39.Then, we are separated despite ourselves.


「リョーマ!」
掴んだ手からは微かに鼻に刺さる、酸っぱい臭いがして南次郎は一瞬顔を歪めた。
穏やかな晩を迎えようとしていた越前家に襲いかかったのは娘の裂けんばかりの悲鳴と救済の声で、驚いて固まる妻や姪を後にして彼は一番に飛び出してきた。引き戸の玄関を開けば家からの明かりがぎりぎり届くところに、降り注ぐ雨にも構わず座り込んでいるリョーマがいた。今ではもう虚ろに空を見上げていて、頼りなく両腕を空中に彷徨わせては一生懸命何かを掴みたがっているようで、しかしながらその指先はその何かを掴む気がないように開かれてはいない。
その奇怪なさまにぞっとして、大急ぎで駆け寄った南次郎は娘の腕を取ったのだ。名前を呼ぶと、ぶつぶつと何か呟いていたリョーマが黙った。ほんの少しだけ首が傾き、瞳に南次郎を映す。
その瞬間はまた絶叫だった。
気がついたときには南次郎は後ろにひっくり返っていて、目前では同じように座り込んだまま仰け反ったリョーマが足を不規則に蹴り出しては命がけで後ずさろうとしている。その顔がただの恐怖で南次郎を見つめていて、彼は一気に血の気が引いてしまう。
「リョーマ…お前、まさか…。」
それ以上が言えず、驚愕するだけの南次郎の脇をほんのり甘いような香りが駆け抜けた。一拍遅れて飛び出してきた倫子だった。リョーマ、と我が子の名を呼んで彼女は躊躇なく雨水で浸った地面に膝をつき、怯えるその子をぎゅっと胸に抱きしめた。
リョーマはがくがくと震えていた。けれど乾いた柔らかい布の感触が顔全体を包み、温かさと嗅ぎ慣れたふわりとした香りに気がつくと、それらが凍った心を緩やかに解いてくれた。
「かあ、さん…。」
ようやくリョーマが呟くと、倫子の泣きそうだけれど強く、優しい声が、うん、と言った。
「母、さん…。」
「うん…。」
これ以上ないというほど大切そうに、慰める手がリョーマの頭を撫でる。
「あたし、…あ、あたし…。」
再び震えだしたリョーマの声が必死に彼女自身のことを示す。父親である南次郎が、先ほど激しく突き飛ばされたさまが思い出されて倫子はさらに強くリョーマを、それこそ覆い隠してしまおうとするかのごとく抱きしめた。
「ええ。ええ、そうね。ああ…リョーマ、アンタ、かわいそうに…かわいそうに…。」
かわいそう、とはっきり言われるともう我慢がならなかった。この数年、親の前で涙など見せなかった。見せたら、きっと今みたいに言われてしまうのが分かっていたからだ。例え愛情と優しさで与えてくれたのだろう言葉であっても、声に出されるとリョーマは「かわいそうな子」になってしまう。そう自分というものを捉えざるを得なくなるのだ。
だから泣いた。もう周りの余計なものなど一切聞こえないようにと望んで泣いた。
そのくせ倫子が小さく言った事実はちゃんと聞こえてしまって、何のために泣いたのか、どの道涙は止まらなかったが、その意味はすぐに分からなくなってしまった。
「リョーマ、お前、思い出したのね…。」
そんなこと分かっている。思い出した。あのときのことなら、あの汚れきった記憶なら、助けを呼んだあとは現実と混ざってぼやけてしまったけれども、倫子の言ったことならリョーマは全て思い出していた。
抱きしめ返そうと倫子の背に手を回す。けれど、とうとうしがみつくことをリョーマはしなかった。躊躇われたのだ。手が汚れているという意識が根深かった。それは今、実際に汚れていることもそうだし、もっと記憶の、それこそ一番深いところでそう思っているせいでもある。そんなもので今まで彼に触れていたのかと思うとぞっとしたが、逆に、だからこそ触れられたような気もする。
どうしてだろう、と小さく疑問に思う。それにしても温かい。冷えていた体に人肌は何よりうれしい。そんな柔い母親の感触に守られて、リョーマは次第に薄暗い視界へ帳を落とした。

