38.Do you take me as I am?


レンガ造りの古ぼけたアパートはひどく狭い間隔で立ち並んでいて、仰向けになると見える空なんてほんのちょっとしかなかった。それでも空は明るいからいいな、と感情を捨てかけた目に涙が浮かんだ。吐いたものの名残で口の中が酸っぱい。じんわりと擦れる痛みが断続的で、熱いのか痛いのか、もうよく分からない。足の間に挟まった体が雄たけびを上げて、リョーマの足首を掴むと、それを目一杯リョーマの顔に近づけてきた。子どもの体だから柔らかくて簡単にしなる。相手の思い通りなのが屈辱で、まだそんなふうに感じられることに少しだけほっとした。それでも無情に腹の辺りがわっと熱くなって、何回目だっけ、と数えそうになると急激に吐き気が舞い戻った。そのくせどうも胃は空っぽになってしまったらしく、苦いものが喉に込み上げるのが精一杯だった。かはっ、と喉が鳴って全身から力が抜けた。埋め込まれていたものが抜ける。そこにぽっかりとした感覚があって、体に穴が空いたのかと不安になっていると、愛しげに髪を梳かれ、頬をぐるりとなでられた。くすんだ色の瞳がリョーマの目に触れるほど急激に近寄る。そのせいで他人の息を吸い込んでしまうとリョーマは小さく噎せた。それを聞きつけてげらげら笑いたてた大柄の男は徐にリョーマの右腕を掴んでぐい、と引っ張り上げた。捲り上げられていた白いワンピースがストンと落ちる。釣りあげられたリョーマが、痛い、と呟けば、それを押しつぶしてまた顔を寄せた男は至極狂喜した目で言った。

『お前は俺のものだよ。』

それは形振り構わない悲鳴で、喉を潰してしまうのではと心配してしまうようなものだった。国光の耳をつんざいたのはそういう類の声だった。最初はそれが腕の中に閉じ込めた意中の娘のものとは思いもつかなかった。彼女は言葉を失っていた。声はただの声、音と言った方がより正しい。ただ何か伝えようとしていて、言葉にならなくてもはっきり分かるのは拒絶と恐怖による錯乱だ。同時に先ほどとは比べものにならない力で我武者羅に彼女の腕は振られた。怒り狂って飛び交う腕に思わず国光は飛びのき、その場に崩れ落ちたリョーマは四つん這いから頭を下げていき、泥のようになった地面を払ったり引っかいたりをしばらく続けた。その間も阿鼻叫喚の悲鳴は辺りを引き裂くように轟き続け、あまりの変貌ぶりに頭の中が真っ白になった国光は恐怖すら覚えて竦んでしまった。どうしたらいいのだろう、何が起こっているのだろう。青ざめて必死に考えようとはするが、完全な狼狽に陥った国光はただひたすら進まない推量の淵を彷徨った。
やがて小さな電子音が響き始めると、リョーマの叫びは唐突に止んだ。
しん、と一瞬、その音以外全ての音が消えたような、そんな錯覚がその場に広がった。ゆっくりと、単調で単純な旋律がひとつひとつリョーマと国光の耳へ届き、二人の心音もそれに合わせるように不思議と静まっていく。次第に戻り始めた雨音が再び体をずぶ濡らしていく感覚に、最初に震えたのはリョーマだった。髪をつたって瞼や顎へ流れ注がれる露は鬱陶しく、視界をどろどろに歪ませ、あたかも身を切りつけるように蘇ったばかりの記憶を蒸し返す呼び水だ。泥まみれになった手のひらは嫌悪を催させた。ただ耳に届く機械的で澄んだ音だけが道しるべで、悲しいのにどこか嬉しい。未だに乱れた息のまま、よろりと立ち上がれば小さく声がもれた。重い雫を垂らしたまつ毛の先にはいつの間にか遠く退いていた国光がいて、呆然自失と自分を見つめているのをリョーマは見とがめた。
国光の頭の中は本当のところを言えば依然として凍りついていた。それでも無理に働かせて、国光がリョーマを恐れてしまった理由をこじつけようとした。それは、そう、リョーマの荒れ狂った姿の原因、彼女の過去だ。それに違いない。きっと自分の愚行でリョーマに思い出させてしまったのだ。
だから国光はすまなさと憐れみを強く覚えた。許しを乞おうとまでは思わなくても、すまない、と言って、かわいそうに、と優しくしてやりたい。上手く動かない腕を必死に上げて、手を差し伸べた。
それに一瞥くれたリョーマはほんの少しずつ、うっすらと笑顔を見せて言った。
「…半端なこと、しないで。怖いならあたしに、触らないで…。」
隠しきれない怒りの零れるような、冷たくて熱い笑顔だ。圧倒的な言葉の重みに国光の足が竦んだ。掲げた手はすぐに力を失ってくたりと垂れさがり、見透かされて初めて今の行動こそが浅はかであったことに、彼はようやく気がついた。しかしもう謝罪のしようはなく、ふいと顔をそらしたリョーマはそのまま小走りに境内から出て自宅の方へ階段を下っていってしまった。

