46.We never see you off without a thought that you come back.


潮で錆びてしまうことを危惧してか、海浜公園に遊具はほとんどない。だだっ広い、舗装だけされた空間が華やぐのは夏場に催されるこの花火大会の折くらいのものである。左右を屋台に挟まれたことで出来た中央の道は隙間なく人の往来で埋め尽くされている。その一角で去年、決着がつかなかった射的の勝負が、ついに今年決した。結果だけで見るなら、弦一郎の勝ちだった。しかしその結果に納得しなかったのは対戦相手の幸村で、というのも彼女の敗因が他ならぬ弦一郎にあったためだ。勝負の最中、これ見よがしに真横で片手打ちなどされたものだから幸村の闘争心に火がついてしまった。見事に的の菓子箱を落とした弦一郎を精一杯ねめつけた彼女はやにわに銃身を持ち上げた。やはりテニスのラケットと違って重量感のあるそれは腕の筋を引っ張ってくれてなかなかに痛い。思わず眉を顰めたとき、幸村の暴挙にぎょっとした弦一郎の手が伸びたのだ。腕を痛めるぞ、と言葉が気遣いのものであったから間違いなく心配してくれた故の所業だったのだろうが、これが大いに幸村の動揺を誘った。節くれだった大きな手が銃を持つ手を上から包み、同じようなもう片方は回り込んで幸村の肩を抱いた。ひっ、と息を呑んだときには既に遅く、暴発した銃から飛び出したコルク栓はあえなく屋台を覆う幕の天井にぶち当たって落下した。
「事故だ。」
「潔くないぞ、幸村。」
腕組みをして頬を膨らませたままひたすら自分を睨む幸村を見て、弦一郎は半ば辟易としていた。先ほどの幸村の失態は、彼女曰く弦一郎のせいらしいのだが、肝心の彼にはそれに思い当たる節が一切ないのだ。何故謂れのないことでこうも抗議されなければならないのか。甚だ謎だ。しかしながら幸村の表情には一分も譲る気など窺えず、どうしたものかと無造作に頭を掻いた。その様に幸村の眉が片方浮いた。困り果てた彼の姿は滑稽で小気味よく、温情を振る舞ってくれようという気が微かに湧き出す。勿体つけて人差し指を自身の顎に当て、んー、と幸村は気が変わったことを弦一郎に教えようと唸った。
「まあ、百歩譲って来年に決着を持ち越して上げてもいいよ。」
「百歩も譲ってそれか。」
「あ、口ごたえした。」
指摘すると、しまったと言わんばかりの顔をした弦一郎が身を引いた。全くもってからかいがいのある男である。腹の中で存分に笑い倒しながら、幸村は手元の巾着の中を漁ったあと、そこから引き抜いた握りこぶしを、ずい、と弦一郎に突き出した。
「何だ。」
「お手。」
「俺は犬ではない。」
「お黙り。いいから、ほら、手を出す。」
反省の欠片もなく反論を繰り返す弦一郎に構っていても時間の無駄だ。促すとしぶしぶ片手を差し出したので、弦一郎の大きな掌へ幸村は手中の小銭を落とした。
「……何の真似だ。」
至極嫌な予感がして目を細めた弦一郎が幸村を睨む。だが目の前にはにやりと笑って白い歯をふっくらした唇の隙間から微かに覗かせるばかりの彼女しかいない。
「肉体労働で勘弁してあげる。」
「つまりパシリ…。」
「ラムネ一本。」
無情にも眼前に晒された白魚のごとき一本の人差し指は真っ直ぐ天を向いている。周囲で屋台を適当に見渡しながら部長と副部長の射的勝負を見物していた部員たちから、この結末に最大級の笑いが贈られた。弦一郎が一度、キッ、と睨めば大方それらは収まったものの、早く、と笑い含みで彼を急かす少女には一切効果がないようだ。空いている左手で痛みそうな額を弦一郎は思わず押さえ込んだ。幸村の傲慢には慣れている身だが、機嫌取りのつもりで応じてやった射的の勝負がこんなことになるとは随分と計算が狂ってしまった。しかし躊躇の暇はない。痺れを切らした幸村の眉がだんだんと釣り上がってくる。それを見つけるともう逃げられない。分かった、と言って宥めるように開いた左手と握った右手を彼女の目前で上下に揺すれば、幸村は満足したようで、さっと弦一郎のために旅路を空けてくれた。たまったものではない。盛大にため息を吐いてやってから弦一郎は嫌々無駄に長い足でさくさく人ごみを切り進み始めたのだった。
「さっすがー。部長くらいっスよ、あの真田副部長をパシリなんかに使えんのは。」
尊敬の眼差しを持った赤也が、弦一郎の広い背が人ごみで見えなくなった頃に幸村の側へ歩み出てそう言った。それに賛同した様子のブン太や苦笑いのジャッカルも寄ってきて、急に会話は賑やかになった。幸村は絶え間なく笑い、また赤也たちも競って彼女を笑わせようと努める。ここ最近で一番楽しそうな様子の幸村に部員の誰もが内心ほっとしていた。
幸村の胸中の痛みを、その原因も含めて仲間のほとんどが理解していた。それは想像に難くないことで、頑なに想い続けていた相手の心を見ず知らずの女にいつの間にやら取られてしまった幸村の心はどんなに辛かったことか、またどれほど必死にそれを耐え忍んでいたことだろうか。
こういった想いやりは偏に、皆が幸村を好きであるためだ。容姿は勿論であるし、彼女が自然と纏っている優しい雰囲気だとか、反面コートに入ると別人かと思うような厳格さだとか、そこからは想像も出来ないような喜んだときの弾けんばかりの笑顔だとか、そういったものが一種の憧れとして全員の中に深く根付いていた。そんな彼女を、出来ることなら悲しませたくない。まさにこれは友情であった。
だから、彼女の心をあっさり左右できるあの弦一郎が、今日は皆に同行して、無理やりとは言え愉快な役回りに徹してくれたことが大いに皆へ安堵をもたらした。この分なら今晩は決して幸村の泣き顔など見ずに済むだろう、と誰もが固く信じていた。
そしてこの夜、弦一郎が幸村に笑顔で迎えられることは二度となかった。

