48.She will give all herself to him, but he won't ever accept her.


思い出したんだ、と言ったリョーマの第一声に心の奥がひやりとした。思わず目を見張った弦一郎だったが、リョーマは伏し目がちになると、言いづらそうな雰囲気を湛えて、やがて小さく続けた。
「……レイプされたときのこと、なんだけど。」
聞かされるとまた別の感覚でぞっとした。それと同時に今の言葉を不思議に思ってしまい、弦一郎はすぐに問い返してしまった。
「忘れていた、のか。」
「…うん。最近、他にも色々思い出すんだけどね。アンタと昔遊んだこととか。」
そう付け加えたときにはリョーマが微笑んだので、そうか、と大人しい相槌だけ返して弦一郎はほっと息をついた。そのまま思い出話にでも耽ってしまいたいのが本心だが、リョーマに聞きたいのはあくまで今のことであるからそうもいかない。けれども紡ぐ言葉もすぐには思いつかず、珍しく彼がまごついていると顔も上げずリョーマが尋ねた。
「キライになった?」
試すような、それでいてからかうような軽々しさがその声に感じられて、弦一郎は思わず、何を、と問い返しそうになった。ところが寸でのところでそれを押しとどめたのは、目下話題にしていることがらに以前触れた機会がたった一度きりであったおかげだった。おそらく八割ほどの確信と二割ばかりの猜疑といったところだろう、リョーマの問いかけに腹が立つやら呆れるやら、結局吐き捨てるようにして弦一郎は答えた。
「詮無いことを…。」
バラバラと細かい火種の弾ける音が夜気の中を響き渡る。遠くの熱が額よりわずかに上の辺りを侵食し、おかげで二人とも頭はぼんやりとして冴えないような気がした。想いもまた遠くに馳せていた。海端のあの家で過ごした日々が、並んで海岸に座っている今と重なって、緩やかに舞い戻ろうとしていた。それはまた昔のことを語っているせいでもある。記憶をたどって心と向き合うと、子どもだった自分たちがそこにはっきりといた。彼らはどちらも悲しそうな顔をする。幸せを幸せとして享受できない、そんな子どもには似つかわしくない悲しい顔だ。どうした、と問いかければ一層悲しそうな顔をして手を伸ばされた。少年だった弦一郎は屈強になった彼自信へ、幼かったリョーマは弦一郎少年の体で身を隠すようにしながら美しく育った彼女自身へ、各々小さな手を差し伸べている。その手が震えているのはどうしてだろう。そしてその手を取ろうとしている今の彼らの手も、また震えているのは何故なのだろう。
切り立った崖沿いの県道に一台の車が通りがかった。それはあっという間に駅のある明るい方へと走り去ったが、海岸へ続く階段に腰掛けている弦一郎たちのすぐ後ろを横切ったために、特に弦一郎は急に現へ戻ってきた。辺りは相変わらず花火の歓声以外はひどく静かなもので、声もなく現実に引き戻された彼は静寂を乱さないように深いため息をゆっくりとついた。何だか夢を見た直後のような心地だ。実際今しがた何を思っていたかはっきりは思い出せなかった。妙だな、と首を傾げると隣で呆けているリョーマが見えた。途端に全身の血の巡る速度が何倍にもなった気がした弦一郎は絶句するしかなかった。
それは何のことはない、ただ階段に腰掛けて遥か彼方を瞳へ映しているリョーマの姿だった。けれどすっかりと見渡したその全身は先ほどの騒動の水を滴らせたままで、張り付いた衣服から彼女の持つ体の特徴は筒抜けに知れてしまった。
