28.じょうねつ の わいた ひ


八月、夏の盛りで日本にいたら午前中だってもうどこにいてもだらだらと汗が垂れるような気候だろう。けれどあの夏の二週間だけは違った。小学校に上がった最初の夏休み、朝早く出かけるのは平気だったが長時間飛行機の中に閉じ込められて俺はすっかり機嫌が悪くなっていた。しかし辿り着いたところの気候だけはすぐに気に入った。乾燥していてすぐ喉が乾くのが難点だが、日差しがきつくても木陰に入ると驚くほど涼しい。湿気がないだけで夏がこんなに快適だとは思いも寄らなかった。
到着した翌日もまた朝早くから出かけた。やたらに父親が上機嫌で、どこに行くのか尋ねるとテニスを観に行くんだと弾んだ声が返ってきた。正直言ってその頃の俺にはテニスというものが何なのかすらすぐには思いつかず、そんな得体の知れないものを観に連れて行かれるのか、と意味もなくまた臍を曲げた。元来父もスポーツは好きなほうだ。祖父や俺と違って専ら観戦を好むほうだが、それでもこのときの浮かれ具合はそれまでにないものだった。今思うと当然だ。当時、日本のみならず世界を席巻したあの生ける伝説、サムライ南次郎の試合を観に行くところだったのだから。
渦巻く歓声と圧巻の人の山に、会場に着いた俺は目が回った。考えられないほどのギャラリーが皆そのテニスとやらを観るために集まったとは信じられなかった。これが野球だというならまだ分かるのだが、と首を傾げながら席に着き、父の熱狂と穏やかな母の間に挟まれて俺は始まっても無い試合が早く終わらないかと退屈に座り込んでいた。
しかしその退屈も一時のことであった。審判のコールが入ると急に会場が静まり返り、驚いて俺は身を乗り出した。何が始まるのかと目を見張ると、大勢の視線の真ん中で広いコートの縁にひとりの男が立っていた。長い髪をひとつに高くくくってまとめ、ハチマキに紺のウェアー。楽しげにギラギラ光った大きな瞳が焼けた肌に埋め込まれて煌いていて、もう彼が只者ではないのが俺には分かった。
あれが越前南次郎だよ、と父が耳打ちする。すり抜けていきそうなその言葉を口で反復して、俺は緊張で手のひらにかいた汗を無意識にTシャツの裾で拭っていた。コートの上のサムライが放った小さな球が、ラケットのガットに飲まれた瞬間、まるで命を吹き込まれたかのように神速の域に達した。

