47.Someone says everything is to fall apart.


「少しは加減しろ、痛いぞ。」
ご丁寧に爪の痕がついてしまった頬を擦りながら、弦一郎は隣に座らせたリョーマを見下ろした。当然そんな文句をやったところであくびれたようすも見せないリョーマはTシャツの裾を出来るだけ引っ張ると、ギュッとそれを絞って海水の除去に余念がない。
「うわ…ベタベタする…サイアク…。」
「自業自得だな。誰だ、海に突っ込んだ愚か者は。」
不満をたらたら零すリョーマを弦一郎が鼻で笑うと、その顔を睨み返したリョーマがしれっと言った。
「転んだのアンタのくせに。」
「不可抗力だ。お前が暴れるからバランスを崩したのだぞ。」
やり込められてしまったリョーマが舌を打った。それすらも鼻で笑い飛ばして、弦一郎も自分のTシャツに手をかけた。確かにリョーマの言う通りで、海水を含んだ衣服の貼りつく感覚はお世辞にも心地いいとは言えない。堂々と上半身を晒して力任せに脱いだTシャツを絞り始めた弦一郎を、リョーマがじっと見つめた。
「何だ。」
すぐその視線に気がついた弦一郎が不思議そうに尋ねた。リョーマの目は好奇心のようなもので丸く見開かれている。弦一郎の問いかけの原因はリョーマにも分かっていたようで、うっとりとした目つきのまま彼女は小さな声で答えた。
「男の子っていいな…そうやって脱いじゃえるんだもん。」
「それは、まあ。」
まだじっとりと重い自分の服を摘まみあげるリョーマを見ると少々情けが湧いた。女は男よりいろいろな面で面倒がかかるイキモノだと聞く。そこを堪えているだけ、リョーマは弦一郎よりきっと偉いのだ。そう思って感心していると、唇を突き出したリョーマが海を眺めながら零した。
「…でも弦一郎さんしかいないし、俺も脱いじゃおうかな。」
「は!?」
大声を上げた弦一郎にも構わずシャツの裾に手をかけようとしたリョーマに、激しく赤面した弦一郎が彼女の手を押さえ込むとそのまま猛烈な抗議を畳みかけた。
「ふ、ふざっ、ふざけるな!お前、仮にも女なら慎みを持たんか!い、いくら俺しかおらんと言っても、お、俺は…!」
「…いや、するわけないじゃん。」
恥ずかしさで怒鳴り散らしていたためにきつく目を閉じていた弦一郎が、ぱちりとその目を開いた。怪訝な眼差しを向けた先のリョーマはしてやったりという顔をしていて、一言、バーカ、と弦一郎をなじった。
かあっと弦一郎の頭に血が昇っていく。それは今しがた受けた屈辱のせいでもあるし、早合点した己への恥ずかしさでもあるし、だがそういったものは全部彼には都合の悪いもので、だからそれらを覆い隠すようにして次第に込み上げてきたのは、むしろ純粋な疑念と怒りであった。だんだんと重苦しい腹立ちの様相を呈していく弦一郎の表情に、ニヤニヤと笑っていたリョーマも浅薄な態度を引っ込めざるを得なくなる。眉を寄せて、どうしたの、と弦一郎の気分を聞き出そうとしたが、既に弦一郎は不機嫌の域まで達していたらしい。ふい、と明後日の方を向いてしまった彼をいぶかしんで、リョーマは両手を添えて彼のむき出しの二の腕を揺すった。
「ねえ、ごめんてば。何なの、急に…。」
主人につれなくされた猫が恨めしそうに鳴くような声でリョーマがそう言うと、それ以上に恨みがましい声で弦一郎がぼつぼつと答え始めた。
「急に何だ、とは俺の台詞だ…。お前こそ何なのだ、ここ最近音信ひとつなかったくせに、連絡しても家人しか出ぬわ、南次郎さんは俺にお前には会うなと言ったきりだわ…。よほど何かあったのかと心配していたらこれだ。下らん。」
まさに恨み節そのものといった調子で文句を言いきった弦一郎は項垂れたが、リョーマは力ない彼の肩の辺りをじっと見つめたまま動けないでいた。ただひらすらに嬉しかった。今の口ぶりからするに、きっとこの一週間彼はリョーマを想うばかりのもぬけの殻であったに違いなく、そんな彼は想像するとひどく格好悪くて愛しかった。しかし生命力に満ちたこの男がずっとそんな状態でいられるはずもなく、リョーマを追いかけたさっきの鬼気迫る姿は、まさに閉じ込めていた力の解放だったのだ。あれが自分を激しく求めてもがいていた彼のなれの果てだったことに気がつくと、リョーマは俯いたが耳まで火照ってしまうのを押さえることは出来なかった。恥ずかしい、けれど嬉しい。だから謝ったり宥めたりする前に、口を開いたリョーマはさっき見つめていた厚い肩に額を寄せた。
「ありがと…弦一郎さん。ごめんね、心配させて。」
夜半の風に当てられて少し冷めていた弦一郎の肩に押しつけられた額は驚くほど熱かった。そのせいで一度強く打った胸の辺りにびくついてそっと肩の辺りを見下ろした弦一郎は、すっかり赤くなったリョーマの耳を見つけてすぐさま怒りを引っ込めてしまった。思わず口から変な声がもれたが、慌てて咳払いをすると弦一郎は前を向いて、また素っ気ないような声ではっきり喋った。
「謝るより先に事情を話さんか。」
そう言われるとさっとリョーマが顔を上げた。その顔色を弦一郎が横目に窺うと、ほんの少しの間目をそらした彼女であったが、すぐさま納得したように頷いた。
「ん…そうだね、その方がいいよね。」
隠し事しないって約束だもんね、とリョーマがふわりと笑う。そのとき、彼女の向こうに広がる遠くの空で光が弾けた。遅れた音にリョーマも振り返ると大輪の花火が海上の暗闇を一瞬だけ眩しく照らし出していた。

