30.おれんじ を かじる えいえん の ばしょ


気がついたらあれだけ仲が悪かったのに、俺はリョーマとテニスをするようになっていた。南次郎さんは不在のことも多かったから、そういうときは専らリョーマと一緒に過ごした。テニスもするし、鬼ごっこだとかかくれんぼだとか、家の敷地内にあるオレンジの林で木登りもしたし、裏の海でも遊んだ。相変わらず喧嘩の数は減らなくて、むしろ増えていったと言ってもいいくらいだったが、ひとしきり怒鳴りあったら仲直りする、といった具合であった。だから喧嘩というよりはあれもあれでじゃれ合いのようなものだったのかもしれない。あの頃は本気で怒ってばかりいたから知る由もなかったが。
しかし、どうあっても総じて言えばあの時間は本当に楽しかった。俺には兄がひとりいたが、歳は離れていたし、人の面倒を見るのは嫌いではないから下に兄弟が居ればいいとよく思っていた。俺にとって遊んでいた間リョーマはまさにそれだったのだと思う。はっきり言って女だとは意識していなかった。あれは口の利き方も粗雑だったし、着るものも動きやすさを重視していたからほとんど男物のようだった。泣いてもうるさいし、負けん気は俺よりもひどいくらいだ。だから俺にとってはただの生意気な弟だったのだ。
ある日、いつも南次郎さんにテニスを教わっている近所の子供から誘われた。何を言っているのかはよく分からなかったが、どうやら表で遊ぼうというつもりだったようだ。家をぐるりと囲う白い壁にひとつだけある黒い鉄格子が開かれて、子供たちだけで覗いた外の世界はただの道路でも変に冒険心をくすぐられる。だから手招きをされて俺はすぐ後をついていった。するとさっきまでテニスをしていたリョーマもラケットを抱えたまま慌ててついてこようとする。俺が気がついて振り返る。と、前を走っていた奴らから何だかんだと声が上がり、妙に煙たがるような声を出すから何事かと思えば今度はリョーマが訳の分からないことをわあわあ叫び、やっと黙り込んだかと思えば拗ねたふうに俯いてしまう。
とっくに立ち止まっていた俺は再び俺を呼んでいるらしい奴らとリョーマを交互に見比べた。彼らは群れていてやたらと笑顔が眩しい。それとは正反対にリョーマはひとりぼっちで赤いラケットを両手で抱えて佇んでいる。俺のことは見ていなかったし、どっちの側につけば俺がこの後楽しいかは歴然だった。

お前みたいな赤ちゃん連れてけるかってアイツらは言った。言われなれてたからいつもなら平気だけど、弦ちゃんを俺から引き離そうとしたからあのときだけは話が別だった。そのとき初めて自覚したけど、いつの間にか俺は弦ちゃんにべったりになっていて、この人が俺の側からいなくなることがとても想像すら出来なくなっていた。まるで生まれてからずっと一緒にいる人よりも親しいように思えて、それに理由をつけるなら親父でさえ分かってくれなかった俺の言葉にできない寂しさを悟って慰めてくれた、あの向日葵の脇での喧嘩だろうか。あのとき茎の檻が揺らいだのは風のせいよりも、弦ちゃんが俺の中に入ってきたせいで巻き起こった揺らめきだった。でも檻は檻だからこの心のテリトリーに入ったからにはもうこの人を外へ出すことなんて出来ない。
それなのに突然アイツらは弦ちゃんを連れ出そうとした。前に少しだけ、親父もいるとき一緒にテニスをしたけど、もう弦ちゃんはラリーもかなりの間続くくらい上手くなっていて、その場の大勢が感心して口笛を吹いたり手を叩いたりしていた。きっとアイツらも弦ちゃんを気に入ったんだ。だって俺が側にいてほしい人なんだから、どうしても人に必要とされやすいタイプに違いない。弦ちゃんも俺とばかりじゃ退屈してたのか、すぐにアイツらについていこうとするから、嫌でたまらなくて俺は追いかけた。そうしたら赤ちゃん扱い。それが何の理由になるか少しも分からない。俺はただ片時もこの人の側から離れたくないだけ。それでもそんな気持ちだけではどうにもならないと教えるように弦ちゃんはアイツらと俺の間で迷っていた。向こうを見て、俺を見て、また向こうを見て。照り返しで眩むくらいの白い道の上は何も隠せない場所だと感じた。あのオレンジの林は優しい影で俺たちだけの小さな世界を許してくれたのに、一歩外は残酷に明け透けだ。だから俺はやっぱり小さい。
汗が伝って地面にはじけて消えた。暑い。顔を拭ってみたけれどまたぱたぱたと零れてやまない。でも認めたくない。こんなに儚くはじけるもの、切なくってしょうがないじゃないか。ヤダ、と呟いた。
「帰るぞ。」

