41.Fighting is easy as a pie.


夕方の上りの列車は混雑していなかった。だから駆け込んだ空間で、濡れた自身の足元が滑って、弦一郎の背は強かに反対側のドアに叩きつけられた。それと同時にたった今潜った入口がスーッと閉まり、制止していた体が機械の動きに引っ張られて微かに傾く。必死に息を吐いていると、側の席に座っていた年配の男に、大丈夫か、と声をかけられた。辛うじて、ええ、と答えたが、直後帽子の唾から雨水が二、三滴垂れた。潮風が殴りつけてきた雨風の中を駆け抜けてきたのだから当然の出来ごとで、帽子を脱いだ弦一郎は手の甲で拭った額がひどい汗をかいているのに驚いた。がむしゃらに走ったここまでの記憶はほとんどないに等しく、しかしその衝動を引き起こすのに十分な事態が目下起こっている。
南次郎によって一方的に告げられた、リョーマと会うな、の一言。その直前に与えられた頬の痛みさえ忘れてしまうほど、理不尽で重く、弦一郎の理解など到底及ばない命令に、愚かなほど実直な彼が取れた行動はこれっきりだった。とにかく、走った。
しかしながら、彼に理不尽さを我慢する忍耐が欠けている故の愚行ではなく、むしろそういうものへの耐久力は並の比ではないだろう。彼は規律を遵守することを好しとし、目上や実力が上の者を素直に認め、時にはそういう者にはっきりと付き従う。ある意味従順な男だ。
一方、自身の信条を捻じ曲げることばかりは、その性質にも関わらず、断固として認めない。単純な話、先にした約束が優先で、後で何が起ころうとも必ずそれを守ろうとする。弦一郎はそういう思考の持ち主だ。
だから今、己の正義とも言える想いに突き動かされて青春台駅へ向かう電車の中にいる。どうやら目的地も変わらぬ天候らしく、ちらりと目をやった真後ろの窓は大粒の雨水をびっしりと垂らし続けている。それくらいのことを確認できるほどには呼吸が落ち着いていた。そこで弦一郎は緩く首を振った。繰り返しても繰り返しても、結局これから先も繰り返すだろう自分の性格への呆れだ。衝動で動く癖を好しとは思わないのに、どうも自分には決定的に後悔するというスキルが足りていないらしい。それすら自覚するようでは、いよいよ駄目だな、と心中苦笑した。ふと目を開けると遠くの空で雲に稲光が走るのを見た。
南次郎に拒まれたことは、ひょっとしたら弦一郎が招いたことかもしれない。ひたすら明るい車内はくたびれた人がぽつぽついるだけだった。そのために静かで、弦一郎は落ち着いてそんなことを考えた。何故ならば紆余曲折、一度と言わずリョーマを泣かせたことはあるからだ。託されておきながら無責任なことをしたとあのときはひどく悔しかったが、リョーマは二度とも彼を許した。それどころか、些事だと言わんばかりに悠々と笑って、小生意気にも弦一郎を圧倒するような優しい感情で彼を抱きしめてくれた。勿論、だからと言って全てが許されたとは弦一郎自身微塵も思っていない。だからもし南次郎がそのことを怒って弦一郎を見限ったのだとしたら、それは平謝るしか対処の仕様がないことだ。しかし、リョーマの自分に対する想いを、弦一郎は十分に信頼している。
だから今回の南次郎の下した言葉は、弦一郎の中の理に適わない。
彼に娘を託すと言われて、リョーマを好きになって、覚悟をして、反対に彼女を託してくれと彼に頼んで、勝負をして、勝った。順番はぐしゃぐしゃだったけれども、弦一郎は精一杯誠意を示してリョーマの隣にいる権利を自分の力で得た。その過程すらあの人は知っている。それなのにこの非情さだ。何か余程の理由があるとしか思えない。つまり、リョーマに何かあったのかもしれないのだ。
だから自分は行かなければならない。誰かに言われた、会うな、の一言より、自身の中にあるひとつの使命の方が、弦一郎にとっては先に存在していて、大切なことなのだ。
守る。リョーマを守る。ひとりにしない。絶対に、もう二度と。
睨む夜の暗い風景が、光の筋だけ見せて流れていく。早く、と祈って弦一郎は歯を食いしばった。

