43.So we, girls are leaving the cellar where she has shut herself.


リョーマが一週間前の夜に起こった出来事を話し終えると、予想していた通り沈痛な空気が部屋の中に広がった。朋香は口元を引き絞ってどこか一点を睨んでいて、桜乃は顔半分を手で覆い隠していたが耳まで真っ赤だった。それらを冷めた目で捉えて、まるで今語ったことを他人事だとでも思っているように、滞りなく立ち上がったリョーマはすぐ後ろの窓に近寄ってそれを開けた。クーラーで涼しくなっていた部屋に夏の熱気が恐る恐る入ってくる。太陽の匂いがする空気を肺にたっぷり吸い込むと、彼を思い出してやっと悲しくなる。
「しゅ、修羅場ってやつ、だったんですね。」
リョーマの顔色が窺いきれず、適当なことを言ってしまった朋香を、リョーマは肩越しに見やった。
「シュラバ…まあ、そうだったんじゃない。」
言葉の意味がよく分からないので、それこそ適当に返すと、紅潮していた桜乃もおどおどしながら、妙に明るく発言した。
「でも、あの、本当に大変、だよね。リョーマちゃん、男の人苦手、なのに…その、すごく…。」
それ以上は憚られるらしい。はうう、などと言ってまた一段と顔を赤くした桜乃を見ながら、リョーマは窓に背を向けてその淵にもたれかかった。そして手のひらを取りだすと、ひとつひとつ指折り始めた。
「手塚部長に、桃先輩に、…ああ、あと氷帝の跡部さんもか…。みんな、物好きだよね。」
「さすがリョーマ様…。」
好青年も美青年もただの数としてカウントするリョーマに朋香は盛大な拍手でも送りたくなった。カリスマ的なリョーマの魅力を、今までの会話のくだらなさにほっとした朋香がそぞろに納得してひとり頷いていると、突然桜乃が、あ、と声を上げる。見ればクッションの上に行儀よく据わっていた桜乃が身を乗り出していた。その視線の先では窓下でいつの間に蹲ってしまったリョーマがいた。驚いて、リョーマ様、と呼びかけた朋香が近寄ると、リョーマはぐったり垂れた右手であと一回指を折った。膝を抱える腕に伏せていた顔を少しだけ上げて、目元を覗かせたリョーマは自分を囲む二人の少女を視界に映しながらも、誰にでもなくくぐもった声で喋った。
「男の人は、キライ…怖いもん。でも、怖くない人もいて、だからあの人だけは側にいてほしいって、初めて思った。なのにさ、今のこれって、何。はっきり言って軟禁だよ。そりゃ、いいよ。外で人に会わないんだから、怖いこと、ないし。でも、でもさ、どうしてあの人にまで会うななんて言うの。意味分かんないよ。携帯も取り上げてくれちゃって、ほんと、ふざけんなって…。」
言っている内にまた俯いてしまったリョーマが、その似つかわしくない弱弱しい声が、浮いていた朋香と桜乃の心をその悲嘆で雁字搦めにした。友達が、涙など見せたことのない彼女が、辛くて、悲しんでいる。窓から忍び込む夏の空気が確実に部屋の温度を上げ、朋香も桜乃もうっすら汗をかき始めた。ふたりとも胸がどきどきと鳴っていた。それは自分たちの可能性への高鳴りだ。いつもクールで弱みなど微塵も感じさせなかった彼女の、たったひとつの希望になれるかもしれない。今が助けるべきときなのだと強く感じていた。
そう、今日はそのために来たのだ。
四つん這いでリョーマの様子を窺っていた朋香が首を後ろへ向けると、それに気付いた桜乃が頷いた。頷き返してまた前を向いた朋香は両手でリョーマの肩を掴んだ。
「リョーマ様!私たち、リョーマ様のために何でもします!何でも言ってください!」
言われたリョーマがうっすら頭を上げた。しかし顔色は優れず、薄く笑っただけの彼女は緩く首を振った。
「いいよ、別に。そんなことしてもらう理由、ないし。」
「あります!」
否定的な言葉を朋香は遮るように肯定に変えた。あまりに力強く断言するので、さらに顔を上げてみたリョーマは涙をいっぱいに浮かべた朋香に驚いて目を見開いた。
「ありますよう…リョーマ様、そんな冷たいこと言わないでください…私、私たち、リョーマ様のこと大好きだから、だから何かしたいんです…。」
桜乃も朋香の後ろで同じように頷いていた。圧倒されて気まずく、視線をそらしたリョーマだったが、また壁に追い詰められていて逃げ場はない。仕方なく、リョーマは予てからの素朴な疑問を二人に突き付けることにした。
「何で、俺を好きなの…。」