幸村は両の頬を膨らませていた。潮風は撫でるものから軽く弄るものに変っていて、それは先ほどから降り始めた雨のせいだ。それから逃れて近場のバス停へ飛び込んだ。そのこと自体は構わないのだ。むしろ雨宿りと称してさらに隣の彼と二人きりの時間を共有できるなら、それこそ大歓迎と言える。無論、それは彼の意識が自分に向いていれば、の話である。
「ねえってば。もういい加減にしたら。」
うんざりして駄々をこねるような声で幸村は何度目か知れない忠告をした。しかしその度に、バス停の屋根の低さを窮屈に感じていそうな様子の彼は、ぱちくりと目を瞬いて一度は電話を下ろす。
「ああ…すまん。」
素直に謝られる。が、幸村はじろっと弦一郎を睨みあげた。そろそろ来るぞ、と思い切り嫌な顔をしてやったが、しばらく眉根を寄せて黙っていた弦一郎は結局、また電話を取り上げる。機械に弱いくせにリダイヤル機能だけはばっちり覚えてやがる、この大馬鹿野郎!ローファーで地面を蹴っ飛ばすと、湿った地面はじゃり、と気味悪い音をたてる。
「ああ、もう!何回かければ気が済むんだい!」
それから同じやり取りがもう一度繰り返されると、いい加減痺れが切れた。腰かけ用のポールから飛びのいて、握った両手の拳をぶん、と振り下げた幸村がまた頬を膨らませた。はっきり反抗を行動で示されて、弦一郎もさすがに、ぐ、と唸る。幸村の怒りももっともで、仕方ないことだ。何故なら二桁には届かないが、それに近い数は既に同じ電話番号にかけ続けているのだ。その途中に雨は降りだすし、こうして幸村を怒らせてしまうし、自分でもほとほといい加減にすればいいのに、とは思う。しかし弦一郎はどうしてか、リョーマへ呼びかけ続けるこの行いをやめようという気にならなかった。やめてはいけない気さえしていた。理由など勿論分からない。だが胸の辺りがなんだかもやもやする。こういうときの直感は大概外れないものだ。
一度電話を切る。そしてむずがるように弦一郎を見上げる幸村の髪が、湿気を吸って少し重たく見えるのに何だか心が痛んだ。
「悪い、幸村。何なら先に帰ってくれていい。」
傘も持っているだろう、と何の気なしに見透かされたことを言われて、少しだけギクリ、と幸村の肩が跳ねた。それからみるみる内に何かを堪えるような表情に変わった彼女は、さっと俯くとついに大声で彼を罵った。
「馬鹿!」
ドン、と胸の辺りを押されて背がやや乱暴にアクリルの壁に叩きつけられた。その衝撃にまた弦一郎が何度か目を瞬かせていると、押した胸の辺りで彼のシャツの襟を両手で掴み、顔をその間に埋めてしまった幸村の頭が目下にやってきた。そこから幾度も自分を罵倒する声が弱弱しく聞こえ、弦一郎は不可解さに首を傾げた。どうしたのだろう。何をそんなに怒っているのだろう。それほどのことを自分はしてしまったのだろうか。自問自答を繰り返してみるが、ついには分からなかった。ただ、もう泣きそうな幸村の声を聞いていると、これ以上リョーマのことばかり気にかけるのはさすがに非情だと思われた。
そこで弦一郎は自分の右手を幸村の肩に置いてみた。重い手は服越しでも熱くて、幸村は微かに震えて顔を上げた。
「…悪かった。」
それだけ零すと、眩そうに弦一郎を見上げる幸村の目が細められる。そのままだんだんと薄い笑顔に彼女はなって、緩く首を横に振った。
「いいよ、私も、ごめん。急に変なこと…。」
戻り始めた穏やかな空気に弦一郎も頬を緩ませかけた。すると少しだけ空気のこもったその空間で、何かの音が壁に当たって跳ね返ってきた。下ろしたままの左手の中で光るものがあって、それを見下ろした途端、無意識に腕が上がる。
「だめっ!」
それを遮ったのは幸村だった。両手で弦一郎の腕を抑え込みにかかると、彼女はじっと強い視線で真っすぐ弦一郎の瞳を見つめてきた。迷いのない目だ。固い意志がそこに窺えて、一瞬怯む。ところが一方的に弦一郎の心拍数は上がっていた。耳に届く、何の変哲もない呼び出し音が切迫して彼を求めているように思えるのだ。幸村も十分意固地だが、精神の揺るがなさなら負ける気はしない。だから未だに置いていた手で幸村の肩をぐい、と押しのけた。その力には抗えず、引きはがされた彼女の目の前で、弦一郎は電話に応えた。
ぱん、という音がしたので、その瞬間はまた幸村がふざけたのかと思った。ところがじわり、と自分の頬が痛くなるので弦一郎は目の端で震える平手をかざす彼女を捉えた。
「…ほんと…真田の馬鹿っ!」
それが最後の罵倒で、振り返ってしまった幸村は逃れるようにその場から走り去ってしまった。足音代わりの水を弾き散らす音がどんどん遠ざかっていくのを目で追っていた。だから聴覚は暇で、左側から囁いてきたあの子の父親が覇気なく言ったことを何の抵抗もなくすんなり受け入れた。そして言葉を返す相手がその場にも、受話器の向こうにもいなくなってから弦一郎は何もかもが飲み込めなくなって、え、と単なる驚きの声をもらした。

『なあ、弦ちゃん、勝手言って悪いんだけどな……もう、リョーマに会わないでやってくれ。』


――――――
おやっさん≒イニシアチブ



[ 39/68 ]

*prev next#
[back]