45.Don't be afraid to say 'Never let me go. '


リョーマは首筋をするりと撫でた。うっすら滲んだ汗が指と指の隙間に捕えられたが、滴になるにも満たないそれは数秒で乾いてしまった。浜辺に下りる階段のひとつに腰かけていると遠巻きの縁日のざわめきと潮騒が一緒くたになって耳に届く。さっきまでに比べると余程静かでいいものだ。そう思ってリョーマは退屈な待ち時間に目を閉じた。
最初に訪れてみた弦一郎の家で教えられた花火大会の会場へ近づくにつれ、乗っていた電車がどんどんと混み始めたのは不幸だった。行事に向かう交通機関など凡そそんなものだが、殊、リョーマに関してはそれでは済まない。やはり予期した通り人ごみへの恐怖感は文字通り足のすくむものがあった。真っ青になって身動きひとつ取れなくなっていくリョーマの姿は、彼女を外へ連れ出した朋香や桜乃の心にひどく後悔を与えたが、後戻りはできない。仕方なく途中下車して二駅ほど歩いた。今しがたリョーマが拭った汗はそのせいで掻いたものだ。
到着した駅は安全地帯とそこを覆うひなびた屋根と駅名の看板の他には何もなかった。これで駅と呼ぶことに一抹の驚きを覚えながら道路に下りると縁日の賑やかさがすでに伝わった。屋台の並ぶ中心地に向かうまでにも何軒かの露店が所々にあり、それを目印に辿っていく人の影も、まばらだが同じ方向に全員行くので、その先の混雑が窺い知れた。既に日没を迎え、紫の空を携えた黒い影たちは相変わらずリョーマにはただの恐怖の対象でしかない。だからリョーマの足取りが重くなったが、それをも二人の友人は察してくれ、縁日の明かりが辛うじて見えるかという地点まで引き返すと三人は頭を小突き合わせた。
「リョーマ様、私たち今からゲンイチローさんを探しに行きますから、ここで待っててください。」
「でもアンタたちだけじゃ分かんないんじゃ…。」
「大丈夫だよ。関東大会で一応見たことあるし、私の携帯渡しておくから何かあったら連絡するね。」
そう言った二人が意気揚々と出かけて行ったのが十分ほど前のことだ。帰りの時間を考えるとそう長居も出来ないため、時間との勝負と言えた。だからリョーマは正直なところ、二人の成果に期待していない。お気持ちだけで十分、というところだ。背後をささやかな轟音と共にまたローカル列車が一本通り過ぎた。ちらりと見やればまたぎっしりと客が中には詰まっており、ますます可能性の欠片すら粉砕されていく。ため息をついて立ちあがったリョーマはそっと階段を下りて、砂浜に降り立った。シューズの裏がきゅっと鳴いて、しゃがみ込んで乾いた手で砂を掬うと風に巻かれて落としたそばから見えなくなった。潮の匂いが濃くて、海から吹く風は心なしかねっとりと重たい。それがリョーマの髪の束を持ち上げて、まつ毛を揺すぶって、風が強いことに気付くと目が乾いて瞼が下りた。
波に紛れて聞こえる喧騒は一体どれだけの数の人が生み出しているのだろう。何十、何百、ひょっとしたら何千もの人があちらにいて、そんな中では例えあの人でもただの人にすぎない。リョーマにとってこの世にたった一人しかいない彼が雑踏に紛れてしまえる様は想像すると滑稽で、果てしなく寂しいことのように思えた。
「会えるわけない、よね。」
会ったところで最早人が多いところに分け入るだけのことも恐ろしい身だ。まともに口が利けるだろうか。姿を見れるだろうか。声が聞けるだろうか。また、頭を撫でてもらえるのだろうか。
砂の地面に人差し指で一本線を引く。たとえばこの砂粒のどれかに水晶の屑があるから見つけてみろと言われたところで、永久に見つからないのと一緒だ。よしんば見つけたとして、それが本物かどうか見分けもつかない。
「会えないよ…会えるわけがないよ…。」
体と心の反比例をリョーマは痛いほどに感じた。会えないときは会いたいのに、会えるときには会えないと思う。これもまた我がままで、我がままがすぎて最早臆病だ。そんな自分が馬鹿で、恥ずかしくて、乾いた砂に涙がひとつふたつと吸い込まれる。かっこ悪い、と呻いて瞬きをした。そうやって涙を弾こうと必死になっていると、膝元に何かが埋まっているのに気がついた。ちょうどそれに涙が落ちたらしく、濡れて光るそれを滲む視界の中、持ち上げればコロコロと鳴る小さな鈴だった。潮風に吹かれて絶え間なく震えるそれに不思議なほど親しみが湧いた。そのせいで微笑むくらいの気力が出たリョーマは摘まみあげた鈴を試しに、チリン、と振って遊んでみた。高くて、小さくて、可愛い音だがよく響く。まるで自分がここにいることを一生懸命に伝えているようだ。無意識にそれを摘まんだままリョーマは立ちあがった。膝についた砂がパラパラと落ちるのも構わず波打ち際に近寄るとそれに沿って歩く。
