29.さかさ の きもち は ひまわり に とらわれる


俺のアメリカの家は庭が広かった。それを庭と呼ぶのが正しいのかどうかよく分からないけど、テニスコートをひとつ作れて、あとはオレンジの木立が裏の海岸までずらっと並んでいた。まるで小さな森のようで、それのおかげで海際の家だけれど潮でべたつくことはあまりなかった。あの家にいると親父はよく色んな人を連れてきた。それはテニスプレーヤーだったり、友達だったり、近所の子供だったり、母さんがいないときには女の人が来ることもあった。別にそれがどうというんじゃなくて、とにかくあの家では客というのは珍しくなかったから、親父が出たある試合でたまたま出会ったあの日本人の家族が家に泊まりに来たことも、ごく普通のことにすぎなかった。でも俺はそのことに不機嫌だった。何故って、その家の子供は俺と三つ違いだけど、第一印象は悪いし、喧嘩したし、ちっとも仲良くなれる気がしなかったからだ。気に入らないものが何で俺のテリトリーに入ってくるのかが分からない。親父は妙にその家の子供を気に入っていたけれど、だからって俺を放ってその子供にテニスを教え始めたのにはカチンときた。いや、いっそ悲しかった。じりじり太陽が燃える昼間だったけど、親父に教えてもらってすぐ熱中し始めたあいつは結構上手かった。飲み込みが早い。センスもある。ちょっと力任せだけど、歳の割には体も大きくて見込みがありそうだった。まるで自分の息子みたいに思って嬉しそうにテニスのいろはをそいつに説く親父は、時々俺にこうもらしていた。
リョーマが男の子だったらよかったのに。
もともとリョーマって名前も男の子が生まれるものと決めつけて親父がつけた名前だった。親父は男の子がほしかったんだ。理由は知らないけど、事あるごとに、特に俺にテニスを教える度に、そう言っていたように思う。すごく惜しそうに呟くところが俺は好きじゃない。何で俺が女だったらだめなんだろう。俺とあいつの何が違うんだろう。数日ですぐ上達していくあいつが親父に褒められて、顔を真っ赤にして頭を撫でられる。それって俺の場所なのに、ひどい。分かりやすい嫉妬だった。
だから俺はどんどんあいつが嫌いになって、だけど放ってもおけなくて、結局喧嘩ばかりしていた。だんだん嫌になってきたのか次第にあいつは俺を避け出した。でもちょっと探せばすぐ見つけられるから俺はあいつにいちゃもんつけてまわった。その日も庭をうろうろしてたら木陰の中で寝転がってるのを見つけてそっと近寄った。親父とまた練習してバテてたんだろう、近づいても気付かないから俺は調子に乗ってあいつの帽子を被せていた頭からぶん取った。さすがに気がついて起き上がったあいつはきょとんとしたあと、いつもみたいに眉をぎゅっと寄せて俺を睨んだ。
「おい、返せ。」
「ヤダ。」
知らんぷりして帽子を後ろ手に隠す。白い新品の帽子はテニスの練習をしていると日の光でぴかぴか輝いて、ちょっと羨ましかったからだ。俺がちっとも返さないから怒ったあいつは立ち上がって俺の方に歩いてきた。もう一度ヤダ、と言って俺はあいつの帽子を自分で被る。ぶかぶかだけど悪くない。何となく嬉しくなって俺は走り出した。案の定あいつは追いかけてきて鬼ごっこになる。俺は普段兄弟がいないから誰かとこうやって遊ぶことは滅多にない。親は忙しいことも多くてあまり構ってくれないし、だから俺はあいつをからかっては遊びに誘っていた。多分あいつは本気で怒っていたけれど、俺からすれば嫌がらせと楽しみと半々のものだったんだ。
でもあいつにはそれが分からないから、しばらくすると追いつかれて襟首を掴まれる。苦しいし、嫌だからバタバタ暴れたらごん、と頭を一発重いのが殴ってきた。
