36.Everybody holds 'whys' inside.


チャリン、チャリンと軽い金属のぶつかる高い音が静かな部室によく響く。ドアのところで中を覗き込むようにして立っている幸村が綺麗な指先でちょいとそれを摘まんで揺すっているのが何を意味するのか分からず、弦一郎は携帯をしまいながらじっと彼女を見つめていた。その内、彼の勘の悪さに呆れ返った幸村が眉尻を下げてくすりと笑った。
「早くしないと閉めちゃうよ。」
西日ももう薄い。彼女の手の中にあるのはこの部屋の使い古された銀色の鍵で、室内には弦一郎がひとり居るっきりである。はっとして乱暴に立ち上がると椅子がガタンと悲鳴を上げた。
「やめんか!」
「あはは、真田慌てすぎ。」
屈託なく面白がっている様子の幸村にばつが悪そうに顔をしかめてから、弦一郎は大人しくラケットバッグを取り上げた。それから道を譲ってくれる幸村に従って外に出ると間もなくカシャン、と音を立てて今日の役目を終えた部室が閉じられた。長い夏の夕暮れもまた終わりかけていた。確かに幸村の言った通り、思っていたより長居をしてしまっていたようだ。
「お前こそ遅かったな。」
鍵を返却しに校舎へ向かう幸村に続きながら弦一郎は尋ねた。先を行く幸村が揺れるように振り向く。柔らかい動作は男所帯の部活に慣れている目には新鮮だ。だからか、訳もなく一瞬どきりとして口元を引き絞った。そういう僅かな表情の変化を読み取ったのか、幸村は最初こそきょとんとしていたが、一度にっこりとして甘い顔をすると弦一郎を振り返ったまま後ろ向きに歩いた。
「うん。でも理由は秘密。」
至極嬉しそうに幸村が答える。
「何だそれは。」
苦笑して弦一郎が一応問い返した。幸村はときどき弦一郎にはよく分からないことを言う。それも常なので知れたことと思って流した。職員室の裏手に回り込むと勝手口が見える。ここから入って鍵を返すのが一番早い。
「知りたい?」
ドアの直前まで来るとさすがに前を向いた幸村がめげずに聞き返した。
「いや。」
素気無く否定してやれば戸に手をかけたところの幸村が、多少ムッとして肩越しに顔だけ弦一郎へ向けた。
「真田のいじわる。」
つまんないの、とツンと鼻をそらして彼女は一旦職員室の中に消えた。かすかにほっとして、弦一郎は部活でほとほと疲れ切った体を校舎の壁にぐったりと預けた。帽子を脱ぎ、空いている片手で適当に髪を掻き散らす。近頃、幸村と話すのに何故だか緊張するときがあって、不思議で馬鹿馬鹿しかった。何を緊張する必要があるのか皆目見当もつかない。しかし緊張すると言っても微々たるもので、大概は気にならない。リョーマと比べると幸村と話すのはこんなにも容易いものか、と思って弦一郎は苦笑した。それもそのはずだ。幸村なら自分の言葉がどう受け取られてどのように帰ってくるかくらい、凡そ検討がつく。さすがに小学校時代から知り合いであるから、いわゆる気心が知れている間柄なのだ。
その点で行くとリョーマとだって本当は子どもの頃からお互い知っているのだから、幸村以上に親しみやすさも相互の理解も深くて然るべきなのだが、今しがた、ふと比べてみたところこれが案外そうでもない。
手に持っていた黒い帽子を被り直して、弦一郎は瞳をやや険しく細めた。本当に、今自分が何とはなしに思ったことは、全くもってその通りである。どうして、昔を思い出した今も幸村よりリョーマに懐かしさや気の置けなさを感じられないのだろう。
もっと正確に言うならば、親しみや慈しむ気持ちはそうでもない。やはり幸村とリョーマとでは弦一郎の中で明確な存在の違いがある。幸村だって大切だ。テニスという共通のやりがいを通して培った友情は相当厚いものに相違いなく、けれど幸村の場合はそこで関係の深さが止まる。あくまで弦一郎にとって彼女は友達だ。
