37.Boy, you are always killing me so awfully.


閉じかけの校門をくぐっても振り返る暇さえなく、引っ張られる袖の行き先を弦一郎は追いかけていた。海端に立地する学校だからすぐに潮風だけが緩く吹き付ける海岸通りに出る。等間隔で並ぶ街灯が作る光の輪をいくつも通り抜け、その度と言っていいほど幾度も、幸村、と自分を誘う彼女の名前を呼んだ。長い長い海岸通りと幸村の根気が勝負しているようなものだった。結果、先に折れたのは彼女の方で、ついに観念したのか減速し始めた幸村は最後に荒い息を一気に吐いて立ち止まった。弦一郎も多少息は上がったが、全国クラスの運動部に所属している身には何でもないと言える。それは幸村も同じことのはずだが、しかし彼女は病み上がりだからか、と理由をつけてその息が整うまで弦一郎はじっと待った。その間周囲は静かであった。すぐ脇にある手すりの向こうは一帯海で、足元から黒ずむ海面が波の満ち引きする音とそれがコンクリートにぶつかる強弱のリズムを不規則に繰り返し立てる。横目を遠くにこらせば沖の方では大きな船がいくつか行き交い、客船か、光の群れを乗せた塊がうす鈍くどこかへ向かっていた。別の方角ではギラリと濃いオレンジの光が煌めき、夕陽が最後の輝きを燃やしたところであった。そして満足そうなため息が前方から聞こえて弦一郎はやっとまどろみのような世界からしゃんと立った少女の背中に視線を戻した。
「あー、おかしい。」
「お前のせいだぞ。」
恨めしく呟いてやれば幸村から、ふ、と噴き出すような笑い声がひとつ漏れた。そのまま肩をしばらくの間震わせて、それが収まるとそうっと首だけ傾けて弦一郎を振り返った彼女は悪戯っぽい目をキラキラ瞬かせて尋ねた。
「怒った?」
「少し、な。」
「なら呆れてるんだね。」
「分かっているなら聞くな。」
腕を組んだ弦一郎は盛大に息を吐いて言い返した。案の定、幸村はその後もまたくすくす笑い続け、何がそんなにおかしいのか知れないが、軽やかな笑顔だからどうにも憎めない。あまりの掴めなさに、どうせ女のことは分からないから諦めようと思って目を瞑ると、急に弦一郎の頭の中にさっきの通話が蘇った。
そう言えばあのとき、自分はどう会話を打ち切ったのだったろうか。今一つはっきり思い出せない。ということは相当雑な対応をしてしまったのか。ひょっとしてリョーマは怒っていないだろうか。けれど彼女も決して弦一郎の予測が及ぶ存在ではないから、気にしていないかもしれない。
さまざまに想像してみたものの、どの道憶測だ。確固たる根拠がない以上考えるだけ無駄で、しかし悩みだすと気になって仕方ない弦一郎はひどい皺を眉間に寄せて呟いた。
「…分からん。」
つい声に出して言ってしまうと、まだ笑いの名残を持ちながら幸村が、どうしたの、と言って近寄ってきた。それで自分の呟きに気がついた弦一郎は、瞬間はぐらかそうかとも思った。が、その必要もないではないかとすぐさま思い直し、せっかくだから軽い相談のつもりで話し始めた。
「女がよく分からん、というだけのことなのだが。」
「え、それって私のこと?」
だったらひどいなあ、と茶化すように非難する幸村が白い頬を膨らます。その様に思わず肩を竦めて苦笑し、弦一郎は誤解を解きにかかる。
「たわけ。確かにお前のこともよく分からんが、俺の言っているのはあいつのことだ。」
「え………ああ、『リョーマ』?」
一時瞠目したが何でもないように幸村が彼女の名前を答えた。声色も態度も特に変わったところはなく、何とはなしにほっとして弦一郎は頷く。
「ああ。今日は多少粗雑にあしらってしまったからな。…女はそういうとき怒るか?」
さすがに我慢が出来なかった。ほんの少しだけ、目いっぱい白けた目を幸村は弦一郎にくれてやり、それに彼が気付かないうちに目を閉じた。どうして恋敵との恋愛相談に乗ってやらなければならないのか、甚だ腹立たしい。しかしそうは言っても目の前の男は色恋沙汰に関しては独活の大木に過ぎなくて、そのくせ変に細かいところは気にする性質をしている。放っておいても絡み倒されるに決まっているので仕方なく幸村はいやいや口を開いた。
「さあ…私は『リョーマ』じゃないから。気になるならもう一回電話すればいいじゃない。」
言ってしまうと、ふと目前が静かになった。どうしたのだろう、と幸村が目を開けばまさに鱗が落ちたばかりのようにかっ開いた両目を瞬かせる彼がいた。それから、なるほどそうか、などと呟いて鞄を探り始めた。呆然と幸村が一連の動作を見ていると、とうとう弦一郎は本当に電話をかけ始めたのでつい舌を打った。
「この…ばかっ…。」
勿論、彼には聞こえない程度の暴言だった。それからツイとそらして睨んだ先は暗く、そして薄く曇りだした空と海の境目で、気を紛らわすために、嫌な天気だな、などと幸村は思ってこの後の天候を憂いでみた。一方の弦一郎は根気強くひたすらコール音に耳を澄ませていた。

