32.I understand you more than you've thought.


記憶は不意にそこで途切れた。そのあとにも二、三のやり取りや悶着があったのに違いないのだが、どうにもその先は出てこない。その前に弦一郎の瞼は上がっていて、目の前には思ったよりどんよりと暗い階段が見えてまるで眠っていたかのようである。ならば夢は終わったらしい。は、と息がつけた。何のため息か分からないが、とにかく妙な安心感があって彼は思い出したように体を起こした。腕の中にはリョーマがいた。彼女もまた既に目を開いていて、すっかり落ち着いた様子を見せていたが、あまり顔色は優れない。きらきらと斜めから弦一郎の目に観覧車の光が差し込み、その眩さを鬱陶しく思うのと同時にこの子に何と声をかければいいのかが今ひとつ思いつかないことに気がついた。けれどその心配は一瞬で無用になり、というのもリョーマは相変わらずどこか青い顔のままそうっと帽子を脱いでそれのつむじを見たり、ひっくり返したりをしばらく繰り返すとようやく小さな顔を弦一郎に向けて上げた。
「これ、本当にアンタのだったんだね。」
実に元気のない声であったが、それを尋ねるより先にリョーマははい、と言って手の中に収めていた帽子を弦一郎へ差し出した。といっても二人の距離は近くてほんの少し突き出しただけの帽子は弦一郎の胸の辺りにぶつかってくしゃりと歪む。反射的に手が伸びて押し付けられたものを彼は捕らえようとしたが、それは叶わなかった。
「リョーマ…。」
名前を呼ばれてリョーマは瞬いた。気がつくと視界はがらりと変わり、広くなっていた。弦一郎はリョーマより数段下のところに膝立ちをしている状態で、僅かに驚いた顔つきでリョーマを見上げている。リョーマは手にほんの少しの重みを感じてそれを取りあげた。返すつもりでいた帽子は、まだそこにあった。すると今度はリョーマの方が不思議で、どうして、と呟いてみたものの弦一郎も誰もその疑問には答えられない。
リョーマは帽子を受け取られる刹那、突然飛びのいた。それは明らかに弦一郎に帽子を返すことを拒んでいるような雰囲気の動作で、飛びのいたばかりの彼女は一層青い顔をしていた。今は若干回復した表情であったが、リョーマは自分も合点がいかない、煮え切らないという苦しさを滲ませていた。ぎゅっと歯を食いしばったのは何かを心に決めた表れで、案の定次に弦一郎を見たリョーマは薄らとではあったが笑顔を浮かべてみせた。
「まだ、返さなくていいでしょ。持ってたい。」
ダメ、と尋ねられた。もちろんここで駄目だ、などとは弦一郎には言えない言葉だ。あの帽子が早急に必要なわけでもなければ、それどころか自分でも忘れてしまっていたような代物なのだ。くれてやっても構わないほどである。だからリョーマのおねだりがただの駄々に過ぎないならもう話は終わっても良いのだけれど、そればかりはそうもいかない。
どうしてそんな顔をする。
お前もあの約束を思い出したのか。
思い出したというなら何故、そんなに帽子を返すことを心底嫌がるようなふうを見せるのか。
聞きたいことは山ほどあった。けれど相変わらず言いたいことがあればあるほど弦一郎の口は塞がった。どの言葉も、何だか意味深なように聞こえて仕方ない。別段、これらの疑問に他意も妙な確信もありはしないのに、弦一郎には今しがた思いついた質問の全てが見えない凶器ように感じられた。
ただでさえ昼間不甲斐ない態度でリョーマを傷つけたばかりだというのに、これ以上どうして彼女を傷つけられようか。そのつもりがなくても人を傷つけることはいくらでもある。特に自分が不器用な言葉というやつだ。どんなに警戒しても失態を犯さないとは言いきれない。だから口は噤むしかなかった。せめて少しでも気の利いた、優しい文句でも知っていればいいものを大体そういうものとは無縁で暮らしてきた身だからやはり検討がつくはずもない。結局がっくりと肩が落ちて、疲れたため息まじりに弦一郎は構わない、と言ってやることしかできなかった。
