35.Keep your mouse closed so tightly as not to say what he's lilely to.


ただいま、といつになく元気のない声が聞こえて、南次郎は縁側でくつろいでいた身を起こした。空は青い色を失ってたなびく雲は赤く染まっている。夕方だ。やれやれと言って立ち上がり作務衣の隙間から胸を掻く。そしてそのままあくび交じりに玄関へ迎え出てやると、脱いだばかりの大事なテニスシューズを揃えもせずにとぼとぼバッグを引きずり歩く娘の姿があった。
「どーしたー、リョーマー。」
からかいのつもりで語尾を延ばしてやる。いつもならムッと生気を取り返した目に睨まれるところだが、今日のリョーマはかけられた声に反応して立ち止まりはしたものの一向に顔を上げる気配すらない。当てが外れて南次郎が彼女の様子を窺おうと近づくと、それを拒むような深いため息が聞こえた。
「…別に…。」
井戸の底に物を落としたときのように暗く、静かな返事だった。余計怪訝な顔になった南次郎はそうっと首を突き出すと、なるべくリョーマの量りきれない気持ちを刺激しないよう小声で尋ねた。
「…ほんとにどうした、お前…。」
「…………。」
リョーマはやっと目だけ父親にくれてやった。南次郎はまだかすかにいつものおどけた雰囲気を残しているが、一応自分の心配をしているらしく、戸惑った表情をしていた。そんな男親をじっと見つめたあと、リョーマは不意に疲れたままではあるが冷静な声でこう問い返した。
「…あのさ、オヤジ。性格怖そうだけど女優みたいにキレイでスタイルもいい女の人とチビでガキでわがままで男勝りな女とだったら、どっち取る。」
「はあ?」
「どっち。」
「…そりゃオメ、女優みたいにキレイでスタイルもいいねーちゃんに決まってんだろ。」
娘の質問の意図をよく分からないままで南次郎は素直にそう答えた。するとただでさえ伏し目がちであったリョーマの目つきが余計ひどくなり、もっと重苦しい雰囲気になってしまう。やっぱそうだよね、などと呟きながら乾いた笑いをリョーマがこぼした。完全に腐りきったその様子にぎょっとして逃げ腰になった南次郎であったが、リョーマはそれ以上彼に干渉することなく再びバッグを引きずると、やたらにのろのろと自室へ引っ込んでしまった。
玄関ではそんなリョーマの一挙手一投足を目で追っていた南次郎がそっとリョーマの消えた階段の先を見上げる。その内さっきの例えに出てきた後者の女はあからさまにリョーマ自身のことではあるまいか、と薄々気付いた。いつもならそんなことはおかしくてたまらないとでも思うところだ。しかし今日に限ってはリョーマの深刻さ具合のおかげでとんでもないヘマをやらかしたような気分に彼は陥った。具体的に何をどう間違えたかは分からないが、とにかくリョーマが乙女の悩みに直面したことだけは分かる。がりがりと頭を掻いたが、南次郎は首をひとつ傾げると階段に背を向けた。残念ながらこれ以上首を突っ込んでもしてやれることはないだろう。それどころか下手なことをしたらどんな目にあうか分からない。
「倫子のやつ、早く帰ってこいっつーの…。」
男親の憂き目をしみじみ感じながらそう呟いて、南次郎は元の縁側へとすごすご退散した。

