27.I am there, but I was here.


走って辿り着いたとき、見上げた白いはずの壁が橙の色を反射していて、振り返ると夕方の光が目に差さって眩んだ。逸らしても今度は薄い紺碧の名残りが夕焼けを縁取っているのが見えて、折角ここまで一心不乱に駆けて来たのに戻りたくなってしまう。けれどぐっと歯を食いしばって両手を握り締め、弦一郎は前を睨んだ。目前のエントランスをくぐって、立ち止まることも振り返ることももうしないでひたすらに病院の中を歩き抜いた。階段をひとつひとつ強く踏みしめて、昇りきる。そして渡り廊下に出くわした。このときの一歩がいやに重たく感じたが、結局踏み出してしまうと体はどんどん先を急いだ。何か置き去りにしたような気持ちのまま、廊下の先のドアを押せばそこにいた仲間たちはいっせいに弦一郎を振り返った。
見渡した彼らの顔色は様々だった。幸村の手術はここへ来る途中もらった電話で成功したと聞いたから、悲嘆に暮れているという気配はない。それでもやはり悔しさ混じりの悲しさとか、悲しみ混じりの労わりとか、端の方にある集中治療室のドアを塞いで立っている奴にかけては猜疑心と怒りさえ見て取れる。そういうもの全てを弦一郎は当然だと分かっていて、はっきり言った。
「負けた、俺の責任だ。」
微かに息を呑む音がさあっと広がって、一番奥にいた雅治にまでそれが届くと、彼だけが驚愕の波を跳ね飛ばしてずかずかと弦一郎のもとまで歩いてくる。ぐっと詰め寄った目の前の大男は今日一日ですっかりくたびれたジャージの襟を掴み上げられても平然としていた。下唇を突き出して弦一郎を睨み上げる雅治は、側で止めに入ろうとする比呂士の声などもお構いなしに自分の不満を垂れ流す。
「…かっこええのう、真田。いっそ潔うもっと早くに負けとれば良かったんじゃないか。」
「仁王くん!」
「言いすぎだぜ、仁王。真田だって後からちゃんと…。」
あまりの言いようにぎょっとして比呂士とブン太が大声を張る。しかしそれを軽く挙げた片手で制止したのは弦一郎自身で、言葉を引っ込めざるを得なくなったブン太たちが戸惑っていると雅治の、今度は威勢のなくなった声がくぐもって続けた。
「分かっとる…だからムカつくんじゃ。最後の最後に筋通されちゃあ罵れん。分かっとる。」
だから、ともう一度繰り返して雅治は掴んでいた襟を放した。道を譲るように彼が弦一郎をかわして歩き去ろうとするので、弦一郎が目で追っていると、肩が擦れる瞬間に雅治はぽつんと愚痴を零した。
「だから、わしゃおんしが嫌いぜ…。」
項垂れた背中が遠ざかっていく。比呂士だけがその後を追って、後の者は黙って彼を見送った。普段がのらりくらりとしているだけあって雅治の激情は驚きでもあったし、だがどこか皆その気持ちが分かるような気がしていた。そのせいで弦一郎が病室に向かって歩き始めると本当に行くのか、と問いただす声が何処からともなく上がった。弦一郎はただ肩越しに振り返っただけで何も言わない。背筋は真っ直ぐで怯む気配は微塵もない。これが彼なりの誠意なのだ、と直に全員が知って、間もなく扉の向こうに消えた彼はまるで春になる前の彼そのもののようであった。

