40.We only wish you whole.


生来運動はどちらかと言えば苦手である竜崎桜乃にとって、徒歩圏内とはいえ、炎天下のアスファルトが続くばかりの越前家への道のりはなかなか厳しいものであった。木陰で熱くなった膝を冷やし冷やしで前半までは生き延びた。ところが道中、友人の小坂田朋香と落ち合って以降はそういうわけにもいかなくなってしまった。朋香は実にタフな少女だ。家庭の事情で運動部にこそ所属していないが、きっと彼女ならばどのようなスポーツでもかなり優秀な成績を修めることが出来るに違いない。そんな彼女にかかれば蝉がジワジワ鳴き喚く、夏としか形容の仕様がないほど澄んだ青空も、鉄板のように加熱した道路から蒸しあがってくる高温の空気も、その歩調を緩めるには役不足になってしまう。滴る汗を男らしくぐいっと拭って、ずんずん先を急ぐ朋香に最早待ってくれ、と頼む余力もなく、ひいはあ言いながら桜乃はただもう一心不乱に転ばないことだけ祈りながら歩きぬいた。
そうやってたどり着いた越前家の門前で、不意に朋香が立ち止まった。いつもならば、あの崇拝してやまないリョーマの家へ来たのだから、ここからさらに加速して家屋に飛び込むだろう朋香にふさわしくないその行動に、数十秒遅れて追い付いた桜乃はまだ静まらない呼吸で声をかけた。
「…はあ…どうしたの、朋ちゃん…。」
朋香の顎のラインをなぞって汗が滞りなく一筋垂れるのを桜乃は見た。固い横顔だった。それで彼女が緊張しているのを悟って、家の影で熱が引こうとし始めた前かがみの体を、桜乃はぐっと起こした。そして朋香と同じように未だ閉じられたままの玄関の戸を見つめる。すると確かに桜乃にも緊張が走った。
どんな顔をしてリョーマに会い、どんな言葉を彼女にかければいいだろう。越前リョーマが学校にも、部活にも顔を見せなくなって、今日でちょうど一週間が経った。
「元気、かな。リョーマ様。」
張り詰めた声で朋香が尋ねる。相変わらず玄関を見つめてばかりの彼女であったが、その問いは桜乃に向けられたもので、しかしながらおそらく答えを期待しているものではないだろう。お互い、今リョーマに何が起こっているのか知らないのを、朋香は十分分かっているのだ。
桜乃がリョーマの姿を見かけないことを気にして朋香にそれを漏らし、二人で男子テニス部を訪ねたのが今日の訪問のきっかけだった。その際、逆に副部長の大石秀一郎にリョーマの消息を飛びつくように聞き返されて桜乃と朋香は二人して目を白黒させ、顔を見合わせた。代表して朋香が、知りません、と返すと秀一郎はほとほと困った様子で、そうか、と独りごち、肩を落とした。彼曰く、越前リョーマの欠席の理由は不明なのだそうだ。顧問のスミレは勿論、越前家へ連絡してもリョーマ以外の家人は出て、対応してくれるがリョーマと直接話すことは許してくれない。それどころかこのことに関して、誰よりも部長の手塚国光が関心を寄せないために、結局秀一郎が全ての懸念を一身に背負う羽目になっている。その日は余程自分で越前家を訪れようと思っていたと秀一郎は言ったが、ふと、目の前の二人の少女を見て彼は微かな希望に縋るように、やにわに顔色を明るくした。
そうして桜乃と朋香はリョーマの様子を窺ってくるという重大な任務を彼からことづかった。弱り切って胃潰瘍にでもなりそうな先輩からの頼みごとを断れるほど桜乃と朋香は非情ではないし、何より二人ともリョーマが心配だった。体の具合が悪いならそう言ってくるだろうが、越前家の人ははっきりとした理由をくれない。家の用事でもないだろうし、すると残された要因は精神的な疾患くらいしか思い当たらない。というのも桜乃も朋香もリョーマの宿している翳りを、何とはなしに、けれどとっくの昔に感じ取っていたからだ。
それでも近頃のリョーマはその翳りを薄めるほど元気だった。前よりも表情は柔らかくなったし、たまに微笑むと同性から見てもはっとするほど艶やかであった。リョーマが綺麗になったのだ、と気がついた朋香はほんの少しほろ苦く感じたけれども、大半は桜乃と同じように心からその変化が嬉しかった。
ほんの一週間前までそうだったのに、どうしてリョーマは皆の前から姿を消してしまったのだろうか。たくさんの嫌な予感や不安が去来して朋香は今、握った手を震わせていた。これからリョーマにまともに相対せるかさえ分からない。怖いな、と声もなく呟くと、それをかき消すようにしっかりとした、けれどいつも通り控えめな桜乃の言葉が耳に届いた。
「分かんない、けど。」
桜乃は胸に抱えたバスケットにぎゅっと力を込めた。昨晩作ったレモンゼリーが中にはぎっしり入っていて、器用とは言い切れない身で一生懸命試行錯誤したのを思い返す。
「それなら私たちでリョーマちゃんを励ましてあげようよ。」
桜乃の明るい声に振り向いた朋香は、彼女の愛らしい笑顔を見てほんの少しだけ泣きそうに顔をしかめた。しかしすぐさま首を振ると高く括ったツインテールがぶんぶんと揺れて、頬を叩いた。痛くて元気が出る。彼女は歯を剥いて笑った。
「桜乃ってばいいこと言うじゃん!」
こういうとき芯から強いのはむしろ桜乃の方かもしれない、と朋香は何かあるたびに痛感する。もらった勇気を震えそうな指先いっぱいに集めてインターフォンのボタンを押した。