一方のリョーマは最初から友達などにはなりえなかった。少々無理強いではあったが、彼女のことは頭から女として見ていたし、実際今はそのように意識している。だから幸村に対する友達への思いより、どうしたって重く、大事な気持ちがリョーマに対してはあって、だからその点ではリョーマの方が、言い方に語弊があるかもしれないが、優っていると言える。
しかしながらそれだけ自分が大切にしていて、一番近くにいてほしいリョーマなのに、弦一郎は何故だか決定的な理解を彼女に対して抱けずにいる。リョーマのことが分からない。そう感じるときが幾度もあった。だから悩んだり、時にはぶつかり合ってお互い傷つけあった。人と付き合うことなど往々にしてそんなものだとは思うが、それにしたっておかしいのは、思い出した子どもの頃はこうではなかったということだ。あの頃は今から見ると不思議なほどリョーマのことを自分は理解していたように弦一郎は思う。あのときは本当にどちらもただの子どもで、違いも分け隔てもなく、一対一の人間同士で向かい合っていた。今はと言うと、お互いを想うだけならあの頃とは比べもにならないほどはっきりとふたりはそれぞれ相手を求めているだろう。ところがあと一歩とも言わない距離なのに、姿も正体も分からない障壁をそこに感じてしまう。それはうすぼんやりとした感覚で、壁があると気がついたのもついさっきのことだが、不気味なほど弦一郎にはそれが何であるかが見抜けない。本質が分からない、というのはめったにない経験で、だんだんと心がざわつき始めた。動揺している。まるでその壁は絶対に触れてはいけないものであるかのようだ。一体、これは何だというのだろうか。
パン!と目の前で弾ける音がした。思わずカッと目をむくと、目前にじっと弦一郎の顔を覗き上げる幸村の顔と、破裂して無残な格好になった紙袋が掲げられていた。
「……何をする。」
「だって反応ゼロだったから。らしくないよ、ぼーっとして。」
事もなげに言って紙袋をくしゃくしゃと丸める幸村の心臓の強さにいっそ度肝を抜かれる。昔から変なところで据わった性格の持ち主だとは思っていたが、殊、その被害にあった今は余計にそう思う。いっそ尊敬してしまうような、思い切り呆れ返るような微妙な気分に襲われたが、無理に咳払いをして弦一郎はとりあえず謝罪した。
「すまない。少し考え事をしていた。」
「へえ。」
実に興味のなさそうな返事だ。見れば幸村は足元のプランターに植えられた花にすっかり気を取られている。わざわざ謝ったことが馬鹿らしくなって弦一郎は額に手をやろうとした。
「誰だ!今変な音を立てたのは!」
突然教師の怒声が空気をびりびり揺らした。厳めしい声だからうるさ方の先生に違いない。ぎょっとして弦一郎が振り返りかけると、ぐん、と腕の裾を引っ張られた。
「ゆき…!」
「早く!逃げるよ!」
緊迫した声と嬉しそうな笑顔がひどくミスマッチだ。暗くなってきた校舎の裏で駆けだす寸前、弦一郎が見た幸村の様子はそんなふうであった。

程よいテンションで張られたガットでボールを跳ねさせて遊ぶ。明りを灯した寺の境内にあるコートにあちこち向いた複雑な影が出来て、ほんの少しだけ舞台に立った役者にでもなったような気がした。
おそらく込み入った話になるだろうから、家人を避けてリョーマは国光を鐘楼脇のコートへ誘った。初めてそこを訪れた彼は、見た目こそ落ち着いていたが、瞳は物珍しそうに辺りをを見渡していた。そんな国光の姿がむしろリョーマは珍しくて、ボールで遊びながら盗み見ては小さく笑った。
「アンタってさ、ちょっと似てるね。」
声をかけられてはっと反対側のコートを見返すと、変わらずテン、テン、と軽い音を立たせながらラケットでボールを打ち上げ続けるリョーマが立っていた。幾重もの光に照らされて、わずかな陰に浮かび上がった体がやはり細い。訳もなくそれだけで胸が早鐘を打った。このまま黙って彼女を見つめ続けられたらどれほどいいだろう。それでも返事をしない訳にはいかない。仕方なく惜しみながら問いかけた。