「たっ!」
「たわけっ!お前にかまっているひまはないのだ。」
さっき寝てたくせによく言う。要は俺が邪魔なくせに。ガレージの脇で捕まってしまい、そこには檻の格子のように背の高い向日葵がずっと列になって咲きそろっていた。その向こうは低い壁と遥か下から彼方へだだっ広い海が広がる。磯の香りがして鼻がむずむずした。こういうところから見上げる空はひどく真っ青で不思議な気分になる。自分の立っているところはこんな暗い影の中なのに、どうして見上げたら何もかも明るいんだろう。ぼうっとしていたらまた殴られた。理不尽。
「いたいっ!」
「帽子を返せ、謝れ。」
「どっちもヤダ!」
「もっかい殴るぞ!」
「それもヤダ!」
しばらくにらみ合い。俺は返したくなくて帽子をぎゅっと頭ごと押さえ込む。あいつは俺をじっと睨んでたけど、すぐ庭の方から親父の声がした。あいつの名前を親しげに呼んで、またテニスをしようと誘っている。当然あいつの顔色が変わって嬉しそうに振り返るとすぐ行きます、と丁寧に返事をした。それから忌々しげに俺を見返すと、あとで返せよ、と言って歩いていこうとしたからびっくりして俺は慌ててあいつの腕を掴んだ。
「な、なんだ。」
「ヤダ!」
「はあ?」
「行っちゃダメ!」
最初は俺の言ったことがよく分からなかったのかぽかんとしていたあいつが、段々面倒臭そうな表情をしだした。すごく馬鹿にしたような顔をされてムッときたけれど、とにかく今は行かせたくなかった。親父とばっかりずるい。そう思った。
「離せ、ナンジロさんが呼んでる。」
「ヤダ。」
「ヤダじゃない。」
「ヤダ!おれとテニスしろ!」
またあいつがびっくりした。素っ頓狂な声を上げた後、あいつは困ったように頭をかいてため息をひとつついた。その様子が不可解で、ねえ、と声をかけ直すと、やっぱり面倒臭そうな目がじろっと俺の方を向いた。
「それこそ嫌だ。お前、弱いんだろう。」
「あんたヘタくそのくせに。」
「お前よりましだ。ナンジロさんが言ってた。お前はだめだって。」
今度は俺がびっくりする番だった。親父が面と向かって俺にそんなことをいったことはなかった。いや、ふざけ調子で言うことはあったけれど、誰かにそう漏らしているとは思いも寄らなかった。それはかなりショックで、俺はついあいつの腕を離していた。けれどあいつはすぐに親父のもとへは行かなかった。しばらく黙ってそこに立っていて、俺の様子を窺っているらしい。しばらくそうしていると不意にあいつはちぇっと舌を打った。何が気に入らないのかガシガシ苛立たしそうに頭をかいて、俺は黙ってその音だけを聞いていたけれど、すぐにばしんと頭の天辺に衝撃を食らった。殴られた、のだろうか。顔を上げると気まずそうに目をそらしながら俺の頭に手を置いたあいつがいた。そして唸るように喋り出す。
「だめ、っていうのは、違うぞ。そうじゃなくって、男ならいいけど女の子のことはよく分からないから、俺の好きにできない、しちゃいけないって、ナンジロさんは多分、お前のためにだめだって言っただけで、だから。」
まるで手探りするみたいに曖昧で、一生懸命親父の言ったことを反復するあいつ自身、その言葉の意味はよく分かっていなかったんだと思う。風が吹いて、向日葵がぐらぐら揺れて、檻は案外もろい。あいつのほっぺは真っ赤だった。仏頂面でそれだから何だかおかしくって思わずにやりと笑ったら、さっきまで慰めてた手で鉄拳が落とされた。俺はまた泣いた。でもさっきまでの涙より温かいように感じられた。

――――――
リョーマさんは南次郎の野望のために育てられている。


[ 29/68 ]

*prev next#
[back]