ぱたり、ぱたり、と頬に二、三粒の雨滴が降り落ちた。つ、と顔の孤に沿って垂れていくそれがくすぐったくて、身じろいだリョーマは苦しい息を必死に吐き出した。そして振り絞るような声で、部長、と彼を呼んだ。
「ねえ…雨だよ、部長。…もう放してよ。」
極めて冷静に聞こえる声に、我ながらよく振る舞ったとリョーマは心の中で自賛した。きっと今国光に必要なのは頭を冷やすことで、普段の怜悧な彼に戻れば全ては事なきを得ると確信していた。こんなのは一時の気の迷いに違いない。リョーマが知っている国光はもっと理詰めで感情論を吐かない男だ。そのせいで腹を立てたこともあったが、今はそういう彼を何より信じたい。いつもの「手塚部長」に戻ってほしい。
むしろそれは急務と言ってよかった。何故ならば、もしもこのままでいるなら、彼はまるで知らない男になってしまう。そういう妙に信頼のおける確信がリョーマにはあって、しかしそんなのはきっと怖くて悲しいことだ。
果たして、その声は決して国光に届いていない訳ではなかった。今、国光の中にはじっとしていると冷めてくる、情熱に欠けるつまらない自分がいる一方で、それで良いのだ、と諌める客観的な自分もいた。やがて後者が正しいと思われ始め、国光の腕が緩む。そう、あくまで国光はリョーマを見守る立場だ。それは彼の秘められた、野性的な性質が忘れさせていたことだった。分を弁えなければ、と自分に言い聞かせてやっと決心がつきかけたとき、とめどなく降り始めた雨で制服のシャツが背中にぴたりと張り付いた。そこをどういう訳か、ちょうどリョーマの小さな指が這ったのだ。
あと一声、放して、と言えば間違いなく彼はリョーマを解放していたはずだった。けれど数瞬遅かった。無反応な国光に痺れを切らしたリョーマが伸ばした手はさまよって彼の背の中ほどに行きつき、指先で触れたところはひどく湿っていて、直接彼の背に触れたのかと錯覚したほどだった。
リョーマがそう思うか否かの瞬間、彼女は再びきつく抱きしめられてしまった。当然というか、声などは出せなくなってしまう。きつく締め付けられる体が悲鳴を上げるけれど、声を出すだけの息を取り込むことすら出来ない強さだった。痛みも相まって、つい背に回した手がぎゅっと張り付いたシャツを握ると、勘違いと期待をせめぎ合わせているのだろう国光の、あまりに珍しい我が牙を剥いた。
あっという間に今度は体を引きはがされ、急に空気の中に放り出されたリョーマは揺さぶられた視界に何が起こったのか分からずにいた。ただはっきりその目に物の形を捉えられたときには国光の顔が驚くほど近くに迫っていて、噛みつこうとせんばかりに開けた彼の口元からリョーマの唇に温い息が、かかった。
「あ、あ、やっ…!」
反射的にリョーマは激しく相手を突き飛ばした。掴まれていた肩は解け、リョーマが勢いでよたよたと後ろ向きに宛てもなく退き続けると、思ったより早く固いものにドン、とぶつかった。一瞬目をくれてやてば、それは境内をぐるりと囲む白壁だった。急に息がせり上がって過呼吸に近くなる。ひどく喉が痛くなるほど荒い息遣いを繰り返して、リョーマは一層激しくなった雨でびちゃびちゃと弾ける暗い地面を見つめていた。次第に男の体である程度守られていた彼女の体もずぶ濡れていき、張り付くTシャツが気持ち悪かった。さらに不快なのはバチャ、バチャと品なくこちらへ向かってくる足音で、ぞっとして無表情にギロリと睨みあげれば渇きと焦がれと残忍さがない交ぜになった感情で苦悶を浮かべる少年がそこにいた。
容赦なく降りかかった手が咄嗟に払えず、肩を掴まれてリョーマは焦った。さっきと同じように近づいてくる顔は必死に背けて拒んだが、今度は逃れようにも背中の壁が文字通り障りになっている。押しのけようともするが、彼の胸や肩に手を押しつけたところでただ宛がっているのと大差はない。ぎゅう、と音を立てて徐々にリョーマとの僅かな距離も無くそうとする国光をリョーマは力いっぱい、部長、と呼びつけた。
ところがそれと同時に彼に向けて晒していた首筋にべたり、と湿った体温と硬質な痛みが突き刺さった。ひっ、とリョーマが息を呑む。手の力が抜けた。それを良いことに、とうとう再度リョーマに張り付いた国光が雨でしとどに濡れたリョーマの肌を啜った。驚愕と恐怖でほとんど息もせず、リョーマは体に襲った異様な感覚をただ、知っている、と思った。細い指先が脇腹に触れ、かすかに肉刺の出来た手のひらがそこを摩る。すぐにその指先が鉤状になって張り付くTシャツを引っかけると、そこから中へ侵入した手がリョーマのろっ骨をなぞって這い上がってくる。大概は雨で濡れた温い感触で、時折ちくりと痛んではその手が中途半端な温度であることに嫌悪感が募った。
せめてこの手が熱ければいいのに。そんなことをうすぼんやり思った。

身勝手にされるのは嫌だ。濡れるのも、痛いのも大嫌いだ。そして汚れるのが、一番嫌いだ。


――――――
荒ぶる手塚パート2


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