「誰にだ。」
「弦一郎さん。あ、真田さん。」
名の方では分からないのではないかと気遣って言いなおしたのだろうが、余計なお世話である。いつの間に名前で呼び合うようになったのだか、ただの聞えよがしだ。
「どこがだ。」
苛立ちが隠しきれないまま言い返すと、ボールを弾くのをやめたリョーマがややあってくすくす笑った。
「あの人もそう言いそう。」
やめてくれ、と叫びたい。たまらなくなって、けれど感情をさらけ出すのは躊躇われたのでぶっきらぼうにボールを寄越してくれ、と国光は吐き捨てた。少しだけ不思議そうに首を傾げたリョーマが素直に、じゃあ送ります、と言って軽くラケットを振った。綺麗な孤を描いて黄色いボールは一度バウンドして国光のラケットにたどり着いた。すぐさまアンダーサーブで緩く打ってやると、条件反射でリョーマが打ち返してくる。本当に、ただのお遊戯のようなラリーが始まった。国光が打てばリョーマが打つ。国光が返せばリョーマも返す。それだけの繰り返しは二人にとって呼吸と同じくらい簡単で、けれどこれが現実では途端に一番難しいことになる。
「俺に怒った訳は話さないのか。」
少し強く打ち返しながらそう尋ねた。
「ああ、いや、なんていうか、タイミングが悪かっただけッスよ。」
はぐらかされた。それでもボールはきちんと国光のもとに帰ってきて、正しく行き交う。そのくせ今、またひとつ途切れたのが分かって無性に悲しくなった。
「質問を変えよう。何故怒っていた。」
めげずに尚のこと掘り下げて聞き返せば、一瞬リョーマの動きが止まった。そこから焦って打ち返した球が高く上がって思わぬロブになる。降ってくるそれを国光が待ち構えていると、ふと沈んだ面持ちになったリョーマがじっとり国光を見つめた。
「部長。」
「何だ。」
もうすぐボールが打てる範囲に来る。
「俺のこと好きですか。」
目を見開いたときには足元でトン、とボールが着地したことを告げた。開ききった瞳をゆっくり下ろすと、ラケットを下げてしまったリョーマがまっすぐ自分を見ていた。そんなことをされて、不慣れなのに顔が赤くなるのを国光は抑えられなかった。リョーマの顔はふざけたところが一切なく、ただ真摯に国光の答えを待っているのが分かる。だから口から心臓でも飛び出そうなほど緊張しているのを国光は無理に堪えた。ぎゅうっとグリップを握りしめて羞恥を分散させる。微風が吹いてリョーマの髪が少しだけ揺れた。いつかそれに触れてみたいと思う。
「ああ。好きだ。」
「俺のこと大事ですか。」
「ああ。」
次の質問にはすぐ返事をしてやると、ほんのり照れくさそうにリョーマが目を伏せた。ネットが邪魔だ。これさえなければ今すぐに駆け寄っているかもしれない。
「…ああ、もう。」
くしゃりと前髪を掴んでリョーマは不意に表情を曇らせる。その前に一瞬国光を眩そうに見つめた瞳に吸い寄せられて、あわてて回り込んだ彼はリョーマの側まで来ると、まっすぐ小さな肩幅を見下ろした。
「…分かってる。だからアンタも電話、くれたんだし、分かってるよ。分かってる。けど、ほんと、イヤになる。」
またわがままになってる。
言って濡れた瞳で見上げた空は、気がつかないうちに曇っていた。けれどわずかに切れ間があって、リョーマはそこへ焦点を置いてじっと睨み続けた。意味もなく、しかしそうでもしていないと国光の目の前であっても泣いてしまいそうだった。
本当に、頭では分かっている。彼が自分を大切に思っていることも、だから心配してくれたのも、あそこに「彼女」がいたのはきっと偶然で、忙しい彼が自分にばかり構っていられないことも、そしてあれが何の他意もない対応だったろうことも、全部全部分かっていた。だからこそ湧きあがる無差別な独占欲に気が狂いそうだった。