今朝から越前家は静かだった。南次郎と倫子は連れだって用事で出かけ、昼過ぎの今、菜々子もそろそろ大学の講義があるため出かけようと準備をしていた。廊下を小走りに歩くとキッチンで何か飲み物を冷蔵庫から取り出すリョーマを見かけた。そして反対側に目を向けると洗面所の鏡に映る自身がいて、そちらに吸い寄せられた。メイクした目元が少しばかり気になったのだ。右手の薬指で目頭の辺りをちょい、とこする。夏用に買ったアイシャドーで涼やかな色をした瞼だが、少し派手だったろうか。うーん、と唸っていると玄関の呼び鈴が聞こえた。外の世界に引き戻されて菜々子は慌てて大きな声を出して来訪者に応えた。またパタパタと駆けていく忙しい従姉をキッチンから廊下に出てきたばかりのリョーマはコップに入れた麦茶を啜りながら見つめた。玄関のガラス戸には二人分の影が見えた。
「はいはーい、どちら様で…あら。」
「こ、こんにちは!」
戸の向こうから突如背が高い美人が現れ、瞠目して朋香と桜乃のあいさつは上ずった。菜々子との面識はあるが、二人の緊張の糸はそれほど限界近くまで来ていた。それをほぐすように、菜々子は喜色満面でほほ笑んでくれた。
「朋香ちゃんと桜乃ちゃん。よく来てくれましたね。」
「あ、突然すみません、あの。」
リョーマちゃんは、と桜乃がおどおどしながら尋ねると、菜々子は難なく身を避けて二人に廊下の奥を見せた。
「いますよ、ほら。」
朋香と桜乃が乗り出して見つめた家の奥には、そっけないTシャツとハーフパンツでそっと立ち尽くしているリョーマが、ひどく当たり前のようにいた。
「小坂田…に竜崎まで、何してんの。」
追い打ちをかけるように事もなげにそんな言葉を振りまいたリョーマがぺたぺたと血色の良い裸足で玄関口までやってきた。それを見てようやく緊張が緩み、朋香も桜乃もいっそ、その場で膝まで抜けそうになった。二人の心底気の抜けた様子をリョーマと菜々子は顔を見合わせて首を傾げあった。外でジワジワ鳴き続ける蝉の声が、熱気とともに家の中へ忍び込む。少し冷え始めていた両足にその温もりを相当久しぶりに感じて、リョーマは瞬間、二人が訪れてきて今のような反応を示した理由が分かったような気がした。家人以外と口をきくのは、思えば一週間ぶりである。だから、家に上がるか、と朋香と桜乃に尋ねた。汗をかいて真っ赤な頬をしていた二人が何度もうなずくのを見て、リョーマは肩を竦め、菜々子は安堵して微笑んだ。リョーマが家に閉じ込められていることに正直彼女は賛成しかねていた。それでも南次郎の言いつけだから守っていたが、これが何かの変化になればいい、と願わずにはいられない。冷えた麦茶を人数分用意してリョーマに持たせ、二階に上がっていく三人の少女の後ろ姿を見送った。ようやくつきたかったため息を菜々子はついた。が、直後にそれを呑みこむ。
「行けない!遅刻しちゃう…!」
悲鳴じみた従姉の、いってきます、が階下に響き渡ったのを訝しげに思ってから、リョーマは自室に朋香と桜乃を入れ、ドアを閉めた。