街の明かりが遮光ガラスにうすぼんやりと、たくさん浮かんでは消える。揺れのほとんどない快適なリムジンの中でうたた寝していた跡部景吾は、信号で止まった車内で目を開くと最初にそんなものを見ていた。眠気の霞みがかった頭と瞳を頬杖をついて支え、そのまま視界がはっきりするまで窓の外でも見ようかと何気なく思った。駅前の繁華街は平日の夜、帰宅ラッシュで人がごった返している。無国籍なこの国の街並みはあまり好きではないが、オフィスから帰る人の群れというのはどの国もどこか似通っている。家路恋しく、一日の疲れを引きずっても重たいながら足さばきは早い。ふん、と鼻を鳴らしてそんな凡人どもをひそやかに見守っていると、景吾の目に小さな人の塊が映った。信号が青に変わり、リムジンが動く。すると角度が変わって群れる人の中心に、何だか見知っている奴が二人。それも掴みあってはいまいか。そう気がついた途端、優雅にシートへ沈ませていた体を景吾は大急ぎで起こした。そしてすばやく運転手に、止めろ、と命じ、熟練の運転手が実にスムーズに停車すると慣れた様子で、しかし景吾の様子を悟って急いで、同乗していた樺地崇弘がドアを開けた。おかげでこれ以上ないというほど無駄なく人ごみへ駆け付けた景吾は迷うことなくその中心に飛び込んだ。
「やめろ、テメエら!」
ありったけの力を両肩、両腕に込め、右手でやや細身の引き締まった体を、左手で重量感のあるたくましい体を、それぞれ押しやった。景吾がまともに騒ぎの中心人物たちを見たのはその直後であったが、やはり止めに入って正解であったとより確信しただけだった。即ち、右手は手塚国光、左手は真田弦一郎。もれなくふたりとも掴みあったようで制服の襟元が乱れ、揃いも揃ってずぶ濡れていた。良い体躯のスポーツ少年二人が、夜の繁華街で喧嘩沙汰を起こしかけて目立たないはずはない。おまけに本来ならば二人ともそんな愚かな真似をしないだけの理性を持ち合わせているはずだ。するとテニス以外で二人が衝突する理由など考えるまでもなく、景吾は辟易としたが、下手に首を突っ込んだ分、仲裁の任務は果たしきらなければならない。有無を言わさず二人の首根っこを掴んだ景吾は崇弘に後の野次馬を任て、とにかく馬鹿二人を静かそうなところまで引きずっていくことにした。