差し出した手を潤んでぼやけた瞳が見つめていた。どうせ泣いているだろうと思っていたから驚きはしなかった。こいつは泣き虫だ。その割りに負けん気が強いから、多分ここで置いていってもついてくるに決まっている。けれどリョーマはまだあまりに小さいから外で連れまわす訳にはいかないだろう。
そうしたらどちらに行くか、自然と諦めがついた。目の前にある一時の楽しみと後ろ髪引かれる気がかりを天秤にかけたら、俺は後者を選ばないではいられない。ただそういう気質だというだけの話だ。当然だという気で俺は手を伸ばしていた。なのにリョーマは不思議そうに俺の手のひらと顔を何度も繰り返し見つめ続ける。いつまでも取ってもらえない手に業を煮やして俺はラケットを抱える腕の一本をむしりとった。慌てて落ちそうなラケットを持ち直すリョーマに構わず俺は誘ってくれた子供たちにすまん、とだけ言った。通じたかは知れないが、肩を竦めて彼らがお互い顔を見合わせる姿だけが最後に見えた。それをあっさり振り切って俺はずかずか歩く。リョーマの歩幅も考えない歩みは乱暴で、けれどリョーマは小さく何度か呻きながらもきちんと一生懸命ついてきた。むしろ置いていかれまいと必死になっていたようで、家の敷地に入っていつものオレンジの林の影でやっと立ち止まった俺の後ろで、リョーマはすぐにへたり込んでしまっていた。俺はポケットからテニスボールを取り出した。それを木立の天上目掛けて投げつける。ほどなくして揺れた葉の間から黄色い球と橙色した実が連なって現れ、脱いだ帽子で落ちてくる両方を掬うように捕まえた。

芝生に両手をついて俺はぜえぜえ息を吐いていた。弦ちゃんは歩くのがすごく早い。後をくっついて回るのはいつも大変で、それもよく喧嘩の種になるけれど、今日は特別早かった。あっという間に帰ってきた見慣れた世界は、その木陰で俺の苦しいくらい熱くなった体を冷やしていく。やっと四つん這いから腰を落として顔を上げ、まだ目は閉じたまま口を大きくあけてひいひい言っていたら、突然おでこにひんやりしたものが当てられた。
目を開けば熟した濃い橙色のオレンジ。弦ちゃんが俺の額にそれをぴったり押し当てていた。俺の周りに居たことのある人で、それを素直に俺にくれた人はいなかった。だから疑り深い目を向けると焦れたようにオレンジで何度か小突かれた。くれるらしい。恐る恐る両手を伸ばしてオレンジを受け取る。瞬間触れた指先に胸が一度跳ねて、ほっぺがぐんと熱くなる。弦ちゃんはじっと俺を見ていて、俺は見られていることに慌ててオレンジへ視線を向けた。そして何も考えずがむしゃらにかぶりつく。じゅっ、という瑞々しい音がして、皮のちぎれた飛沫の匂いが鼻に届いた。すぐ口の中にほのかな苦味と強い酸味、それを乗り越えると舌が焼けるくらいの甘さがとろりと零れた。思わず目を開いてオレンジから口を離す。ごくんと喉を鳴らすと口に含んだ実も皮も汁もすとんと体の中に落ちて、喉がすうっとした。
「やっぱりうまいな、これ。」
新しいのに歯形をつけて、唇をぺろりと舐め上げた弦ちゃんがすとんと俺の隣に座った。また噛み付いては指の間から薄い色のついた果汁がぽたぽた垂れて、辺りがすっぱくて甘い匂いでいっぱいになる。見ていると俺も自分のオレンジが恋しくなって一緒になって並んでそれをかじった。俺は一心不乱にそれを貪ったけど、弦ちゃんはときどき顔を上げては独り言みたいに俺に話しかけた。
このオレンジ前から狙ってたとか、あの人はいじわるだからくれなかったなとか、お前があの人を羨ましそうに見てたのを知ってたとか、だから取ってやろうと思ってたとか。オレンジの水っぽさが体に染み付くみたいに優しい声が俺の中へするりと入って内側に溶け込んでいくのを感じた。
たっぷり時間をかけて、オレンジは芯だけになった。指をぺろりと舐めると行儀が悪いとぴしゃりと叩かれてしまって、また少し俺は弦ちゃんと喧嘩をした。
そうやって日が暮れて、どんな日も繰り返す、夢のように終わる。だから永遠にぐるぐるこの時間は回って進まないものだと信じていた。

――――――
例のオレンジおいしそうですよね。


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