リョーマがいなくなって随分経ってから、国光は落ちたままのラケットを拾った。そして転がったままのボールの元まで足を引きずるようにして赴くと、持ち上げたそれは水を吸ってぐったりと重たい。まるで今の心のようだし、リョーマに突き付けられた残酷でもっとも確実な言葉のようでもある。どの道、どちらも国光には背負いきれない。そう痛感した。
リョーマの見せた狂気と暗い瞳に、慄いたのはまぎれもない。彼女を愛しいと思っていた。可愛いとも、護りたいとも、誰よりも側にいたいとも、全部強く願って間違いのないことだった。
それなのに、どうしてだろう、怖がってしまった。怖がって、何もできなかった。国光が正気に戻れたのはリョーマから狂った気色が失せてからのことで、もしあのときあの音が聞こえてこなかったなら今もなお、彼はここで石のように固まりきって馬鹿みたいに立ち尽くしているはずだ。いや、下手をしたら逃げ出していたかもしれない。怖かった。怖いだけだった。拒絶されて、その先へ無理やりにでも立ち入る勇気など、国光の中では湧く気配すら現れてくれなかった。
生半可に焦がれることの、なんて愚かしいことか。目の前が霞んで瞼を閉じると、分かっているのにそれでも溢れた。リョーマが好きだ。けれど及ばない。彼女の何もかもを包んでやれない。あんなに深く傷ついたことはない。あんなになるほど人が傷つくのを見たことがない。
でも初めて抱いたこの気持ちが、何故だ。捨てきれない。
額にびたりと手のひらを押し当てて、指先で前髪をぐしゃりと強く掴んだ。食いしばった口元から小さく唸りが聞こえて、引く気持ちと押す気持ちのどちらにも傾くことが出来ない。苦しくてたまらない。
越前、と呟くとばちゃり、と足元で跳ねない落下音がした。もう両手は一杯でボール一つ持っていられない。だけど。
「…っ、好きだ……。」
水を吸いすぎたボールがもうそれ以上水分を受け入れられなくて、表面にだらだらと降り注ぐものが漂う。雨水にすら行き場がなかった。

小さく走り続けている自分の足を機械的だとリョーマは思った。休むことも詰まることもない妙にスムーズで整った動きは、これが彼女の意思ではなく本能によるものなのかもしれないと疑わせる。だから元々短い家路はすぐに終わってしまい、空っぽの頭で格子を開けて我が家の敷地に踏み入るとリョーマは甚だしい虚脱感を覚えた。あとはあの明りが灯る玄関をくぐれば何の患いもない。悲しいことは温もりの中で、全部頭の中の暗闇に放り込んでしまえばいいのだ。早く、そうしないと。
ひどい焦りが湧いた。喘ぐように一歩一歩踏み出すのは不格好だけれど、事は一刻を争う。ずり、ずり、と惨めな音を立ててあと僅かの道のりを縮めていく。それでも、ずり、ずり、ずり、ずり。だんだん滑稽になってくる。一定の間隔で聞こえる擦れる音は水気を含んで汚い。既に全身余すところなく濡れそぼって、ほんの少し顔を上げると曇天の夜空はぼうっと明るかった。意識が空中に浮かぶようで、自分を見下ろすような気持ちになった。それのみっともない格好にとうとう堪えられなくなってリョーマは高らかに笑った。迷いもない嘲笑を繰り返すとさっき国光に冷たく言い放ったときのことまで克明に思い出されてもっとおかしい。何て絶望そのもののような顔を彼はしていたことか。リョーマの身勝手な意向ひとつであんな顔をしてくれる人がよくもいたものだ。笑い倒して真っすぐ上を見つめた姿勢で立ち尽くしたリョーマはゆっくり腕を上げて、両の掌で顔を覆い隠した。くぐもった呼吸をしばらく繰り返し、最後に手と顔の隙間で作った空間の中で深く息を吸い込んだ。
「…馬鹿だね、アンタ。どうしてあたし、なんか。」
バラけた指の間で瞼を押し上げると瞳に雨が降り注いだ。だからだろうか。こんなに泣けるのは。
笑ったのに泣いていた。雨に隠れて見えなかった涙が、熱を取り戻して区別がつくようになる。リョーマには分からなかった。自分を埋め尽くすように方々から与えられる「好き」という気持ちが、言葉が、どうして彼らの中で湧くのか。
どうしてあたしを「好き」なの。あたしの何が「好き」なの。それはどんな「好き」なの。
柔らかくて、甘くて、どこか懐かしいのに突然激しくなって窒息死させるほど獰猛になる。なのに心に響いてこないたくさんの「好き」たちが、愛しくて、報いてあげられなくて、辛い。どんなに頑張ってもリョーマが与えられる気持ちはたったひとつで、それさえもう行き場が決まってしまっている。
無意識に手が伸びた。見えない、ここにはいない人なのに交錯して追い詰めてくる何もかもから逃げたくて指先まできつく張り詰めてとにかく伸ばした。
それなのに、その姿を思い浮かべようとした瞬間、喉を突き上げるように声だけが飛び出した。
「だめ…っ!」
急に引っ込めた手の反動に、リョーマ自身驚いて目を見開いた。二、三歩よろけるとカシャン、と唯一乾いた音がした。リョーマが足元を見下ろすと晒された携帯電話が表面に透明でたくさんの水玉模様を浮かべている最中だった。サブディスプレイはずっと輝いていて、耳をすませば未だに音楽も聞こえる。拾い上げようと屈むと目の前がくらり、としてリョーマは結局ぺたりと水浸しの地面に腰を落とした。濡れきった体だったのでそれ自体はあまり気にならず、ようやく手に取った携帯電話は思い描いていた人の名前を明るく示してくれていた。
ああ、と感嘆した。この電話に出れば声が聞ける。慰めてもらえる。この人から施される「好き」なら何の疑問も躊躇いもない。
目を瞑ってリョーマが喜びにうち震えたとき、不意に耳元で囁かれた。