「ヤダ、もう、分かってんのに、でも、でも俺だけがいいの。側にいるのも心配してもらえるのも、何もかも俺だけならいいって、思っちゃうんだ。最低、すっごいわがまま。こんなの馬鹿じゃん。」
震えながら、それでも上を向いて、辛いのに、負けじと背筋を伸ばす姿に国光は居たたまれなくなった。誰でもいいから泣いて縋ればいいのに、と思っても、結局差し出したい手は伸び切らず、歯がゆかい。曇った夜空に恨み事を吐いて、涙を我慢する彼女が本当に必要としている人が痛いほど分かっていて、悔しくて悔しくてならない。
こんなにこの子を悲しませて、苦しませているのに、何故だ。
「どうしてあいつなんだ…。」
「…なに。」
涙の膜で潤んでいるくせに、横目でそう聞かれて国光はぐっと肩をいからせてリョーマにひとつ歩み寄った。
「どうしてお前は苦しい方を選ぶ。そんなのは、俺にはおかしいように思えて仕方ない。」
リョーマは黙って国光を見つめている。ほとんど動いていないのにも関らず、国光の息は荒くなった。それでも本当に苦しいのはリョーマの方で、けれど今の自分の気持ちに歯止めが効かない。全て吐露するしかないのだ、と国光は悟ってしまった。
「俺ならお前の側にいられるのに、どうしてだ。どうしてあいつなんだ。おかしいとは思わないのか。越前、お前のその気持ちはただの強迫観念にすぎないんだぞ。」
「…何言ってんの、部長。」
ひとつ不可解なことを言われてさすがに興味の移ったリョーマが国光に向き直った。細めた視界でも十分収まるリョーマの体はどうしても細い。反面端々に少女らしい柔らかさが窺えて内側の獰猛さが堪え切れなくなってくる。自然に手のひらからラケットが滑り落ちた。乾いた音を立てて地面に倒れ伏したそれを、目で追ったリョーマが落ちたことをわざわざ伝えてくれた。だがそんなことすら今は煩わしい。それどころか、まるでそれが無いとリョーマに見てももらえないかのように思われて、自分はその程度の存在なのかと失望した。
「俺は、真田に勝ったんだぞ。越前。」
妙に低く、据わった声で言い聞かせられた。リョーマがそっと見上げた彼は切なくて、ひどく切羽詰まった顔をしていた。そして僅かずつではあっても確実にリョーマへにじり寄ってくる。不安が募ってリョーマは薄手のTシャツを着たきりの体の胴をぎゅっと抱え込んでみた。次の瞬間強い手が肩を掴んだ。
「ぶ、ちょう…。」
役職名で彼を呼ぶのは礼儀に適うからだけではない。それは自分と、そして他でもない彼自身に言い含めたいからだ。手塚国光は青学テニス部の部長で、自分はただの後輩で、それ以外の何でもないのだ、と彼を縛りつけて自分の身の安全を図っていた。
「や、だ。嫌だ、部長…!」
「越前、お前は…。」
忍び寄って背に回る手はもちろん拒んだ。それでも諦めることなくリョーマの体を抱き包んでしまおうとする腕は絶えず、ほんの僅かな隙にぐっと国光の体は迫ってひたりとリョーマの胸にくっついた。そのまま背がしなるほど抱きすくめられてリョーマは呼吸もままならなくなる。
それなのに、望んで望んで、ずっと触れたくて仕方なかったものを懐中に収めた歓喜で、国光はリョーマの苦しさに目を瞑ってしまった。
「お前は、俺のもの、だろう。」
ざっと青ざめたリョーマは、国光への抵抗が無意味なのを悟って押し黙った。そして抱きしめられて初めて思い知ったのは、国光と彼とではひどく体つきが違うこと、そしてこの胸の中でリョーマが安らぎを得ることは決してないのだろうということだった。


――――――
先生ぇー、神の子が皇帝といちゃついてまーす。



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