試合が終わって、俺は走った。というのもサムライ南次郎の圧勝でゲームが幕を閉じると、感嘆しながら父が今下の通路に言ったら彼に会えないかなあ、などと漏らしたためだった。それに何の根拠もなかったろうが、俺は居ても立っても居られなかった。彼に会いたい。会ってどうするかも知らないが、本当に俺は感動し、興奮していた。走りながらも鮮明に蘇る試合は未知の世界でもあり、俺をひきつけて止まなかった。一対一の対峙、緊張感、心理戦、そしてあんな小さな球をラケット一本で自在に操る技術とスピードを維持するために極限まで要求される集中力。あれほどの駆け引きを見たのは生まれて初めてで、あの世界に浸れたらどんなに俺の野心は満たされるだろうか、ともう心の中に火種が灯り始めていた。無鉄砲なところは今もあるが、あの頃は今の比ではなかった。だから親の制止にも耳を貸さなかったし、飛び込んだ通路は間違いなく関係者以外立ち入り禁止の区域だった。英語なんて分かるはずがないから仕方ない、とも言えるがどの道あのときの俺には言語も何も意味はなさなかったろう。薄暗い廊下を走って走って、前方の出口に見えた人影がどうやら目的の人のようで歓喜が全身を包んだ。そしてさらに足を速めようとした瞬間、目の前に小さい影が急に出てきた。無論止まれるはずはなく、その影は容赦なく俺の勢いに巻き込まれて、跳ね飛ばされると俺と同じく前方へころころと転がった。
「いって…。」
先に起きたのは俺だった。少し頭をぶつけてしまってくらくらしたが、顔を上げるとすぐ側に別の通路が見えて、どうやら小さな影はそこから飛び出してきたらしかった。それにしても小動物みたいに転がったが大丈夫だろうか。目線を下げると赤いTシャツとオーバーオール。黒くて短い髪の毛がふわふわと揺れて、どこもかしこも小さい割には唯一大きな目が涙をいっぱいに溜めながらもじろっと俺を睨んできた。
「す、すまん…。」
よほど痛かったのかと思って謝罪したものの、小さい奴の目はじとじと俺を見つめたまま引く気配がない。おまけに恨めしそうに痛い、と呟く。もう一度謝るがそれでも同じ目で同じことを言うばかりで、何と恨みがましい奴かと呆れと苛立ちが湧いた。
「…すまんと言っているだろう。」
「…いたい。」
「キサマ…いいかげんにしろっ!」
腹立ちが極限になって怒鳴りつけた。すると小さい体がびくっと震えて、驚いた目がまじまじと瞬く。ふん、と鼻を鳴らして俺はその子供を無視して立ち上がろうとした。こんなのにかまけている暇はないのだ。すると忘れかけていた通路の向こうから来る人がもう側まで来ていた。彼は大きくて、立派な影を俺たちに落としながらも子供のように屈託のない顔をしていた。俺は息を呑んだ。さっきの、あの勇猛な男が目の前にいる。何か言おうとするが上手く口が利けず、しどろもどろしていると彼の方が先に口を開いた。
「おー、どうしたリョーマ。すっ転んだか。」
ところが彼の注目は俺の後ろのチビにばかり向いていて、俺が小さな落胆を感じていると今度はチビの方が持っていた大きすぎるラケットを懸命に俺に向けてきた。
「あれ!」
びしっと指されてあれ呼ばわりされた俺を彼が振り返る。別に俺が悪いわけではないが、どきりとして固まってしまう。
「ボウズ、どうした、迷子か。」
しかしチビの言葉は気にもせず彼はそう問いかけた。辛うじて首を横に振って答えると、やっと俺の口からも言葉が出始めた。
「あの、さっきの試合、すごくて、あの。」
緊張で顔が赤くなるのが分かった。服の裾を掴んで暴れる胸の音をこらえるのが精一杯だ。全うなことを言っているのかも分からない。そんな俺を彼は嬉しそうに見守ってくれていて、感激のあまりとうとう俺が口走ったのは結論だった。
「俺も…テニスがしたい!」
言い切った開放感で放心した俺はぼんやり彼の顔を見つめた。彼はと言えば多少驚いていたものの、すぐに満面の笑顔になって俺の頭をまるで父親がするようにくしゃくしゃと撫で回した。おかげで帽子がすっかりずれたけれど、認めてもらえた満足感の方が圧倒的で俺は嬉しかった。手が離れたので帽子を元に戻そうと手を頭にやった。そのときたまたま彼の後ろにあのチビが見えて、そいつは小さな体で何かを放ると全身を使って抱えたラケットをぶん、と器用に振り回した。と目の前に弾丸が迫った。
ごん、という鈍い音と額の痛み、彼の慄いた声がほぼ同時に俺を襲った。視界がぐるっと回って後ろに思い切り倒れてしまいそうだったが、俺の体を何か柔らかいものがとどめてくれた。そしてくらくらする目の前ではびっくりして振り返った彼があのチビに向かって大声を上げていた。
「リョ、リョーマ!おまっ…何やってんだ!」
「ころばした!」
チビが俺を指して言う。根に持っていたのか。なんてしつこいガキだ。頭が痛い。
「リョーマ!謝りなさい!ボールぶつけるなんてひどいわよ!」
俺の後ろの柔らかい人からも怒った声が上がる。俺が唸ると大丈夫、と優しく尋ねてくれた。けれどあのチビは食いしばった歯を剥いて、いーっと吐き捨てるとついにはこう俺を罵った。
「バーカ!」
いくら意識が飛びそうでも、これにはさすがに堪忍袋の緒が切れた。
「…こ、の…たわけー!」
祖父の怒鳴り癖がうつったせいで、俺の一喝はなかなかの効果があったらしい。再びびくついたチビは今度は怖かったのか、ついにわあっと泣き出して、やっと追いついてきた俺の両親は一体何が起こったのかと目を白黒させていた。
この通用口での珍騒動の末、俺は越前南次郎とその一家に関わりを持つこととなったのだ。


――――――
真田ってほんと何でテニスしてんだろうアイツ。


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