44.I'll give my heart to you.


海岸線を縫うように走るローカルの列車が定刻よりやや遅れてやって来た。乗り継ぎでそれを待ち詫びていたブン太と赤也はドアが開くや否や中へ飛び込んだが、幸いにして、という訳ではなく、夕刻の上りの車内に大した人の数もなかったため、誰かとぶつかったり咎められたりすることは全くなかった。おかげで無事二人は早速中程のたっぷりと開けた座席付近を取り囲むことができた。
「おーい。幸村ちゃん、こっちこっち。」
走ったせいで肩にかかったパーカーのフードを払いのけて、ブン太が人懐っこい笑顔で手招きをする。赤也も焦ったように幸村の到着を促すが、今ぞろぞろと車内に入ってくるのは立海大付属中テニス部のレギュラー陣のみだから彼の慌てようは杞憂に過ぎない。しかし慌てたくなるほど幸村の歩みは遅く、というのも苦笑しながら車内を進んでいく彼女は今、動きやすい洋装ではなく、一斤染の地に淡紫の藤が散り咲くたおやかな浴衣に苦戦している真っ最中だったためだ。勿論そのような彼女の状態は多少なりとも気遣いのある者たちには既知のことであるから、大半のメンバーが彼女の緩やかすぎるペースにもおおらかに付き合ってやっている。そうした取り巻きはともかくとして、当然彼らの中にも鈍感と呼べる人種は若干混ざっている。たとえばのんびりとした運転スケジュールの列車がようやく動き出す頃にやっと着席出来た幸村に、遅いっスよ、などと口を尖らせている赤也は間違いなく後者の部類に属している。けれどもそれは根っからのことで、彼に悪意など毛頭あるはずもない。幸村もそれを十分承知しているので反応と言えば肩をすくませる程度に済ませ、あとの軽い制裁はブン太やジャッカルにするりと譲った。ゴトン、ゴトンと重い車輪が枕木を震わせる。その音に合わせてまだ夕陽の明かりの名残を宿した風景の流れが幸村の背後を加速し始めており、肩越しにしばらくそれを眺めた幸村は、さりとて心中決して穏やかなわけではなかった。気を紛らわせようと努めているのは、退院して以来初めて仲間と遊びに出かけているこの時間を息苦しいものにしたくないがためだった。ところが彼女の隣に着座を許された蓮二にだけは空気を通してその心境が窺えてしまっていた。思わず左の彼女の真ん前で吊革の輪に大きな手を半分だけ通してしっかりそれを握っているものの、気も漫ろに立ち尽くしている男に目が向いた。この夕方、こうして大勢で出かけているのはこの面子では三度目になる地元の花火大会見物のためである。洒落っ気の湧く年頃である彼らの中には幸村の浴衣だけではなく一張羅やアクセサリーを身につけている者も見当たるし、それが相応の態度であるのだろうと蓮二は察している。一方、そんな細やかな身づくろいとは無縁の弦一郎は、いつもの威圧感も今や半減していて正直目前に立たれては目障りに感じてしまうほどだ。彼をただの友人としてしか見ていない蓮二にとってもそうなのだから、隣の彼女にとってこの長躯の男はどれほど心のひっかかりになっていることだろうか。各駅停車の鈍行列車がもう早ブレーキをかけたので、少しばかりの間車内で立つ者たちのバランスが乱れた。それをいいことに蓮二が爪先で目前に伸びたジーンズ越しの向う脛を蹴っ飛ばしてみると、そればかりはさすがに痛かったらしい。弦一郎は、うっ、と呻いて吊り環から手をすり抜かせてしまい、危うく転ぶところであったがそれを阻むものがあった。
小さく息を呑んだ弦一郎は自分の胸の辺りをふわりと押してくるものに気がついた。見れば、つんのめりそうになった彼の体躯を幸村が細身の体で押しとどめてくれていた。驚いた。だが元気は出なかった。すまん、と小さく呟くとぴくんと揺れた幸村の、髪をまとめ上げた頭が項垂れたままこっくりと頷いた。青白い項を綺麗だと思っても、血色の薄さが災いしてあの子を思い出させず、幸村が再び腰を下ろしたのを見届けると、弦一郎もまた同じ吊り環へ億劫そうに手を通した。

