31.きげん の ない やくそく でも


ある朝、早起きは苦手なのに母さんに無理矢理起こされた。不貞腐れた俺に母さんは怒って言う。
「弦ちゃん今日帰っちゃうのに、起きなくていいの。」
シーツの海に埋もれていた俺は首を傾げた。背を向けて俺の服を取り上げた母さんのワンピースをベッドの上から一杯に腕を伸ばして掴んだ。くん、と突っ張った感触に母さんは相変わらず背を向けたまま慣れた様子でなあに、と聞き返してくる。
「かあさん、弦ちゃんかえるってなんで。」
え、とようやく母さんが変な顔をして振り返った。俺はまた首を捻り、そのようすに合点がいったのか母さんは軽く噴出した。
「やだ、リョーマったら。当たり前でしょう、弦ちゃんのお家は日本にあるのよ。」
帰るに決まってるじゃない、と呆れ声が言って服を渡された。俺は釈然としないまま手の中にあるシャツを掴んで適当にパジャマを脱いだ。その間に母さんは俺が背を向けたほうにあるカーテンを開ける。いつもはカッと日差しが差し込む頃に起きるのに、その日はまだ甘い光が部屋をほの明るく照らす程度だった。
「じゃああそびにいく。」
シャツに頭をくぐらせて一本ずつ腕を通す。するとまた母親がええっ、とかすかな笑い声を上げた。
「なんでわらうんだよ。」
「だって、どうやって遊びに行くの。」
「あるく。」
ズボンをはいたのでベッドから降りた。
「弦ちゃんのお家は海の向こう。」
「じゃあおよぐ。」
くしゃくしゃのベッドを綺麗に整えていた母さんがいい加減に俺を振り返ると、真っ直ぐ母さんを見上げる俺を見て驚いて哀れむようなため息をついた。そして母さんは床に膝をつくと垂れていた俺のズボンのサスペンダーを肩にかけてくれながら俺の頭を優しく撫でた。
「あのね、リョーマ。弦ちゃんのお家はリョーマがどんなに頑張っても行けないくらい遠くにあるの。」
「もっとがんばる。」
ズボンの布を掴んで訴えても母さんの顔色は変わらない。
「だめよ。海は広いから溺れちゃうわ。だからね、今日から弦ちゃんいなくなっちゃうの。もう、当分会えないからきちんとバイバイしましょうね。」
俺はしばらく母さんの言っていることが分からなかった。ショック、と言えばそうだけれど、それよりは頭の中が真っ白で、きっと告げられた現実を受け入れたくなかったんだと思う。とにかく、弦ちゃんがいなくなる、もう会えない。それだけはだんだんと分かってきて俺は部屋を飛び出した。靴も履かず、廊下をぺたぺたと走って玄関の網戸を跳ね除けるように開けた。家の前に広がる芝はまだ朝の露で湿っていて足の裏がびりびりするほど冷えたけれど俺は上がった息のままキョロキョロ辺りを見渡した。
「弦ちゃん…。」
弱弱しく名前を呼ぶ。こうやって彼の名前を口にすれば少し怒った顔がそれでも、なんだ、と問いかけて迎えに来てくれる。そういうものだと決め付けていたのに、今朝起きるとそれが覆された。そんなの嘘だ。
答はない。ぷつりと糸が切れたように涙は急に浮かんできた。頬を熱くて丸い雫が滑ってヤダヤダとやたらに首を振った。頭がクラクラして目の前がぐるりと回る。よろけて後ろにぽてんと尻餅をつくと俺は握りしめた手の甲で交互に目元を拭った。口からは言葉にならない喚きだけ漏れて、一瞬正気に戻って目を開いても自分の泣き声を耳にするとまた泣けてきた。
オレンジの林が遠くでざわざわと鳴る。風に乗って空の雲が流れたのか、日差しが急に差し込み始めて目の前の芝に粒の光が円を描くように広がった。その光が少し宙に飛び散って小さな影が伸びる。近寄ったそれが知ってる熱っぽさを持っていて、唐突に泣き止んだ俺はどきどきしながら顔を上げた。

