34.This feeling has not puzzeled her heart before.


「立海大……。」
リョーマが小さく呟くと国光の試合に驚嘆して心を奪われていた部員の内、数名が振り向いた。観戦していた人々の中にも貫禄の存在感に気がついてまばらに驚きの声が上がる。
「おいおい、三強のお出ましかよ。」
傍らの武がそう言うのでリョーマは改めて高い所にいる彼らをひとりずつ見つめた。確かに三人。ひとりは以前顔を合わせたことがある、細目で能面のように感情を簡単には窺わせない冷静さを持った男。その反対にいるがっしりとした体格の彼は見知っているからいいとして、と、ここまで来てリョーマは首を傾げた。中心にいる細身で、青みがかった緩やかにうねる髪を陽光に輝かせる人は誰だろう。双璧なる男たちに挟まれて、線が細いのにその人の存在感は一番強い。遠目でも透き通るような肌をしていて、こんな場所にはそぐわない繊細な容貌をしている。
「きれい……。」
思わずリョーマがそう漏らすと、同じようにうっとりした声で武も呟いた。
「やっぱ幸村さん相変わらず美人だよなあ…。」
「ほーんと、ほんと。なのにテニスだと隣の二人より強いんだからやんなっちゃうにゃー。」
武の首にぐいっと手を回して英二が会話に飛び込んでくる。そうしてケラケラ笑っている二人をリョーマは訝しんで睨んだ。
「ねえ、あの人が、幸村、さんっていうんスか。」
その質問にぱちくりと瞬いた英二と武が顔を見合わせた。それからああ、と声を上げると二人はあっさりと肩を竦めてきた。
「そうか、越前は知らねーよな。」
「ならよっく見とけ〜。あそこの真ん中にいるのがあの立海大付属中テニス部の部長様、幸村さんだよ〜ん。」
そう言いがてら回り込んできた英二がリョーマの顎を下から掴み上げ、頬をぎゅっと指で押しつぶす。そうして半ば無理やり顔を上げさせられた彼女は不機嫌に顔をしかめながら、じっと幸村という人を見つめた。
その瞬間、リョーマの背筋が凍った。
幸村の瞳もまた今度はまっすぐリョーマに向けられており、その冷静さを通り越した凍てつく憎悪のようなものが見つめ返されたリョーマの瞳から体の中に侵入し、心臓まで掴みつぶしそうになったのだ。完全に膝が抜けた。そのせいで英二の指をすり抜けてリョーマの体はがくりとその場に伏してしまい、武や英二がぎょっとして彼女の名前を呼んでいると試合を終えたばかりの国光が客席に乗り上げて駆け付けてきた。

隣の体躯ががくん、と動きかけて、幸村は静かに横目で彼を見た。皇帝の字には似つかわしくない丸みを帯びた視線はまっすぐさっきまで幸村が睨んでいた子どもに注がれていた。やはり、と自分の目算が間違っていなかったことを幸村は確信した。
あれだ。あれに違いない。駆け付けたばかりの国光に腕をとられてやっと立ち上がったあの小さな子どもが、いや、女が、隣の彼をさらっていった張本人、「越前リョーマ」だ。なるほど、少女と認識して見れば彼女だけ周りとは体の造りが違っている。肩が少し丸いし、体のしなり方も柔らかい。目をこらせば膨らんだ頬と大きな瞳が帽子の陰に覗いた。かわいい子、と口の端が釣り上って、幸村は自分の浮かべる冷笑の具合に胸を痛めた。元来人を憎むことになど慣れていない。ひどく心の労力を使うから本当はそんなことを決してしたくない。にも関らずどうしてもあの小さな少女が嫌いだと思われて仕方ないのは、絶対にこの隣でかすかに狼狽している男のせいだ。
幸村がそっと弦一郎の表情を窺うと、彼は今にも走って行きたいような逸る表情をしているくせに、それを歯を食いしばって堪えていた。こういうものをはっきり見せられてしまうといっそあきれ返る。幸村はほのかなため息交じりにぼそりと言った。
「馬鹿じゃないのかい……。」
「ん。何か言ったか、幸村。」
「何も。」
ひどく不思議そうに尋ねられては聞えよがしにもう一度言えるはずもない。苦笑を浮かべて首を横に振り、幸村はコートに背を向けた。行こう、と声をかければ弦一郎も蓮二も素直についてくる。もともと手塚国光の様子を見に来ただけなのだから長居の必要はないのだ。歩きながら肩越しに後ろの二人をこっそり見ると、遠ざかるコートが気になって遅れそうになる弦一郎の肩をばしん、と蓮二が叩いている。見たくないものが見えて幸村は急いで前を向いた。胸がぎゅっと音をたてて締め付けられた気がした。こちらの痛みの方が自分の心の冷たさに苦しむより堪えがたい。逆にこれを取り除けるものなら他のどんな辛さだってきっと平気だろう。
胸に手を当てて俯いていると、ユニフォームのスカートから延びる白い足が見えた。しっかり歩いている自分の足を見ていると少しだけ元気が湧くような気がした。大丈夫、ちゃんと歩ける。もう臆することも引け目を感じることもないのだから、彼が歩き去ろうとするなら走っていって引き止めればいい。息を深く吸うと肺に熱い空気が届く。歩いていること、外で生きていること。それらを強く望んでいたときも、叶うときも、やはり側にいてほしい人がいる。
幸村がさっと振り返った。そうした彼女が立ち止まって自分を覗き込んでくるので、多少急いて足を止めた弦一郎はじっと幸村の顔を見つめた。少女らしい微笑と上向く瞳が何も言わずそこにいるばかりで、妙に居心地が悪い。すぐさま痺れの切れた弦一郎が、どぎまぎしながら口を開いた。
「…何か用か。」
「別に何も。」
そう言ってツンと顔をそらすと、ほんのり嬉しそうになった幸村は軽い足取りでまた歩き始めてしまった。いよいよ訳が分からない弦一郎はつい蓮二に助けを求めようと顔を向けた。
「あれは何なのだ。」
「知るか、馬鹿。」
しかし救助の声も何の感情もない薄い笑顔にばっさり切り落とされた。馬鹿と罵られるのは二度目で、呆然とした弦一郎は恐る恐る尋ねる。
「…蓮二、お前、近頃妙に俺に対して冷たくないか。」
「そうかもしれないな。まあ気にするな。」
そう言って同じ表情のまま蓮二が歩き去っていく。かすかな孤独を覚えて弦一郎の足はしばらくそこからびたりとも動かなかった。