手を放すとぼすん、と音を立ててバッグが床に倒れた。大事なラケットが入っているが、この沈んだ気持ちの前では犠牲になっていただくより他ない。リョーマの頭の中はぐるぐると渦を巻いていた。その渦中には同じ少女の美しさと冷たさがひしめいていて、時折彼女と弦一郎が並んで立っていたさまを思い出すと全身がびくつくほどの衝動に駆られた。肩に力がこもって腕が震える。重い足取りのままで一歩一歩ベッドに近づくと、健やかに眠っている愛猫のカルピンにがいた。けれどもそれにも構わずリョーマはくしゃくしゃの布団へダイブした。スプリングが乱暴に揺れ、仰天したカルピンがベッドから飛び降りる。ふわりとした毛が指先を掠ってリョーマはまっすぐ布団に埋めていた顔を少しだけそらして目前の布のうねりを見つめた。体は鉛のようで、もうそれ以上動かす気には微塵もならない。もしも心が穏やかならばこのまま眠ってしまえるだろうが、それは到底叶わぬことだとリョーマにははっきり分かっていた。あのとき見つめられた感覚がまだ消えないのだ。
ああいうのを蛇に睨まれた蛙、というのだろうか。取って食われてしまうような恐怖を感じたのだから、おそらくそう表すのが正しいはずだ。
ところがあの少女にかかったら自分の存在さえ消されて、無かったことにされてしまう。そんな気がしたせいでどうにもこの表現では物足りないように思われてしまう。だがこの際恐怖の名称など何だっていい。問題はそれだけの敵意を向けるならそれ相応の理由があるはずだということで、すると会ったこともない幸村とリョーマの接点などたったひとつしか思いつかないのだ。
ぎゅっとシーツを握って震えを堪えようとした。自分の好きな人が他の人からも好かれているなどという状況をリョーマは今まで一度だって考えてもみなかった。そしてそのことであれほど鬼気迫る感情をぶつけられ、小さな心はぐしゃぐしゃに潰されてしまいそうだった。怖い、と呟いてまた布団に顔を埋める。
何故なら男の気迫は闘志と勢いだけだから受け流すこともできるけれど、女の恨みはまとわりついて逃れることも許されないからだ。しばらくは息をひそめて不安から身を守ろうとしたが、すぐに苦しくなった。仕方なく顔を上げると部屋の中は薄暗い。もうすぐ夜になる。たとえ明日になっても忘れられそうにないこの感覚をどうしたらいいのか途方に暮れて、リョーマは自分で自分を抱きしめた。小さくなって、このまま夢も見ないほど深く、無理やり眠ってしまいたい。それでもあの恐怖を蘇りそうな予感が背筋を這い上がって、対処の術は完全に断たれていた。もうヤダ、と泣きごとをもらすと、傍らで電話が鳴った。

留守番電話につながる寸前、ようやく応えがあった。弦一郎の開口一番は、大丈夫か、という相手の安否を気遣うもので、それは今日見かけたリョーマが客席で突然蹲ったのを心配して電話したからである。だから別段その言葉が出るのに不思議はない。しかしながら、彼は今本気で電話口のリョーマの様子をいぶかしんでいた。彼女の一声はそれほど暗く、重く、よほどの重症だったのかと余計心配になる。けれどもリョーマははっきり、大丈夫、と答えた。相変わらず声の調子は重いが、気遣って嘘をつきあうような間柄ではないから返答は真実のはずだ。そこまで至ってようやく弦一郎はひとまず納得し、体調のせいではないことにほっと息をついた。
『ならいいが…何だ、随分と元気がないな。』
未だにベッドで寝転がったままその一言を聞いたリョーマは目を見開き、ここにはいない彼をキッと睨んだ。これほどリョーマが怯えて落ち込んでいるのに、どうしてこの男はこんなに呑気に構えていられるのか。信じられない。自分の真横にいた女の殺気ぐらい気付いたらいいだろうに、全く肝心なところで彼は鈍感だ。そこで文句でも吠えてやろうかと口を開いてみたが、考えてみれば知らぬが仏、安穏としている彼を戸惑わせるのも理不尽かもしれない。弦一郎の声を聞いたせいで安堵し始めていたリョーマの頭はようやくまともに回り始めていた。
確かに、目下リョーマを悩ませるいざこざに彼は深く関っているが、実際その問題に立ち向かわなければならないのは彼ではない。縋るのは卑怯な気がした。
それはリョーマがここしばらくずっと快活な少年たちと行動を共にしていたせいだろうか。あるいはもともとの気性なのかもしれないが、どの道どうせなら正々堂々勝ちたいものだ。最後に勝利を得るならふたり一緒がいい。ぼうっとそんな瞬間を妄想して耽っていると、耳元の彼がまた心配しているような言葉をかけてきたので、ふう、と息をつくとリョーマは幾分明るい調子の声で答えた。
「…何でもない。ていうかアンタ案外心配性だね。何、わざわざそんなことで電話してきたの。」
『な……や、やかましい!』
心配性、などとからかいのつもりで言ってやったせいで、思い通り恥ずかしがったのか弦一郎ががなりだした。そこでくすりとリョーマが笑ってやれば焦ったような唸りが聞こえてもっとおかしくなった。変なところでかわいいものだ。微笑ましくてしばらく、くすくす言い続けてやるとすっかり彼は黙り込んでしまったが、そんなことが幸せで、リョーマは安心しきって目を閉じた。
『真田、まだ残ってたの。』
が、すぐにそれは開く羽目になった。ああ、と少し遠ざかった声で弦一郎が応えている。電話の向こうに誰かいるのだ。知らない声だけれど明らかに男のものではなく、リョーマの体は一気にがちがちに固まって息が詰まった。そんな状態で懸命に呼吸をしていると、不意に呑気な声がこともなげに言い放った。
『すまん、要件は他にないから切らせてもらうぞ。』
「え、あ、ちょっと…!」
プツン、と断線した音は無情だった。どこにも繋がっていないことを教えるツー、ツーという信号音をしばらくの間聞き続け、次にリョーマは体中の皮膚を伝ってくるような熱のほとばしりにカッとなって歯を食いしばった。最悪だ。何て無神経なことをするのだろうか、あの男は。涙まで出そうになってそれを防ぐために無駄な力を全部左手に込める。用済みになった携帯電話がそこにあって、それを持ったままリョーマは大きく腕を振りかぶった。
ところがもう一度電話は鳴った。