桜乃が持ってきたレモンゼリーは予想以上に美味だった。舌の上で潰した瞬間は口周りがきゅっと締まるほど酸っぱいが、宥めるように甘みが広がる。おいしい、とリョーマが素直に言ってやると、頬を真っ赤にした桜乃は泣きそうなほど微笑んで元気に頷いた。それから少しばかりゼリーをつつくだけの無言の時間が続いたが、決して不快なものではなく、三人とも単純に食べ物のおいしさを楽しんでいた。とは言ってもそれがおいしいほど、リョーマには来るべき時の内容が知れた。自分のためにこんな良いものまでしつらえて、わざわざ暑い中をやってきたのだ。鬱陶しい、とも言えるが、ここはありがたい、と言うべきだろう。心のひねくれたところでどう思おうが、リョーマには彼女たちを無碍にすることは出来ない。それくらい今、彼女は優しさに飢えていて、本当は今すぐにだって泣きだしたい。いっそレモンゼリーのせいにしてやろうか。そんなことを思いついたら、くだらなくておかしかった。そしてとうとう、空になったカップを卓上に置いた朋香が意を決したようにリョーマに向き直った。
「あの、リョーマ様。あのですね、えっと。」
朋香の言葉がもたついた。その間に後ろ手をついて仰け反ったリョーマは天井を見つめた。既に見飽きたそれは近頃では目にするだけで気が狂いそうですらある。そのせいでついたため息が苛立たしく聞こえたのだろう。実際そういう気持ちで吐いたものだったが、同時に朋香と桜乃がびくつのでちょっと笑えた。
「…どうせ大石先輩辺りが心配して胃に穴でも空きそうな顔してたんでしょ。」
狼狽した声が朋香から上がった。どうやら当たったらしい。ということは国光は沈黙を貫いているわけだ。ストイックさが緩んだと思ったら分かりやすく意固地な男だ。親友の豹変もきっと秀一郎の腹に痛恨の一撃をお見舞いしているのだろう。リョーマの口からまた別のため息がもれた。そんな彼女を恐る恐る覗き込む朋香と桜乃に気付き、観念したように苦笑してからリョーマはちょこんと卓上の脇で構えている二人を見た。
「…別に好きでひきこもってるわけじゃないんだけどね。」
桜乃が息を呑んだ。
「リョーマちゃん、あの…聞いてもいいの。」
彼女らしい質問だ。桜乃のおどおどした態度というのはおそらく、自分よりも相手が傷つかないかすぐに気にしてしまう性格のせいなのだろう。そう思ってくすり、と笑いかけれやれば、その微笑の優しさと裏に潜む底の見えない穴のような虚しさが桜乃から言葉を奪った。
「それを聞きにきたんじゃないの。」
視線を外して目を閉じたリョーマがからかうように言ってのけた。問い返されたことに、どもりながら桜乃は頷き、いよいよ心拍数の上がってきた朋香は胸の前で手を組んだ。注がれる熱い眼差しを友情と呼ぶなら、これから話すことは漏らすことなく受け止めてもらえるはずだ。
そう信じて、縋ってみようか。リョーマは体の深いところで息を吸った。


――――――
スーパー女の子だけタイム



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