雑踏の元になっている人々より、弦一郎の頭はひとつ抜きん出ている。だから余計人の熱気にも当てられるし、そこからどれほどこの海岸の縁日に人が押し掛けているのかも十分に理解させられた。去年より増した人の数は、果たして観光宣伝の賜物か何なのか、地元の人間である弦一郎には申し訳ない話、はた迷惑に過ぎない。だが文句を言う相手もいないし、遅くなると幸村にこの上何を言われるか、容易に想像出来てぞっとしない。だから、目当ての露店はどれだろうか、と鬱陶しいながらも首をめぐらせたとき、ぐっと彼の左腕の肘は引っ張られた。
「俺じゃ、真田。」
「……仁王?」
意外な人物であったと同時に、弦一郎は初めてさっきまでの仲間内に彼がいなかったことに気がついた。はっと息を呑んで配慮の足らない自分を責めると同時に仁王へきつい口調で問いかけた。
「お前、今までどこに…。」
しかし弦一郎の詰問に応じる気が雅治にはさらさらないようで、弦一郎が言い終わらない内に、そんなことより、と切り出した彼は人気のない海岸の遠方を指して顎をしゃくった。
「向こうでおまんのヨメさん見かけたぜ。」
さっきまでの雑踏が一瞬、消えたかのような錯覚に弦一郎は囚われた。何故ならば、今、雅治が教えてくれたからだ。
リョーマがいる、と。
咄嗟に掴まれていた腕を振り払い、反対に雅治の細腕を力いっぱい握りしめた弦一郎はひどい剣幕で雅治の言葉に食いついた。
「一体、どこで…、嘘じゃないだろうな!」
二の腕に走る痛みに顔を顰めながら、雅治は顔をさっき示した方へ向けた。
「あっちじゃ。あっちの海岸端で…。」
方角を確認した、その途端に弦一郎は雅治の腕をぶん投げるように放し、目の前の人を突き飛ばさん勢いで駆けだした。後に残された戸惑った人々の狭間で、雅治は急に血のめぐりが戻った二の腕の疼きを流し眼に見て、冷めたため息を吐いた。
「お熱いことじゃて……。」
呟いて踵を返した雅治は弦一郎が歩いてきた方へスタスタと足を突き出し始めた。次はどういう適当な時間稼ぎをしてやろうか、と頭の中は姦計でひしめいていた。自分は正直者ではない、とはっきり自覚している。人にはそれぞれのやり方があるし、自分の常套手段の首尾がよいことには自負すらある。だから弦一郎のような類の人間は馬鹿だと心底思うし、その分こっぴどく嫌いだ。
自分はそんな風に生きられない。こんな風にしか生きられない。羨望するほどまでに仁王雅治は真田弦一郎が嫌いだ。