国光は面喰って立ち尽くしていた。一応相手方を確認しようとリョーマの名前を呼ぼうとしたのだけれど、その寸前、全然違う人間の名で呼びかけられたのだ。その上、その声の焦りようと苛立ちようと言ったら形容しがたいほどのものであった。つい口を利くのも忘れてしまいかけた。それからだんだんと正気が戻り、国光は咳払いをしてから、手塚だが、と名乗った。
『ぶちょ…う?』
間抜けな声が、その単語の意味も理解しないで反射的に言う。数秒すると、ああ、とあからさまに落胆した声に変わったのだが、とにかく自分が何者であるか認識してもらえたので国光は深く追究しなかった。たとえそうしたところで、馬鹿を見るのは火を見るより明らかだ。思わずため息がもれた。
『…なんか用ッスか。』
不躾な物言いは慣れているが、今日は殊更機嫌の悪そうな声色だ。呆れ返って注意する気にもならないが、頭を振ってから国光は最早杞憂に思えてきた理由を答えた。
「今日お前の様子がおかしかったから、心配してかけたまでだ。」
返答は沈黙。うんともすんともリョーマは言わず、あまりに静かなのでいっそ不気味だ。国光がそんな風に思っていると、唐突に、また苛立ったような声がわめき始めた。
『何それ!やめてよ、そういうの鬱陶しいんだけど!』
これにはさすがにムッときた。顔をしかめて国光は毅然とした声を上げる。
「呆れられても怒鳴られる謂われはないな。どうした、何を怒っているんだ。」
強い気持ちで尋ねたからか、う、というリョーマの唸りが聞こえた。それからは再びしばらくの沈黙が居座り、国光は根気強く返事を待った。やがて微かなため息とともに、謝罪の言葉が届いた。
『…すいません。部長は悪くないッス。』
「…真田と何かあったのか。」
つい、聞いてしまった。しまった、と思っても後の祭りで、案の定リョーマが強く息を呑む音がした。間違いなく驚いている。
『どうして、分かったの…。』
随分とかかっておずおずとリョーマが尋ねてきた。か細くて頼りない声が急速に国光の胸を締め付けてきて、間接的に話すのが煩わしくなる。
「…今、時間はあるか。」
「え?それ、は、ある、けど…。」
脈絡のない言葉にきょとんとして戸惑ったリョーマが、それでも何とか答えた。
「ならちょうどいい。ちょっと出てきてくれ。」
国光はそう言って顔を上げた。藍色の空に浮かぶ家のシルエットにひとつ明りが灯るのを見つけた。その光の中で窓が開く。乗り出した小さな体躯が愛らしい。
『何で居るんスか…。』
少し引いたような声が、越前家の前で堂々と立っている国光への感想をもらした。


――――――
若干倦怠期(?)の真田とリョーマと間男手塚。


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