腰かけているところの下段に足を置き、腕を膝に預けてリョーマは気楽な姿勢を取っていた。その伸ばした背筋がそれでもしなっているように見えるのは、その実体の軸を微かに傾けて、腰の膨らみを目立たせているからだった。体は全体として細いものの腕も足も、裾から顔を出したばかりの辺りは白い。ただ日焼けの線が薄くても見て取れたので、健康的なそれにだけは安堵の息が漏れた。しかし直後、その二の腕の下に柔らかい曲線が覗き見えて吐いた息は詰まった。冗談のように抱きつかれたとき、そこの柔さを身をもって弦一郎は知っているが、湿り気を帯びた今はまた違った体温と感触を湛えているに違いなくて、果たしてそれはどんなものだろうと純粋な探求を装った疾しさが彼の中で芽を出そうとする。だが歯を食いしばって堪えた。まったく、こういうものを導いてしまうこれは色香と言えばいいのだろうか。そんな疑問を抱くと、さっき話していた事柄も相まって弦一郎は沸騰する頭の中でようやく悟ってしまった。
目の前にいるこの娘は既に少女ではないのだ。女だ。彼女は自分が女であることを知っている。
思い返せば不思議なことではない。もしもこれがただ生意気なだけの初な女だったら、手塚国光や跡部景吾のような気位の高い男たちが惹かれるとはとても思われない。もちろんリョーマにはそれを説明しうる人間的魅力もある。だが、それだけなら彼女へ向ける想いは尊敬であったり、敵対心や友情などであったりしても良いだろう。だがそんな潔白なものを向けるには彼女はあまりに蠱惑な存在であり過ぎるのだ。まだ幼さの残る大きな瞳がやや細まると溢れだす色が、相対する別のイキモノたちを余すところなく絡め取ってしまうのだ。それは青年間際の少年たちには未知の世界でもあり、挑んでしかるべき存在に違いない。
それが不意にひどく残酷なことに思われたのは、遅れて我に帰ったリョーマがあの大きな瞳をぱちぱちと瞬いて、弦一郎の名を呼んだときだった。
その目は限りなく幼かった。だからもうひとつ弦一郎には分かったことがあった。
彼女の、少女時代は不幸にして、失われてしまったのだ。
越前リョーマは記憶喪失だという。その理由を今考えるならば、それは一種の自己愛かもしれない。自身の性を思い知らされた瞬間に儚くも消失した自身の少女としての時を取り返す手段には、全てを忘れ、一から人生をやり直すしかなかったのではないか。もしそうだとしたら、思い出した、とリョーマが言った時点でその短い夢もあっけなく終わったことになる。無理矢理オトナになった彼女の安息が、また唐突に終わったことは悲劇の繰り返しではないか、と弦一郎には悔しく思われた。そのせいでよほどひどい顔をしていたのだろう、不安がったリョーマが再度彼を呼ぶが、怒りの猛りが治まらない弦一郎は苦々しく呟いた。
「何故、思い出してしまったのだ。」
リョーマはきょとんとした。何を怒っているのか知れないが、膝の上で握りしめた拳を、今にも叩きつけんばかりに肩を震わせる弦一郎が不思議で、しかしあまりに鬼気迫るその様子からただ事でないのは察した。だから質問にはとっとと答えて少しでも彼を宥めてやるべきだと分かってはいるが、そうした場合、むしろ逆効果になってしまう予感しかリョーマにはしなかった。思わず気まずそうな声を出して、まだ打ち上がり続ける花火へ目を移したが、地を這うような声が、何故だ、と繰り返し急かす。本当は弦一郎の問いは取り返しのつかない現実に対する自問に過ぎないのだが、リョーマにはそれを知る由もなく、彼女はため息交じりに観念した。
「…多分、手塚部長に襲われたから、だと思うけど…。」
それから二発、大きな花火が上がった。その間、弦一郎は微動だにしなかったが、三発目の花火がひゅるると間の抜けた音で空に向かっている真っ最中に、彼は顔を上げた。限りなく据わった目をしているその横顔に、リョーマは、やっぱりな、と彼の湛え始めた新たな怒りを嬉しさ半分、不安半分で見つめた。花火が弾けた。
「…詳しく聞かせろ。」
とっくに般若のような顔をした彼が微かにリョーマを振り返りながら言った。

「…というようなことがあったわけですが…。」
「…………。」
さざ波が打ち寄せる中、一週間前の経緯を、特に国光とリョーマの痴情塗れる事件について詳細に聞かされた彼は無言だった。
「ご感想は…。」
ところがそうリョーマがかしこまって尋ねるや否や、青筋のたった額を同じく筋の浮いた手でガッと覆った弦一郎が渾身の憎しみを込めて吠えた。
「手塚…殺す!」