焦れば焦るだけ上手くいかない足元は砂に沈んだ。落ち込む踵を必死で引っ張り上げて、リョーマはとにかく願って走った。
とにかく遠くへ、遠くへ、遠くへ!
捕まるわけにはいかない。今彼と対面したとして、何を出来る自信も彼女にはなかった。それは格好悪くて、それだけで泣きそうだったが、最悪の場合に味わう絶望に比べれば浅い屈辱にすぎない。
しかしながら波音をかき消さん怒声が全身を襲う。一瞬だけ振り返ると、リョーマより余程足腰の強い弦一郎は凄まじい追い上げを見せて、今にもリョーマを掴んでしまいそうだった。このままではまずい。そう判断してリョーマは一度近場の階段から道路へと上がった。アスファルトだとリョーマも断然走りやすく、身軽なのを良いことに彼女はペースを上げて弦一郎を引き離しにかかった。一方、突然進路を変更されたために一拍、リョーマの背を追いかけ損ねた弦一郎は、彼女の思惑通りかなりの距離を空けられてしまっていた。だが彼にも意地がある。皇帝などと呼ばれるだけの強欲さだ。数十メートル先のリョーマを視界に収めて強く思った。あれは俺のものだ!一度掴んだらもう二度と離してやるものか。だってそうだ。さっき他ならぬ彼女が言ったのだ。離さないで、と。
踵が傷つくのではないかというほど力強い踏みぬきを繰り返せば、弦一郎はぐんぐんとリョーマに近づき始めた。小さな背中が少しずつ、少しずつ、小さいながらに大きくなる。腕の中に収めて落ち着くほどの大きさにまでなったら閉じ込めてしまいたい。あと少しだ。そして手を伸ばすと、また視界からリョーマが消えた。
再び後ろの様子を窺ったリョーマは今度こそ、小さくも悲鳴を上げた。彼の腕がまさにこちらへ伸びてきているところだった。あれが伸びきったら間違いなく捕まってしまう。不安が的中するか杞憂と果てるかが決まってしまう。いやだ、怖い!逃げる瞳がまた紺の海を映し、海岸に降りる階段が脇にあった。そこへ文字通り飛び込み、リョーマは砂浜に、かろうじて着地することに成功した。戸惑った声で、リョーマ、と叫ぶ彼が背中の向こうで感じられて、振り返りたいのを我慢して逃げ場を探した。ところがここでリョーマは自分がひどい失敗を犯したことに気がついた。飛び込んだのは単なる小さな入り江で、右方はうず高く積まれたテトラポットに、左方は岩礁に遮られており、退路は入口だけだと悟った。勿論その退路には目下、弦一郎が立ちふさがっている。彼もまた階段に足を踏み入れたところでとうとうリョーマを追い詰めたことを知った。自然と口の端が釣り上り、ひょっとしたら凶悪な顔をしているかもしれないが、どうしようもない。嬉しかった。たとえどんなに恐怖で震えているだろう背中でも、あれは越前リョーマ。自分が唯一恋焦がれている女。会うことを禁じられたが故に信じられないほど求められてやまなくなった存在。それが、あと数秒の後にはこの腕に絡め取られ、心行くまで抱きしめられるのだ。甘美が過ぎて、その瞬間はいっそ罪のようにすら思われる。それはリョーマの放つ怯えた空気がもたらした想像だったのかもしれないが、弦一郎にはそんなことへの気遣いなど、今ばかりは一切あろうはずもなく、ただ一心不乱にリョーマへと歩を進めていた。
予想だにしなかったのはそのときリョーマが取った行動だった。まさかそれほどまで思いつめていようとは弦一郎には考えも及ばなかったとはいえ、突然だった。リョーマが弦一郎の目の前でざばざばと海中へ足を突っ込み始めたのだ。腕を振り回すようにして無我夢中で海の中へ沈んでいくその姿に、喪失の予感が弦一郎の脳裏を殴りつけた。
「た、たわけが!」
怒鳴ってすぐ、弦一郎も数瞬の迷いもなく浅い海に飛び込んだ。幸い水の浮力で足運びが上手くいかないリョーマにはあっさりと追いつけた。
ちきしょう、と苦々しく唸って、弦一郎は甚だしく乱暴に、リョーマを背後から抱き込んだ。瞬間、リョーマが、ひっ、と叫んで暴れた。拳が海面を叩き、水が激しく飛び散り、体が思いがけず冷たさの中に晒された。足元が滑ったことを感じるよりも先に、リョーマと弦一郎は酸素のない世界へ、派手な水音と共にもぐりこんでしまった。
海中のリョーマは目を見開いた。自分が水の中にいることに驚いたのではない。水の中にいる自分を、尚も離すまいとするのが、懐かしいまでに温かい弦一郎その人であることがやっと感じ取れたためであった。だからそこからのリョーマは大人しいものだった。すぐさま立ちあがった弦一郎が滝のように海水を全身から滴らせつつ、リョーマを完全に引き上げてやると、もうそれ以上水につからないようにと彼女を横抱きにした。その間、リョーマはされるがままだった。正直何が起こっているか把握しておらず、おっかなびっくり弦一郎にしがみついていたに過ぎなかったのだが、弦一郎がぼそりと、驚かすな、と呟いたのを皮切りに、リョーマのずぶ濡れの頬を溢れだした涙がじわじわと覆った。
「あ…うあ、あ…げん、ちゃ…げんいち、ろ、さん……。」
わっ、と泣き出したリョーマはあたかも小さな子どものようであった。実際子どもなのだが、普段が気丈なだけに、弦一郎にだけ見せるこの包み隠さない泣き方には、彼でさえも戸惑ったように感じるところがあった。が、この泣き方こそがリョーマが彼に心を許していることの証で、その証拠にぽんぽんと頭や背を軽く叩いて宥めてやると、大きな泣き声はやがて唸る愚図りに変わった。ついおかしくて弦一郎が喉の奥でくつくつ笑うと、復活したリョーマがぐしゃぐしゃの泣き顔を引っ提げて弦一郎の頬を力いっぱい抓った。

――――――
立海勢が割と浜っ子だったらいいな。
ぷち女王様ゆっきーが好きです。


[ 46/68 ]

*prev next#
[back]