纏めて上げた髪が一筋、ぱらりと項に垂れたのを感じて幸村は一度髪留めを外した。銀細工で雛菊が彫られたそれは母親にもらったもので、幸村は大層気に入っていたが、何かおかしいと思って何気なくひっくり返してみた。途端に留め金がパチン、と音を立てて外れ、それからどんなにしてもそれは留らなくなってしまった。
「…壊れちゃった。」
ぽそりと呟くと、辺りを見回していたジャッカルが彼女の手元を覗き込んだ。
「どうした、幸村。」
「これ、壊れちゃったみたい。」
わざわざしゃがみこんだジャッカルが、どれ、と言って手を差し出すので髪留めを渡すと、しばらくためつすがめつした後、彼はそっと笑った。
「大丈夫、これくらいすぐ直るぜ。」
今度やってやるよ、と屈託なく言ってのけたジャッカルが再び立ち上がるのを見つめて、幸村も安心したように目を細めた。
「ありがとう。それにしてもまったく、真田が遅いからだね、これは。」
冗談めかして言ったが、そうだな、と相槌を打ったジャッカルは少しばかり心もとない声の調子だった。それもそのはずで、弦一郎を送り出してから既に、かれこれ三十分近く経っている。休憩用のベンチに腰かける幸村の周りでたむろしている部員たちも皆一様にそわそわしており、さっきジャッカルにもらった安心は幸村の中で淡雪のように消え果てていた。
弦一郎が無責任な人間でないことは周知の事実だ。ただ、ごくまれに衝動にかまけてしまうことがあるのも本当のところで、たとえば近頃で言うとそういうことが以前よりは頻繁になっている。その理由も明白で、だからもしもう少し待っても彼が戻って来ないのならば、幸村たちは全員その疑惑をはっきりと抱かなければならなくなるだろう。それは嫌なことに違いないが、中でも聡く、冷静で現実主義な蓮二などはとっくに疑いで眉をひそめていた。
彼の苦悩はひどいものであった。弦一郎も幸村も、彼にとっては唯一無二のかけがえない友人だ。だからそこに優るも劣るもなく、どちらも同じだけ大切に思ってやりたいのだけれど、それが到底無理なことであると最近はずっと理解を迫られて辛い。つまり、弦一郎を立てれば幸村がないがしろになる。そして幸村を立てれば弦一郎が困ってしまう。友情のベクトルがいつしか恋慕にすり替わっていたのは、幸村だけが女であることを考えれば避けられないことであった。彼女が弦一郎を好いているのを、蓮二は決して悪いとは思っていない。むしろいつしか二人が惹かれあって、蓮二ひとりの立ち位置だけが少しだけ変わってしまう、それだけのことだと易く考えていた。それがまさか、不意に現れた小さな少女に狂わされるとは、どれだけ計算高い蓮二の思考でも全く予測が出来なかった。人の情ばかりは不可解極まりない。蓮二がテニスを通した自らの体験でただひとつ信じている非科学的な直感なるものによると、弦一郎と越前リョーマの間には裂け難い繋がりが横たわっている。事実から検証しても、そうでなければあの鈍感の権化のような男がこんなにも急速に自らの想いに気付き、またリョーマの想いに気付き、応えるはずがないのだ。とは言え、それが弦一郎の心から望んだ結果には違いない。そしてやはりそのことも蓮二には悪いなどと思えず、正直出来る限り応援してやりたい。それなのに。