ですよねー、などと燃えたぎる弦一郎の隣で空笑いするリョーマはほんの少しだけ頬を染めていた。当然これは激しい嫉妬に違いなく、だから彼の様子はリョーマにとってむしろかなり喜ばしい反応だ。とは言えこの男のことだから、殺すと言ったからには本当に殺しかねない。さすがにそれは犯罪であるからして、リョーマには早急に復讐の鬼と化した弦一郎を鎮める使命が生まれていた。さて、どうしたものか、と弦一郎の様子をとくと窺えば、感情に呑まれすぎてすっかり我を失っている。やはりあの時殴っておくのだった、などと意味の分からないことを叫び回っているが、ある意味隙だらけと言えばその通りに見えた。
目の前が真っ赤になっている気がするのは、ひょっとしたら怒りがひどすぎて眼底出血でも起こしてしまったのだろうか、と一方の弦一郎は頭の片隅で思った。しかしそれも本当に隅っこでのことで、弦一郎の頭の中はあのいけすかない眼鏡登山マニアをどう血祭りに上げてやろうかとそればかりで犇めいていた。それほどまでに彼の憎悪の念は狂気的なまでに凄まじい。国光が行動に打って出たのも意外だが、出たなら出たで思い切りリョーマの体に手を出した事実が何とも許し難かった。またリョーマが、この辺を舐められた、だの、吸われた、だの、手が服の中に入ってきた、だのといったように手振りを交えながら簡潔、かつ生々しく説明してみせたことも彼の怒りに油を注ぐ一因であった。もしこの世のどこかに煉獄という場所があるならば、国光の首根っこを捉えて直々にそこまで連行してくれるというものだ。殺す程度で事足りるものか、と弦一郎がさらにトリップ寸前まで頭に血を昇らせていたとき、ふと目の前に軽いものが現れた。
何故軽いと分かったかと言えば、それが膝に乗っているからで、ひたりと唇に張り付いたものは惜しいくらい一瞬で離れてしまった。
「うわ、熱…アンタ大丈夫?」
誰の何が熱いのか、小さな指を自身の唇に添えているリョーマを見て、弦一郎は段階的に悟っていった。悟った後、彼は叫んで、仰け反った。
「お!おまっ、な、な、何を!」
「え、わ、わあっ!」
相変わらず豪快な声と動きで翻弄されたのはリョーマも同じ事であった。彼の動きに合わせてバランスを崩し、リョーマは後ろにだけは転がり落ちまい、と弦一郎に飛びついた。けれども混乱している彼に、それが得策であるはずはなく、余計意識が混濁した弦一郎がさらに身を引くと、ガツッ、と鈍い、ひどく痛そうな音がして彼のもがきが納まった。そっと身を起こしたリョーマが覗き込むと、コンクリートの階段に強か後頭部を打ちつけたらしい弦一郎が、さすがに堪えたようで身を捩って小さく呻いていた。
「だ…大丈、夫…?」
ミステリー漫画で見た階段から落とされた被害者の図を思い出してリョーマが不安の色も露わに問いかけると、ややあって弦一郎が、大丈夫だ、と返した。正直尋常ではない痛さだったし、未だに頭がくらくらするのだが、リョーマの言っていることもはっきりと分かるので、大事あっても外傷だけのようだ。しかし起き上がることはまだ無理だと判断して、弦一郎はやや明るい夜空を仰いだ。リョーマの思惑通り、今の珍騒動で怒りはすっかり吹き飛んでいた。思い出せばまた同じくらい腹を立てることは出来るだろうが、それよりもさっきされたことの方が今は衝撃的だ。
「俺を殺す気か…。」
色々と含めて言ってやると、階段に手をついて弦一郎を覗き込もうとするリョーマの顔がひょっこり下の方から現れた。
「ん…まあ、死なない程度に死んでくれたら俺は嬉しいけど…。」
ばっちり意図を理解して微笑むリョーマが小憎たらしい。怪訝な目で睨んでから後頭部に手を当てて弦一郎はゆっくり体を起こそうとした。しかし咄嗟にリョーマの手が彼の肩に置かれた。そのまま再び緩慢と体を元の所まで倒されてしまい、弦一郎は、何をする、と訴えたが、彼の体が落ち着く場所を得るとリョーマはふわりとその上に覆いかぶさった。軽い体重が足の方から肩や胸の辺りに移ってどぎまぎする。どうすることもできない自分を持て余していると、くすくす忍び笑いながらリョーマが言った。