「ほんとうに?」

はっとして振り返ると真っ暗な前庭が広がるだけで、他には何もない。それなのに、声は聞こえ続ける。四方八方、同じ声なのにいくつものことをリョーマに問いかけてきて、やめて、と叫んで耳を両手で塞いでもまだ聞こえる。

「あんたこそほんとうに好きなの?」

どうして、暗いところからばかり尋ねてくるの!

「どうしてさっきてをのばしきらなかったの?」

知らない知らない知らない!そんなこと俺は知らない!

「どうしてこわいの?」

怖くない怖いわけがない!だってあの人にだけは触れられるんだから!

「どうしてあのひとをもとめるの?」

好きだから!

「好きだから?」

そう!好きだから!

「それってほんとう?」

本当だよ!好きだもん!大好きだもん!嘘じゃない!

「じゃあけがれのない好き?」

けがれって何!どういう意味!

「はじめてのきもち?」

初めてかって!そんなこと!そんなこと知らない!覚えてない!

ふうん、と声が相槌を打った。叫び続け、淀みなく答え倒したリョーマを声は、まるで見分するように眺めているようだ。暗いところから顔を背けて蹲るリョーマには存在しないはずの視線を背中にちくちくと感じていた。そこではとても冷静な誰かがいて、同時に決して目も当てられないような惨劇が繰り広げられているに違いない。
見てはいけない。振り返ってはいけない。それらは前を向いて生きていくために「なかったこと」にしたものたちなのだから。
それでも、それらはあたかも施される優しさのようにずっとリョーマを追いかけ続けてくるのだろう。
偏に、再び出会ってしまったから。
彼の側にいるとどんなに拒んでもあれらが追い付いてくる。いや、リョーマ自身が引っ張り上げてしまう。心と脳髄の奥底に沈みこませた温かくて、悲しくて、痛くて、甘くて、恐ろしい、あの二人だけの記憶を。
けれどまっさらな自分で彼に出会えて、親しくなれた、それの何と甘美な幸せであったことか!
例え二度目の恋であったとしても、初めてのそれであるかのように彼に焦がれて、他愛もないことで傷つき、結局惹かれあった。
そう、請うたのは自分だ。
願わくば、これが初めての恋でありますように、と。
だから一層隠そうとしている。だから、知らない、としらを切るのだ。

「う そ つ き !」

闇の中から張り上げた声がリョーマひとりを糾弾した。ぐるり、と世界が回る。
悶絶するほどの痛みが脳内を掻きまわす。濁流の迸りのように駆け巡るのはあの熱くて冷たい、自分が見ず知らずの男に囚われ、身を穢される悲劇の一部始終。嗚咽も出ないほどの嘔吐感が腹から突き上げて、リョーマは両手で口元をがむしゃらに覆った。大量の涙が前のめって俯いた顔の、その瞳から直接地面に落ちて雨と混ざる。思い出すだけでこの苦しみだ。本当に、いっそ死ねたら良いだろうに、意地汚くも生にしがみつくこととは、そう容易くは止められるものではない。だから助けを求めた。ドロドロに汚れた手を口から離して、喉に詰まったものを咳をして吐きだすと、リョーマは力いっぱい叫んだ。

助けて、助けて、助けて!
母さん!親父!
××ちゃん!

世界は残酷だった。ほんの一瞬繋いでいた手が降り解けただけなのに、あっという間に闇の中に引きずり込まれてこの様だ。あたしは非力で、今なら親父のため息の理由が分かる気がする。あたしはあたし一人救えない。そんなの悔しくて、絶対認めたくないけれど、今だけはまぎれもない現実だ。
それとも未完成なんだろうか。この体は、心は、だからこんなにちっぽけで、弱い。
ああ、なら帰りたい。完璧なものに、戻りたい。あの人のもとへ。

なのに伸ばした手はどうしてこんなに、汚いの。


――――――
なんかホラーチック…。



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