それは唯一、リョーマに分からないことだ。目の前の二人の少女も、青学の皆も、この指に数えた彼らも、全員がリョーマを好きだと言ってくれる。それはきっと素晴らしいことで、この世の何より不可解だ。分かんないよ、と蚊の鳴くような声で繰り返す。朋香も桜乃もこれには途方に暮れた。リョーマの疑問は驚くほど単純で、けれどそんなことを考えたこともない彼女らから、答えらしいものなどすぐに出てこようはずもなかった。けれどもここで何か言わなければリョーマは朋香と桜乃の等身大の同情に頼ってくれないだろう。リョーマのために何も出来ないという絶望のような失望に、朋香も桜乃も嘆きたくなどない。小さく呟いてみたり、唸り声を上げてみたり、そうやって時間を稼ごうとしたが、それも数分のことだった。徐にリョーマが立ち上がる。彼女はもう二人に背を向けてしまい、窓を閉めようと手を伸ばした。その様に桜乃は息を呑み、慌てた朋香がついに大声を上げた。
「す、好きだから好き、なんです!」
馬鹿みたいだけど、と言ったことの意味の無さにぞっとした朋香が空笑いを零しながら付け加えた。桜乃もすっかり両手を組み合わせて神頼みの姿勢に入ったが、ぎゅっと瞑った目が、周囲が無音であることに気づいて緩やかに開いた。見上げるとリョーマは窓を閉めていなかった。
それは恐ろしく簡潔な答えだが、言われるまですっかりと忘れていたことだった。不思議で、当たり前だからこそ、ふとすると忘れてしまう。だから、よりどころがなければないほど理由がほしくなるのかもしれない。
俯いてばかりだった顔を上げるとリョーマの眼前で空は遮る雲ひとつなく晴れ渡り、果てを知らなかった。
たったそれだけのことにも気付かなかったリョーマにとって、好きという気持ちを持ち続けることは考えがたいほどに難しい。そのせいで事あるごとに困り果てて悩むが、それでも手放すことはもっと辛い。
いつだったか、会いたいから、という理由だけで彼に、会いたい、と言ったことがあった。芽生え始めた想いに逆上せてやった馬鹿だ、と笑い飛ばしていたが、何てあのときの自分は勇気があって、強かったのだろう。まったく、我ながら感服してしまう。
ただ、窓さえ開けなかったのは、今や手に入れてしまった彼の心を失うのが怖いからなのだ。
もしも、今彼に会って、やはり他の男たちと同じように彼を怖いと思ってしまったら、終わってしまう。それが嫌で、たまらなく嫌で、だから父親の軟禁にも、その実甘んじて自ら閉じこもっていた。自分でそうしているくせに、不満や文句ばかり口を衝いて出るのは結局、本当にリョーマがしたいことがそれと正反対のことだからに違いない。
好きだから好き。
それは何があっても本当は揺るがない真実のように思える。ただ姿の見えない、幼いリョーマにはまだ掴みきれないその答えは、またいつ見失うか分からない。幻のようなものなのだ。
それでも、とにかく今望むことに立ち向かうには十分すぎる理由だろう。つまり、躊躇するだけ愚かなのだ。
会いたい、と最初に小さく言うとぼたぼたと頬を伝った涙が膝に落ちた。声に出すまで分からないふりをしていた気持ちがやっとリョーマの心を動かし、重い腰を上げさせた。みっともなくて顔を覆い、リョーマは存分に泣きながら二人の友達に喚いた。
「…会い、たい…弦一郎さんに会いたい…!」
例えどんな理由があっても、大好きなあの人と引き裂かれるなんてどうしても堪えられない。リョーマはそれだけ我がままで、自分の欲に忠実で、子どもだから純粋で正しくて眩しい。彼女が普段は内に秘めている、彼女だけの煌めきを垣間見せると、圧倒されてその様をずっと見守っていた朋香と桜乃は言葉を失った。だがそれは喜びのあまりの無言だった。小難しいこと抜きに、二人はリョーマの本音が聞けたことが、ただ嬉しかった。これで彼女のために何をすればいいかが分かったのだ。あっという間に有頂天になって、朋香が勢いよく立ちあがった。
「分っかりました、リョーマ様!なら!」
びし、と程よい太さの腕を伸ばし、家事に慣れた指で天を指し、もう片方の手を腰に当てて仁王立ちする朋香を、桜乃は笑顔で、リョーマは泣きはらした顔だったが明らかに驚いて、見た。二人の衆目に晒されて猶のこと悦に入った朋香は頬を真っ赤にさせてつやつやと笑った。
「行きましょう!そのゲンイチローさんのとこへ!」
へ、とリョーマが状況を呑みこめていない声をもらす頃には、自分たちの荷物を取り上げ、ついでにリョーマの身支度まで整えてやった二人が彼女を部屋の外に連れ出していた。階段を下り、廊下を渡り、玄関から一歩出るとさっきとは比べ物ならないほど強い熱がリョーマの身を焼いた。ようやくひきこもってばかりで寝ぼけていたリョーマの頭が覚醒し、まさか今から件の男に会いに行く気では、と二人の友人を引っ張った。するとさも当然だと言わんばかりの顔をして朋香と桜乃が振り返り、リョーマに有無も是非もを言わせないような声の調子で尋ねてきた。
「ところでどこに行けばいいんですか。」
青ざめたリョーマが漠然と、神奈川、と答えると、それでも二人が動じることはなく、行き先は駅にすんなり決まった。

――――――
女の子リョーマはかわいげがある、がモットー。



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