こつん、と足元に軽石が転がってきて蓮二は、はっとして石の来た道を目で追った。当然というか、つまらなさそうに足を揺すっている幸村の姿が見えた。するともう弦一郎への同情よりも焦りが優った。早く帰ってこい、とそればかり願ってしまう。そう、いつだって願うだけの身なのだ。口で言って聞かせることも出来るだろうが、そのときの酷薄さといったら蓮二ですら目を背けたくなるようなものだ。聡いというのはこういうとき辛いものがある。分かるから、感じてしまうから、だから一歩踏み出すのが遅くなる。思慮深いと言えば聞こえはいいが、蓮二はそれを臆病だ、と自ら酷評している。思わず首をもたげた。
その側をするり、と何かが抜けて、一瞬風かと思うと独特の香りが鼻腔に触れたので誰であるかが分かった。
「探しに行こうか、のう、幸村。」
伏せていた顔を幸村が上げると、始まってしまった花火のひとつが雅治の表情をその明かりで作られた影の中に沈めていた。顔色を窺おうと幸村は薄目がちになったが、すぐに腕をぐいと引っ張り上げられた。
「待っとってもしょうがないぜよ。皆もそう思わんか。」
尋ねられて戸惑ったジャッカルとブン太が顔を見合わせた。が、行動派の赤也があっさり賛成、と声高に言うので、空気はがらりと動き始めてしまう。ひとり、またひとりと散らばり始め、小走りになり、結局弦一郎の捜索が開始された。
「俺らも行くかの。」
掴まれた手首を引かれ、幸村は否応なく歩くことを強要された。すり足でおっかなびっくり彼女は雅治の後に続いて歩き出したが、その戸惑いで今は不安を隠せばいい、とずるいことを考えた。そのとき、そっと背中に手が添えられて、驚いた幸村が足を止めると、雅治も振り返って目を瞬いた。
「柳生…。」
「私もご一緒して構いませんか。」
にこり、とほほ笑んだ彼を拒む理由は特にない。幸村が頷いてしまえば雅治には余計断る理由がなくなってしまい、ばつが悪そうに前を向いた彼は唇を突き出した。いつの間にか幸村の手首を掴んでいた手も比呂士によって外されてしまい、さすがに我慢できず幸村を挟んで比呂士を睨むと、彼は困ったように、やはり微笑んだ。
「いけませんよ、仁王君。」
「…何がじゃ。」
「幸村さんが、泣いてしまいます。」
言い聞かせられた雅治はますます居心地が悪そうに項垂れたが、比呂士の声が慈悲深い色をしていることには気が付いていた。彼女を泣かせてしまうだろう友人の側に、そうと分かった上で一緒にいると言った彼は確かに優しいのだろう。罪悪感と照れ臭さがない交ぜになって、足取りは鈍くなる。三人はそれからしばらくだらだらと歩いていた。

――――――
ジャッカルの優しさに甘え隊。


[ 47/68 ]

*prev next#
[back]