情けない気持ちが体中に満ちていた。だからこのときばかりは真っ直ぐ家に帰る気になれず、国光は珍しくも街中を宛てもなく彷徨っていた。そうするうちに行き着いたのは青春台駅の前で、人の往来も賑やかな、こんな明るい所に来たのは軽く天罰にも思われた。自分の所在のなさ、軽々しいくせに執念深い想い、それらを明明白白にしてやろうという嫌がらせのようではないか。下手な猜疑心に塗れたものだと自嘲した国光は、人を吐きだし続ける駅の改札口を見つめた。とてもあの明るさに近づこうとは思えないが、大勢の中に紛れ込んだら今の切り捨てたいほどの嫌な自分が隠れるか、薄まってくれないかと淡く期待もしていた。だから足はふらふらとそちらへ向かい、いよいよこれ以上近寄ることは出来ないと足が竦んだ頃、ところどころ人を押しのけて文字通り飛び出してきた男が国光の目前に降ってきた。ぶつかるかという正面ギリギリで地に降り立った彼は、それでもぼんやりした国光は眼中にないようで、避ける素振りもなくまた前進を試みた。もちろん、勢いよくぶつかった。ところが国光にはぶつかったから、などという以前に、既に目の前の男を呼びとめる意思が生まれていた。そこで慌てて立ち去ろうとする相手の肩を、素早く、容赦なく掴んでやった。抵抗を食らってガクン、と揺れた大柄の体が焦燥と鬱陶しさを込めて振り返る。そして彼は瞠目した。
「…手塚っ。」
「何故、お前がここにいる。」
ただの驚きで名を呼んだ弦一郎と違い、国光の詰問は苛立ちと怨恨に満ちていた。さらに驚いた弦一郎が間合いを取ろうと身を引くが、国光は掴んだ肩を放してくれない。咄嗟に彼の手首を掴んだが、これまたびくともしない。早く先に行きたくて弦一郎の足がもがき、ばたついたが、国光の体にはますます力が入った。彼の踏ん張った足元は舗装のタイルで滑りやすいのにも関らず微動だにしない。その内に国光の怜悧な面持ちに埋め込まれた瞳が燃えているのを見つけると、弦一郎は舌を打った。譲る気は全くといっていいほどないようで、仕方なく弦一郎が折れる決心をした。動きたい足を堪え、じっと国光を睨んでやった。
「…放せ、リョーマに急ぎの用があるのだ。」
リョーマの名を出すことが得策であるとは決して思わなかったが、正直弦一郎にも余裕がなかった。
しかし、国光を知っている人間の誰が一体、この瞬間の激情が彼から引き出されると予想できただろうか。それは弦一郎も例に漏れないことで、次の瞬間、馴染みの少女に叩かれたのと同じ頬を勢いよく拳が掠った。武道にある程度精通している彼だからこそ、それは掠めるくらいで済んだのだが、もしまともに入っていたなら頬骨が無事である保証はないであろう、それほどの一撃であった。当然というか、弦一郎は逆上した。手塚、と腹から怒鳴りつけてやり、青学のYシャツの襟を掴みあげた。国光より上背のある弦一郎にかかると国光の踵は少しばかり浮いたが、それに負けじと国光もネクタイごと立海大の制服の首元を鷲掴んだ。
「よくも…俺の前で、越前の名を出せたものだな…!」
「黙れ!今、貴様の相手をしている暇はないのだ!」
「それが敗北者の科白か!」
「何だと…!」
国光にしては苛烈な物言いが存分に弦一郎を刺激した。荒れ狂って揺さぶった国光の襟からひとつボタンが弾け飛ぶ。与えられた暴力は国光にとっても火に油で、彼もまた、反対に弦一郎を突き飛ばそうとすると指が引っ掛かり、彼のネクタイをほとんど解いてしまった。押されて後ろによろけた弦一郎であったが、すぐさま、また掴みかかろうとする。しかし右手はそれを予期していたらしい国光に思い切り弾かれてしまい、けれどその反動で降り上がった左手がまた彼の襟を捉えることに成功した。
「俺は勝つ!次こそ必ず勝つ!だが今はあいつの元に行かねばならんのだ!」
「勝手を言うな!そんなことは俺が許さない!」
「あいつの身に何かあったのやもしれんのだぞ!」
そう弦一郎がたきつけると、僅かに国光が怯んだ。その隙に、今度は弦一郎が国光を突き飛ばす。休まず振り返った彼は駆けだそうとしたが、突然首が締まり、それは叶わなかった。襟首を掴まれ後ろに引かれたのだ。勿論やったのは国光で、そのまま引き倒さんばかりに引っ張り続けるのに堪えかねた弦一郎は後方に足を蹴りだした。敏捷な国光は咄嗟にかわしたが、微かに脇腹を抉られてしまい、結局弦一郎を放した。とは言え解放されても咳き込んでしまい弦一郎はすぐさま動けず、脇を押さえながらも近寄ってきた国光に再び、解けかけのネクタイごと襟を掴みあげられた。
「今更だな…。それとも罪滅ぼしのつもりか。」
国光の声は冷淡だった。彼の発した感想はあくまで事実を淡々と評しており、それだけ残酷極まりない。勝手な憎しみがこもったそれを浴びせられて弦一郎はどうしてだか、一瞬肝を冷やした。弦一郎が顔を上げると国光は低い声とは別に嘲笑を、その感情とは縁遠いと思われていた顔に浮かべていた。明らかにこの男は弦一郎を蔑んでいた。彼らしからぬその態度に弦一郎は大いに失望し、また身に覚えのある罪を告発されたような恐怖を感じてしまった。そんなはずはない、と首を振ると、否定しても無駄だと言わんばかりに鼻であしらう国光の声がした。
「俺なら…俺なら越前を傷つけたことはない。俺ならずっとあいつの側にいてやれる。お前よりずっと、ずっと純粋にあの子を、好きでいるのに…どうしてだ、何故、何故お前なんだ!」
がくがくと襟を揺すられ、そのせいか弦一郎の頭の中は掻き乱されるような苦悶を感じた。確かに、そうだ。
傷つけた。
離れてしまった。
いつから、好きでいるのか。
全ての記憶が奥深いところにあって呼び戻すのに、いやに時間がかかる。頭が、痛い。
「……っやめろ!」
ひどい頭痛で思わず頭を押さえ込んだ弦一郎が国光を離そうと腕を振った。しかし目測もつけずにやったために宙を掻くだけで何の効果もなく、勝利を感じて愉悦した国光はとどめの言葉を浴びせようと口を開いた。
「そうだ、忘れたふりはいい加減にやめろ。お前は所詮越前を…。」
「やめろ、テメエら!」
いつの間にか出来ていた人だかりを掻きわけて、景吾が二人のいざこざに割って入ったのはそのときだった。

――――――
今回書いてて一番楽しかったは喧嘩のシーン。



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