「どうした。」
俺が立ちふさがった前でリョーマは芝に座り込んでビービー泣いていた。その滑稽なほど泣いている声に俺はオレンジの林の中で気がついた。今朝帰ることを昨日の晩聞かされて、朝一番に俺はまだ真っ暗な林に別れを告げに来ていた。半袖でいるには寒いほどのそこはあまり心地よくなかったが、持ち合わせていた思い出は決して悪いものではなかった。目を閉じると草と枝葉の青臭い匂いがして、その奥にはあのオレンジの匂いもずっと漂っている。明日からこれを感じられないと思うとひどく名残惜しかったのだ。この匂いに包まれて過ごした時間が既に俺の中ではっきりとした価値を持っていて、正直言えば少し泣きそうにもなった。
ところがそれより早く大声で泣き喚く奴がいたものだから俺の涙などはあっという間に引っ込んだ。ぎょっとして林から走り出せば太陽が向こうの空にちょうど現れたところらしく、目が眩んだ。その中に小さな影がいて、えんえん泣いていた。その妙なくらい途方に暮れたかのような泣き方はなじみがなくて俺は急いで駆けつけた。声をかければリョーマは真っ赤になった顔を上げて、俺を見つけると驚きながらもものすごく嬉しそうな顔をしてみせた。
「弦ちゃんいた…。」
「いたらなんだ。」
不可解で首を傾げ、尋ねる。するとリョーマはよろよろしながら立ち上がって俺に飛びつくようにTシャツを掴んできた。
「弦ちゃんかえんないよね。」
「いや帰る。」
何気なくはっきりと言い返した。途端にリョーマの期待に溢れていた表情が落胆に包まれ、愕然と目を見開いた後、奴の暴挙は始まった。
「あっ。」
声を上げたときにはもう頭が軽くなっていた。二、三歩退いたリョーマが大事そうに胸に抱えた俺の白い帽子は朝日を浴びて見つめることも出来ないほど輝く。どうしてだか、取られてしまったことを俺はぼんやりと認識していた。いつもならすぐさま激昂する感情がその日は目覚めが悪く、呆然と見つめるだけの俺をリョーマは何事か言いたそうな強い眼差しでにらんでいた。
「とった!」
わっとそう叫んでリョーマは唐突に走り出す。滑りやすい足元に負けない強い踏み抜きで芝生の上をするすると駆けて行く。飛び散った草の露が俺の頬にぴっと張り付き、垂れた。その冷たさに愚鈍な頭がやっと気がついた。
「ま、待てっ!」
俺が駆け出したときにはもうリョーマは林の中に飛び込んでいて、姿を見失うと同時に俺もオレンジの林に逆戻りした。日の光が増したその中はところどころに煌きが零れ落ちていて実に美しかった。が、そういうものに気を取られている場合ではない。俺は必死の形相で視界の悪い周辺に首を巡らせる。ただでさえ小さいものが薄暗い木立の中に紛れては探し出すのは至難の業だ。くそ、と漏らすと頭上から幾枚かの葉がはらりと降って来た。鼻先をくすぐってきた一枚を乱暴に掴むと、ある考えが浮かんでぞっとしながら俺は上を見た。
「おいっ…おまえ!」
「弦ちゃんのバーカ!これリョーマのにするから!」
「たわけっ!おりてこい!」
涙ぐみながらツンと鼻をそらして生意気なリョーマは、あろうことか俺の頭上遥か上で木の枝に跨っている。どうやって登ったのか甚だ疑問だが、小さな体は時折ぐらぐら揺らいで、それなのに躊躇もなく俺を罵倒する文句を何度もがなる。動くなと言っても聞かない様子に俺は叱り声を上げながらも顔面蒼白だった。もし落ちたらどうしよう。冷や汗がどんどん噴出して声が枯れるほど喚いた。
「朝っぱらからうるせーなー…。」
力の篭りっぱなしであった俺の体にコン、と固い感触が優しく触れた。叩かれた頭を押さえて振り返ると、今起きてきたばかりのようなしどけない姿で立つ南次郎さんが居た。彼はあくびまじりにリョーマがいる木へ近づく。
「オヤジくんな!」
いつの間にか俺の帽子を俺がするように前後ろ逆にして被ったリョーマがぶんぶん手を振る。すると余計体勢が崩れて枝からずり落ちそうになる。俺がひっと息を呑んだその光景にも関わらず、南次郎さんはリョーマの真下まで来ると、何と腕を伸ばしてラケットの先でリョーマをつつき出した。その明らかに落とそうとする行動にぎょっとして俺も急いで南次郎さんの側まで駆けつける。するとついに突れ続けて堪えられなくなったリョーマがぽとりと枝から落ちた。しかしながらすかさず南次郎さんが大きな腕で丸まった小さな体を受け止め、やれやれと彼は呟くと自分の身の安全に気付いたリョーマが急に大泣きを始めた。
「バッカヤロー。泣くんなら最初から危ないことすんな。」
大人の忠告、の割にはいつも通りニヤニヤ笑っていた南次郎さんはあやすようにリョーマの体を軽く縦に揺すっていた。だがやわく揺すぶられても愚図った声は「イヤだ」を連呼した。
「や、やら、やらもん…弦ちゃんかえっちゃやらあ…!」
「ほー、それで帽子取ったのかよ。」
「りょーまのっ、りょーまのにすゆ、も…しらら、弦ちゃ、とっかえす、まれ、かえんないー…。」
ぎゅっと帽子を掴むリョーマの顔はそれに隠れてほとんど見えなくなっていたが、帽子の淵からぼたぼた零れる涙が尋常ではない量で、そこに篭った思いの丈がまざまざと見て取れた。そんなものを見せられては当然俺も急速に心苦しくなる。恐らく、俺に焦がれて流してくれたのだろう涙は、初めて俺にリョーマとの長い別れを悲しませた。俺の方が歳が上だから、もう会えないかもしれないという理由も根拠もリョーマより余計に分かる。分かる分だけこれが下手をしたら今生の別れかもしれないのも知れた。果てしないほどの距離がこれから俺たちを引き裂く。それは時間と合わさって本当の意味でも俺たちをお互いなかったものにしてしまうかもしれないのだ。離れるとはそういうことで、俺たちがこんなに悲しいのはその時が訪れるのを恐れているのに他ならない。
だから、陳腐だと分かっていて俺は。
拳を握り締めてキッと上を見た。俺の視線に気付いた南次郎さんがゆっくりとリョーマを降ろし、地面に足がつくと観念してしまったのかリョーマはおずおずと頭に被っていたものを取った。俺の顔も見れないまま差し出す帽子を俺は乱暴に奪い取り、怒られると思ったのかリョーマはひっと頭を押さえ込んだ。
そこに俺は再び帽子を被せる。ぎゅっと前鍔で押さえ込んでやるとうろたえたリョーマがわたわたと帽子の中に収まりそうだった両手を引き抜いた。それを見届けて手を放してやると、小さな手で少しずつ帽子をずらしたリョーマの顔が鍔の横に見え始め、涙目は見開かれて俺を見ていた。そして俺自身でさえぶっきらぼうだと感じるほどの声で俺は口を開いた。
「あずける。」
「あず…?」
「取りかえしにくるから、それまで持ってろ。」

それがあのときの俺に出来た、精一杯の、唯一不確かな約束であったのだ。

――――――
娘さんかっさらいます宣言。


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