「まあまあ、未遂だったんだからよかったじゃん。」
「何が良かった、だ。けしからん。」
叱りつけるように弦一郎が言い返すと、一層笑いを盛り上げて体を揺するリョーマがくすぐったい。小動物に擦り寄られているようなものだな、と想像すればおかしいが、残念ながら、と言うべきか、幸運にも、と言った方が正しいか、弦一郎に擦り寄っているのは彼の好きな女に相違いない。
すぐさま気まずくなって右手がリョーマの肩や背中の辺りを触れることなく彷徨っていると、笑い終えたリョーマが、はあ、と何だか甘ったるいため息を吐いた。そして縋るように頬を弦一郎の鎖骨の辺りに擦り寄せ、リョーマはそっとこう漏らした。
「アンタとなら、大丈夫、かな…。」
一縷の望みのような言葉だった。尋ねる語調のお終いは声が掠れ、リョーマの不安と期待がない交ぜになった高揚は手に取るように分かった。きっとこの胸の中で彼女ははにかんでいるに違いない。そう弦一郎は思った。
思いながら、ぞっとした。それは嫌悪では決してなかったが、依然として擦りよったままのリョーマを、戸惑って見開いたままの目で彼は勇気を振り絞って見下ろしてみた。無垢そうに瞳を閉じて、人肌のぬくもりに安心しているリョーマがそこにはいた。それは弦一郎が彼女に安らぎをもたらしていることを示す光景でもあり、それだけ今の弦一郎に衝撃を与えるものでもあった。
こんなに愛しいのに、こんなにも受け入れてやりたいのに、思ってしまう。
どうしてそんなことを言うんだ。
信じられなかったのだ。きっと怖い思いをしたに違いないのに、もう二度とあんな目に会いたくないだろうに、まるでせがむような言い方で、他ならぬ弦一郎にそれを向けてきたことが恐ろしかった。
らしくもなく、震えすら止められそうになかった。思わず肘をついて体を軽く起こすと、緩く目を開いたリョーマが眠気でも帯びているようにゆっくりと顔を上げ、首を傾げた。
弦一郎の様子はひどいものであった。最早瞳にリョーマさえ映さず、暗い思案の底に陥った虚ろな顔の輪郭を冷や汗が伝った。怯えているとしか形容できない、その尋常ではない様に驚いたリョーマは慌てて身を起こすと弦一郎の頬に手の平を当てた。
「どうしたの…?」
真っ白な色が一滴、淀んだ湖面に落ちるようだった。声に導かれてようやく瞳の色を戻した弦一郎に、リョーマは少しだけほっとしたが、それも束の間だった。未だに震えが収まらないながらに、彼は両の頬に手を当ててくれているリョーマの手首を穏やかに、だがきつく掴んだ。そして戸惑いの溢れる、泣きそうなほど疑い深い瞳を無邪気で愚かしい彼女に向け、囁いた。
「俺に、あんなことをしろと言うのか。」
え、と惑いの声を上げたリョーマは、目の前にある見えない壁と背後の逃げることを許さない壁の二つが差し迫るのを強く感じた。それはどんな叱責よりも恐ろしく、どんな追究より拒みがたい。けれどこの数年に渡って逃げ続けてきたもので、その脅威すら半ば忘れていた。それがどうだ。まさか彼にそれを突き付けられようとは夢にも思わなかった。否、それも嘘だ。これは、結局彼を好きになってしまうなら必ず訪れることだ。
けれど、まだ怖い。
でも側にいたい。
そんな都合のいいことを模索して、だんだんと弦一郎から瞳を逸らしたリョーマは俯いたまま呟いた。
「何……意味、分かんない…。だって、まだ…。」
掴まれたままの手首をどうにか振り解こうとリョーマはもがいた。捩る手を、しかしながら弦一郎は放すつもりがなく、どんどん頭を垂れていくリョーマをいやに冷静に見守った。
とうとうそこから喘ぐ声が聞こえた。
「いや……、いやだ…ゆるして…、ごめん…ごめんなさい……あたしを、あたしを…。」

けして。

――――――
真田に「手塚殺す!」って言わせたかっただけ。


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