の所業を唐突に雅治は思い知った。比呂士の忠告が鮮烈に蘇り、ショックで足が止まった。小石か何かを思い切り足裏で擦ってしまい、ジャリ、という不快な音に幸村も立ち止まった。斜め後ろに来ていた雅治を緩やかに振り返った彼女は彼を急かす言葉を呟いたが、もう雅治にはこれ以上先へ行く気はなかった。何故ならば、振り返った幸村の向こうに信じられないものを見つけてしまったからだ。
嘘から出た真、と言うには不味いものだ。暗がりでも見えるあの大きな背中と山肌で見えないところにでもあるだろう街灯に照らされてほんの少しだけ青みがかって見える黒髪は、見間違うはずもなく弦一郎だ。そしてその膝に乗った小さな体は、姿こそ弦一郎に隠れてほとんど分からないが、あんな場所に居座れるのだから、思いつくの人物は世界でもたった一人と言って過言ではない。まさか、本当にここにいるとは夢にも思わなかった。騙すつもりが騙されて、因果応報などと馬鹿にしていた言葉が冷や汗になって彼のこめかみから垂れた。あまりに驚いてしまったのだ。そのせいでいつものようなポーカーフェイスも忘れて一点を見つめてしまったものだから、雅治の様子を訝った幸村が再び前を向いてしまうのも仕方のないことだった。
「……真田?」
たった一声は一挙に四人の心を大きく揺さぶった。

とぼとぼと波止場に沿って一人歩くリョーマはたくさんの後悔をその胸に抱いていた。
ポケットの中の携帯電話はもう音も鳴らなくなってしまったし、何となく察している時間は自分のような歳の子どもが出歩くには些か遅すぎるだろう。そういう軽い後悔は頭の中で所在なく浮いている。
もっと重いものには、弦一郎の膝の上から見つけた女性の名を、不用意に口にしてしまったことだ。薄い色の浴衣がとてもよく似あうあの人は真っ青な顔をしてぶるぶる震えていた。怒っているようでもあったし、絶望しているようでもあった。そんな様子であったにも関らず、リョーマは彼女の名を呼んでしまった。自分が、彼女の知る人物であると教えてしまった。きっと見当はついていただろうが、彼女の気持ちを考えると本当に、あれはただの追い打ちに過ぎなかった。だから堪えられなかった彼女は手から何かを落として走り去ってしまった。動きづらい浴衣を着ているとは思えない速度で、すぐに後を追った銀髪の少年がなかなか追いつけていなかった。
すぐ側の波が強く押し寄せてきて、激しい水音がした。呆然としていたリョーマはそれに促されるように立ち上がると、小走りに階段を上がって道に落ちていたものを拾い上げた。そこそこの重量感がある、銀色で、花が彫られた髪留めだった。微かな光に鈍く光るそれは、あの人の青が強く効いた緩やかにうねる髪の中にあったら、よく映えるに違いない。髪の短いリョーマには縁の薄いものだから、やはりこれはあの人のものだ。返してあげないといけない。
しかしリョーマにその術はない。まともに対面したこともなく、またしたとしても口すらきいてもらえる気がしない。困ったな、と首をもたげると背後に人の気配がした。振り返ると皺の付いたシャツが視界を塞いでいて、顔を上げるとこの上なく不機嫌そうな男が佇んでいた。リョーマは一拍置いてからうっすら微笑んだ。
それからその銀細工の髪留めを彼に持たせ、行ってあげて、と言って道を譲った。彼はまだ戸惑った顔を見せてくれた。そこから泣きそうな顔になって、悔しそうな顔になって、目をそらして、けれどまた目を合わせて、まだ微笑んでいるリョーマを見ると最後にひどく傷ついた顔をした。乱暴な手がリョーマの後頭部に回って齧り付くようにキスをされた。それは確かに今までで一番激しくリョーマを求めているやり方で、食いつくされるのではないかという陶酔の中、彼の首に回してしまいたい手をリョーマは必死に我慢した。そして求められても応じなかった。一方的に貪られて、それを甘受した。しつこくリョーマ自身をこじ開けようとしてきたのにも、辛くも堪えた。いっそ辛いだけ嬉しかった。辛さの分だけ、少しでも深いところから自分は彼を好きなのだと感じられたからだ。
そしてとうとう彼が諦めた。傲慢だった唇がその割にあっさりと引き、リョーマは彼の顔を見なかったが銀細工の髪留めを握る手がぎゅうっと音をたてた。短い髪を名残惜しそうに梳く手に自分の手を添えて、リョーマはそれをさっさと退かせた。俄かにそれが指を絡めて来ようとしたが、素気無く零して代わりに非情なその手を小さく左右に振った。それで終わった。半歩後ずさった彼の右足が、次の瞬間煩い足音を立てて遠のいていった。その後悔ばかりの響きにリョーマの頬に涙がひとつ伝った。熱いが軽い涙だと思った。当然だ。あんな目で見られた後では、彼へのどんな想いも、もう何物にもなり得まい。
夜道の散歩の途中、めったに車の通らない道路を横切った。普段住んでいる辺りでそんなことは決して出来ないのでなかなか貴重で面白い体験だった。しかし好奇心は強い身だが、一度きりしかやらず、リョーマはとぼとぼ歩き続けた。やがて駅が見えた。


――――――
どうしてこんなに修羅場るの。


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