そのしょぼくれた背格好を上から見下ろしていると、労いの気持ちと変な優越感、そして腹の辺りがくすぐったくなるような庇護欲がリョーマの背中を這い登った。脱いだ帽子で顔の下半分を覆う。その陰でかわいい、などと呟いた。さっきまでの得体の知れない不安はもう忘れ去ったような気がしていた。彼にこの帽子を返したくない、というのは拒んでしまった事実がある以上、もう正直に認めるしかない気持ちだ。しかし彼が悩みに悩みぬいているときに見せる眉間の皺とそのあとに訪れる疲弊した吐息がリョーマにとっては一番優しいもので、それが痛む心を温かく撫でた。追及と断罪の時がいつか来ると、逃げることも隠れることも最後には出来ないと知っているが、今日はもう勘弁してほしい。それよりはこの目の前に居る図体だけ大きな、顔は怖いが意外と思いやりのあるらしいイキモノに愛しさを覚えたい。リョーマは抜き足でそっと階段を一段ずつ折り始めた。なるべく音を立てないようにすると弦一郎に気付く気配はなく、シメたと思って上唇をほんの少しぺろりと舐め上げたリョーマは徐に屈んだ。
ぎゅっと頭周りが締め上げられて、突っ込んだ鼻先は平らさにぶつかったが頬の一番高いところには明らかに膨らみが触れていた。油断していた。半分麻痺した脳が理解した状況は、ぼんやりしている内にリョーマに頭を抱きしめられて彼女の胸に顔面を押し付けられている己、という断ち切りたいほど愚かで恥ずかしい姿であった。
「は、放さんか!」
子供ではあるまいし、こんな屈辱的な格好を許せない、と弦一郎はもがいて肩に力を込めた。
「ダーメ。油断してるアンタが悪いんじゃん。」
帽子の上から自分の頭に頬を寄せたリョーマがくすくす笑っているのが伝わった。彼女はえらくご満悦のようだが弦一郎とら冗談ではない。昼間のことがあったにも関わらずリョーマと出会ってしまった、それだけでも十分現金な話だというのに、こんなに密着してはプライドがズタズタである。いや、もっと弦一郎個人に深刻な問題としてはやはり、自分の顔が埋まっている位置にある。リョーマはまだ十二で、また体格は普通より小柄なほうである。しかしながられっきとした少女であって、初対面、とは最早言えないが三月の終いに再会したときは一応体格から彼女の性別を判断したのである。つまり、どんなにリョーマは子供だと理性が訴えても顔に当たる感触はアレに違いないのだと本能がせせら笑っているわけだ。ガチガチに力が入って甲に筋まで浮かんだ手がわなわなと所在もなく震えていた。緊張もピークで、何かの糸が切れる前のカウントダウンを始めたような気がする。待ってくれ、やめてくれ、勘弁してくれ!心の中で盛大に叫んでぎゅっと目を瞑る。他校のユニフォームの匂いは嗅ぎなれなくて余計今の事態は現実味を増した。
そのとき、髪が外気に晒される涼しさを弦一郎は覚えた。はっと目を開くと無防備な頭をリョーマの小さな手がゆっくり撫でていて、瞬きを繰り返すとふふ、とリョーマが弦一郎の頭の天辺で微笑んだ。
「おつかれさま。今日は疲れたでしょ。」
エライ、エライ、とまるっきり子供扱いでリョーマは弦一郎の頭を撫で続ける。ぎょっとして弦一郎がもがくとたしなめる声がしてもっと頭を締め付けられた。ぐ、と唸ってしばらく。弦一郎が諦めてだらりと両腕を垂らした。
「何が、エライものか。」
渾身の悔しさで恨み言のように呟くと、何で、と聞き返されてしまった。
「アンタはエライよ。頑張ったじゃん。そんなのずっと見てたんだから知ってるよ。」
「お前のために頑張ったわけではない。」
言ってしまって誤解を招く発言だったか、と弦一郎は固くなったが、リョーマは相変わらず一定の速度で弦一郎の頭を撫でていた。