小さな頃は波にさらわれるといけないからといつも誰かが手を握っていたものだった。それは大概が父親の南次郎で、彼のいつも日に焼けた皮の厚い手に包まれると守られているのだという実感があった。だから手を繋ぐのは嫌いではない。ただほっとしてしまうから同時に、この手をいつか離して困らせてやろうと、そんな悪いことを考え付くのもしばしばだった。
反対に離してほしくない手もあった。リョーマより一回り大きいくらいの妙に熱い手で、彼女の歩幅も顧みずズカズカ歩くがたまに立ち止まって休憩はさせてくれた。しかし休ませてくれるのはありがたいが、リョーマにとってそれはなかなか堪えがたい瞬間でもあった。そのときだけ、彼と手を繋いでいるのだと強く意識してしまうからだった。後ろも振り返らないで目的地だけ見据えている帽子の前唾と少し大きな背中、その脇から伸びる一本の腕がリョーマの手を絡め取って離さない。だからまず放してほしいと思う。三つほどしか歳も違わないのにリョーマを子供扱いして、自分は大人面をしてリョーマを引きずりまわす。とんでもないことだ。
なのに振り解けないほどの握力は格段にリョーマのものとは違う。錨型の肩は子どもの時分ですらがっしりした印象があって、思わず自分の肩を空いている手で撫でたリョーマは愕然とした。目の前にいる奴が、違うイキモノなのだと分かったのだ。
そのとき手がふっと冷たくなった。見れば放されていた。その途端寂しい気持ちが体の奥底から立ち上ってきて困る。泣きそうになって、言った。
「はなさないで…。」
波打ち際で立ち止まったリョーマは両手で顔を覆っていた。そのせいで指の間から零れた鈴が水面に落ちたとき、最後の音を鳴らして沈む。寄せては返す波のように、こうして気まぐれに蘇る思い出は鮮やかで美しくて大切で、何よりリョーマを悲しませる。どうして、と思うのだ。どうしてあのとき自分は彼を手放してしまったのだろう。そんな叶うはずもなかったことに後悔が募って仕方ない。ただ後悔だけは本物で、結局戸惑いしか生み出さない記憶の帰還はとどのつまり迷惑でしかない。どうせなら一気に全部思い出せばいいのに、まるで何かを待っているように、もしくは何かを導くように、リョーマの中の彼との思い出は少しずつ、少しずつ戻ってくる。
そしてもし、そのことに意味があるのなら、今の言葉は戒めかもしれない、と思う。本当の気持ちを見失わないように、友達の優しさを蔑まないように、大好きな人を大好きだと思い続けられるように、あの日の素直な自分を忘れてはいけない。
心が葛藤を一巡りして、どっと疲れが出た。堂々巡りのこんな一人問答を、もう幾度繰り返しただろう。頭ではたくさん考えて答えを出すのに、いざとなると何もかも心だけで動いて、結局それで大概が片付いてしまうのにそれでもまた悩む。どうして、恋とはひどく面倒なものだ。
「はなさないで、……か。」
ため息交じりに空を仰いでもう一度呟いた。その声の小ささに気がつくと、周りの音がようやくリョーマの耳に戻ってきた。初めに聞こえた砂を踏む音も、やはり小さかった。そんな中でまともに聞こえたものと言えば、いつもと変わらない大きな声だけだった。
「ならば、勝手にいなくなるな…!」
ぞっとして右方に瞳を向けたリョーマが悲鳴を上げなかったのは奇跡だった。いつも本音で生きている彼は、やはり他人の本音を引きずりだしてしまいやすいのだろうか。
あのときも、はなさないで、と思ったら手のひらに溜まった汗を適当にTシャツの背でごしごし拭っただけで、彼はまたすぐにリョーマの手を取った。同じだ。本当は会いたい、本当は離さないでほしい。その本当のところを察しようがしまいが、結局リョーマの望むまま当たり前のように施してくるのがこの人なのだ。
「弦一郎、さん…。」
足元を砂まみれにした彼の姿から察するに、いつからリョーマに気が付いていたのか、随分と走ってきたらしい。息も上がっているし、切羽詰まった苦しくて、切なそうで、悲願を果たした感動に呑まれた顔を彼はしていた。名前を呼ぶ間に逐一そういった弦一郎の様子を見て取ったリョーマは次の瞬間、
「あ…おい!」
彼のいる方とは逆へ走りだしていた。

――――――
デッドレース開始。


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