「元気ないのう。」
目的地に到達した列車を降りた幸村が最初にかけられた言葉だった。傍らにはいつも通りやや猫背の少年が佇んでいて、声の調子は優しかった。苦笑した幸村は駆けだしていった赤也やブン太たちの僅かに後方を見た。今は蓮二と連れ立って歩く彼は石垣で出来た安全地帯に立っていると悠々と見下ろすことが出来る。そうやって捉えた姿は確かにしょぼくれていた。
「本当だね。」
「いや、お前さんが。」
途端に幸村が嫌な顔をしたのを、雅治は横目でも見逃さなかった。眉を顰めたまま、幸村は口の端だけぐっと持ち上げた。
「どうしてそういうこと言うのかな。」
今度は雅治がふっと小さく笑った。
「分かるんじゃ。」
「分かるって?」
怪訝そうに聞き返した幸村を見下ろすと、去年も見た浴衣姿だったがより細く、より柔らかな線を彼女の体全体が持っていて、雅治は不意に目を細めた。
「似とるんじゃろうのう、お前さんと俺が。のう、幸村。」
雅治の言葉も終わらない内に歩き出す幸村を咎める風もなく、ただ呼びとめた雅治の足元を冷たい風が抜けた。背後の山から吹き下りてくる夏の夕暮れの涼しさが緩く、階段を下りたところの幸村の首筋を撫でた。
「好きじゃよ、おまんのこと。」
道路の向こう側で浜辺に下りていく仲間たちの、一番後ろにいる弦一郎も一段ずつ階段を下りていくところだった。焦って振り返った幸村はつい声を荒げてしまい、ほとんど怒鳴って言った。
「…だから!どうしてそういうこと言うの!それじゃ私……。」
吐き捨てるような最後の一声は最後まで結ばれないまま、幸村は俯いた。そのまま逃げるように道路を横切って不慣れな下駄を履いた足で駆けながら、幸村には雅治の思惑が、確かに手に取るように分かった。彼は狡猾だから、一番いいタイミングを選んで言ったのだ。そのたった一言が幸村をかねてから抱いている葛藤の渦中に、ドボンと音を立てて放り込んだ。
本音では弦一郎を諦めるべきだと思っている。そういう客観的な幸村と彼女の根っこの優しさが彼を幸せにしてあげたいと望んでいる。けれど、そのとき放り出されてひとりきりになる自分をかわいそうだとも思う。その思いが今彼女自身を支えていた。捕食者と獲物のような関係だ。どちらかがないがしろにされるべきであるが、どちらも幸村の本当の心である。それ故にどちらに傾くことも必然と残酷にしかなりえない。
今は後者が優っているものの、幸村自身はずっと前者が正しいと思っていた。だから、もしその正しいと思っていることを成そうするなら、幸村にはひとつ必要なものがある。ないがしろにされた、欲しくてたまらない人を諦めることで深く深く傷つくだろう心の行き着く先だ。仮にそんなものが事前に手に入ったとしたら、彼女の中の良心のようなものは途端に善行らしきことに突っ走ろうとするに違いない。
それをほんのついさっき与えられた。否、押しつけられてしまった。
雅治のことは決して嫌いではない。気が合う人物であることも、もう随分前から幸村は知っていた。それと同様に、弦一郎に対して抱く想いが憧れで終わってしまう類のものであることも薄々感づいていた。ただ初めての恋だから、喪失の瞬間は堪えがたいほど恐ろしいものになるのではないかと疑っている。彼への執着が底知れず湧いてくるのは、そんな妄想に執拗に迫られているからだけなのかもしれない。けれど。
「んっ…!」
足が唐突に止まった。壁のようだけれど温かいものにぶつかって狼狽した幸村を、驚いて振り返ったのは弦一郎だった。
「何だ、どうした。」
しかしながら彼が幸村の表情を見たのは肩越しの一瞬で、振り返りきることは幸村の手によって阻まれた。結局背を向けたままだったが、幸村はそれで満足らしく、彼の背中にそっと擦り寄った。
「ちょっとだけ、背中貸してよ…。」
それだけ言った幸村は誰にも見せられないほど頬を赤く染めていた。雅治の言葉のせいもあったし、何より結局辿り着いてしまったのが弦一郎であったことに痛く感激したためであった。憧憬でも何でもいい、打算的な事柄で悩むのは無粋なのだ。このときばかりは本気でそんなことを信じた。
自分の奇行ごときで戸惑う声が好き。
この体がすっかり隠れてしまうほど広い背が好き。
向こうで仲間の呼ぶ声がして、それに応えながらも幸村のために動かないでいる、そういう優しさが好き。
「真田…。」
「うん?」
やっとまともに声をかけてきた幸村にほっとした様子で弦一郎が返事をする。ふふ、と愉快そうに笑う辺り、幸村の機嫌は悪くないようで胸を撫で下ろした彼の耳に、その声はきちんと届いた。
「私、真田が好き。」
穏やかで、安心しきった背中越しの声色は、すぐ側のさざ波と同じ優しい音をしていた。

――――――

大告白大会。


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