「みたいだね。うん。あのときはさすがにびっくりしたけど、でも。」
ゆるりと頭の拘束が解けていく。ほっとするのと同時に物寂しくもあるが、リョーマの顔色が窺いたいような、ちっとも見たくないような、中途半端の気持ちが緩慢に弦一郎の顎を上向けた。
リョーマは笑っていた。
「でも、来てくれた。慰めてくれた。抱きしめてくれた。ねえ、まだ俺のこと好きなんでしょ。」
違う、と小首を傾げて問う姿は驚くほど魅惑的で、ひっと息が詰まる思いがした弦一郎は利けなくなった口の代わりに時間をかけてこっくりと頷いた。それを見届けるとリョーマから安堵した様子の息が漏れて、よかった、と僅かに震えた声で言った彼女は弦一郎の肩に手を置いて腕を突っ張った。
「じゃあ次は勝ってよね。」
「次、だと。」
「うん、全国で。最後に。」
絶対だよ、と言い捨ててリョーマの手が肩から離れかけた。慌てて弦一郎がその両手を掴んで彼女が帰ろうとするのを阻む。リョーマはきょとんとしていたが、弦一郎としては事が飛び石に起こって何が何だか分からない。
「待て、待てお前、それだけ、か。」
「うん。」
あっさりとした返答。それだけでまた掴んだ手がもぞもぞと抜け出すようにくねるので今度は手首をがっちりと掴み上げた。
「何故だ!今日のことは、問いたださんのか。いや気にならんのか、お前は!」
「…アンタが「立海大テニス部の副部長」だったってだけのことでしょ。」
いやに訳の分かった理由が返ってきて、今度きょとんとする羽目になったのは弦一郎であった。彼は馬鹿みたいに口をぱくぱくさせたが、冷静なリョーマの眼差しに自分が思っていたよりずっと彼女が物を弁えているようであるのに気がつくと、やっと落ち着くことが出来た。そしてリョーマはほんの少し俯き気味で話を続け、その弦一郎から微かに逸らした顔の輪郭はネオンの光を受けて一種大人びたものに見えた。
「それと、俺が「青学の越前リョーマ」だったっていうのも同じことで、本当のことで。俺は青学のみんなのことも嫌いじゃないから、アンタかみんなか選ばなくちゃいけない。」
アンタもそうでしょ、と掴まれた手首を解きながらリョーマが確かめる。今度はすぐに頷いた弦一郎に頷き返して、そっと両手の指先をリョーマは差し出した。それを掬うように取って少しだけ力を込めて握ってやれば、リョーマは覚悟したように深く息を吸った。
「じゃあしばらく会わないね。」
「…そうなるな。」
「だから勝って。全部の最後に、アンタは勝たなくちゃいけない。」
「無論だ。」
「どうして。」
甘い目をしているくせにニヤリとリョーマが笑った。こういうところが心臓に悪い。多分無意識でやっているだろうから、こんなものを国光だとか景吾だとかに見られた日には血を見るようなこの娘の争奪戦になるに違いないのだ。そういう訳でため息をついてしまったらタイミングが悪く、ぎゅっとリョーマに頬をつねられた。
「怒るよ。」
「ひゃめんか…。」
間の抜けた物言いが気に入ったらしい。真ん丸くなったリョーマの目の淵が弧を描いて長い睫がふわりと被さった。そしてもう一度、どうして、と尋ねてくる。照れくさくて苦笑が漏れたが、思い返せばはっきり言ってやったことがなかったのだから、万感の思いを込めようと腹に力が入った。
「俺がお前を好きだからだ。」
「よし。」
先ほど弦一郎の頬を抓った右手が今度は彼の頭をぽんぽんと叩いた。そう言えば未だにリョーマの方が少し高いところにいて弦一郎を見下ろしている。生意気な、と思ったが存外こうしている方が身には馴染むような気がしておかしかった。弦一郎がくしゃりと笑顔を浮かべると、飛びついてきたリョーマが彼の額に柔らかい頬を寄せて同じ調子で笑い始めた。

――――――
こうして手塚は墓穴を掘った。

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