時を同じくして青学の応援スタンドでリョーマもまた依然として動けないでいた。ところが彼女の場合は軽々しい雰囲気が一切なく、確信にも近い嫌な予感のためにひとり冷や汗すら流していた。ドクドクと心臓だけが波を打って顔は赤くなったが、頭の中は冷たいように感じる。この動揺がたったひとりの女性によってもたらされたものだとはリョーマには信じ難く、また信じたくもなかった。そのせいで助け起こしてくれた国光の指先をリョーマはぎゅっと力を込めて握りしめて放せないままでいた。
「越前……。」
当然と言うべきか、国光は期待のこもった緊張の色を帯びてリョーマに声をかけた。リョーマの指先は少し冷たくて、なのに柔らかい。テニスの試合をしているときに味わうスリルによる興奮とはまた違う、妙に甘くてくすぐったい高揚感があった。背中がぞわぞわして居心地が悪い気さえするのにもっと浸っていたくなる、まるで中毒だと国光はぼうっとする頭で思った。
そんな国光のうぬぼれとは裏腹に、じっと見下ろし続けた先のリョーマがやっと返してくれた言葉は、もちろん検討違いのものであった。
「…幸村さんって」
ぱちん、とスイッチが切り替わるように熱をまとっていた国光の頭が冴えた。なぜここで幸村の名が、と一時は考えたもののリョーマの声は震え、同じように力のこもった手も小刻みに揺れていた。その頼りない様子は誰の目にもリョーマが国光に縋っているように映ったが、触れているからこそ国光には彼女が彼にとってそのような嬉しい理由でしがみついている訳ではないと分かった。つまり彼女はよほど切羽詰まっていて、その実リョーマの震えは驚愕と不安からのものであった。
「女の、人なんだね…。」
確認するように問うたその言葉に、一瞬沈黙した周囲のテニス部員たちがすぐさまざわめき出す。そしてしばらくケラケラと笑ったあと、リョーマの耳に小さな唸りが聞こえた。
「まあ、でも越前は知らなくて当然か。」
側に立っていた武がそう言った。悟られないように彼を見上げ、その表情からあの少女がはいていたスカートが見間違いでも何でもなかったことをようやくリョーマは認めることにした。だから余計にリョーマの手に力がこもり、とうとう国光は、痛い、と小さく零した。そんな憐れな声を聞きつけると、リョーマはキッと国光を睨みあげて怒鳴った。
「だって!」
既に試合の終わった周囲は喧騒を取り戻していたためにリョーマの一吠え程度はあっさり飲み込まれる。けれども彼女のすぐ脇に立っていた武と国光を驚かせるには十分で、彼らは一様に軽く退いてしまった。とはいえ想いを寄せる少女の過剰な反応が気にならないはずもなく、叫んだあと萎れるように俯いてしまったリョーマを二人はそっと覗き込んだ。
「…どうした、越前。」
なるべく刺激しないようそっと声をかける。すると下唇を噛みしめていた小さな口が解けて、急に血の巡りが戻ったそこは芥子の赤色をして膨らんだ。もれなくその様に見とれてしまったせいで、リョーマの発した慣れない感情に戸惑う呟きが二人の耳に届くことはなかった。
「だってあの人…キレイだよ…。」


――――――
蓮二さんの立ち位置は中立です。



[ 34/68 ]

*prev next#
[back]