幾重にも体に繋がれた管が痛々しくて、唸って目を背けたくなった。しかしそれは薄情に過ぎる。覚悟して歩み寄ると薬の臭いが強かったが、人の気配を感じ取って横たわったままの幸村が薄く目を開いた。
「幸村…。」
声をかけると彼女の瞳が巡る。よく見えていないのかしばらくぼんやりと左右に振られていたが、やがて一点に止まると呼吸器のマスクの中で白い唇が彼の名前を象った。分かるか、と聞くと幸村はすぐに小さく頷いてほっとする。同時に、余計心が痛むが言わなければならないものは仕方がない。悔しさにひどい顰め面をした弦一郎の表情が、今では幸村の目でも捉えられて彼女は目を細めた。そしてゆっくり腕を動かすと力の篭った弦一郎の手に触れた。戸惑う彼の手のひらを自分に向けさせると、幸村は指でその広い腹をくすぐるようになぞり始めた。文字を書いている。そう気がついて弦一郎が手のひらの感覚に集中すると、それが何もかも分かった上での労いの四文字で、急速に後ろめたさが弦一郎を襲った。
あれは土俵の違う戦いだった。情に流された浅はかな決意で仲間を、幸村を、何より自分を裏切っていた。そして曇った心のままでいたら、一番大切に想うあの子まで結局苦しめた。
そのときあの会場で国光の声が、百を越える瞳が弦一郎に問いかけた。
お前は何者だ。
居るべき場所は、あるべき己の姿は、結局は自分を培ったところに他ならない。信念を曲げてはいけない。今日の負けはそれを忘れていた報いに違いないのだ。
それに、と弦一郎は思って文字を書ききった幸村の細い手をぎゅっと握り締めた。その力強さに驚いて目を見開き、幸村の顔はほのかに上気した。弦一郎の目には、手術を終えたばかりの青ざめた顔にしか見えなかったが、彼は表情を緩め、悲しさを紛れ込ませた微笑を彼女に向けた。
「俺は、ここにいる。」
決意と言うよりは諦めに近い声だった。幸村はその言葉をそのままに受け取って嬉しさに涙を零したが、弦一郎は流れていくそれを虚ろに見守って生温い優しさを晒していた。
いつだって守りきれるものはないし、二つを望んでも手に入るのはひとつきりなのだ。

三周目、と呟いてリョーマはまた指をひとつ立てた。辺りは前ここに来たときより陽が落ちるのが遅くまだ割りと明るいが、目の前に煌々とした電光があるので自然のそれに対する実感は薄い。今何時なのだろう。会場から出てきてここまでは夢中で来たし、夢中だったから携帯はサイドバッグの中に入れっぱなしで置いてきてしまった。確かここの観覧車は一周するのに20分かかるらしいから、とりあえずここに来てから一時間は経ったということになる。しかし、別段時間がどうということはない。リョーマが指を立てて観覧車の周数を数えているのは単なる暇つぶしだ。約束も確証もない、ひょっとしたら最後までひとりぼっちかもしれない待ち合わせの途中。階段の端に陣取って人の往来を眺めて、ときどきその人達にこっそり見られて、迷子かと二、三度聞かれたので白けた目で違います、とその都度返した。その返事をするたびに、多分だけど、と付け加えたくなってきゅうに悲しくなるから何度も放っておいてほしくてたまらなくなった。
ねえ、早く。早く来て。暗いところにひとりぼっちは一番嫌いなの。
膝に顔半分を埋めて、その膝にぎゅっと両腕を回して小さくなる。ただでさえ小さい体をこんなにしては、まるでけしつぶみたいだ。そして今にも消え入りそうな観覧車の向こうの青空のように、あっと思った瞬間に儚くも見えなくなってしまうんじゃないだろうか。せめて前みたいに、あの空が見えなくなるときには抱きしめていてほしい。ふたりなら怖くないから。
あの頃はまだ小さな肩だった。それでも自分には大きくて温かくて優しくて、壊れそうなくらい込められた力で逆にばらばらになりそうだったものを繋ぎとめてもらった。あのときからだ。溢れかえる感謝の洪水の中で幸せに溺れながら、もう大丈夫、といつでも言える自分でいようと決めた。
感謝している。大好き。あの頃はよく分からなかったけど、今思うと愛してた。だから辛いことは全部忘れて、どうかまっさらなあなたで生きていって。
そしてアタシは。

「リョーマ!」
揺れた視界に初めて見えたのは五周目を数えたところで開きっぱなしになったまま枝垂れた自分の手。顔を上げるとあのときと同じような不安の表情と、続けて安堵の色。読み取れたけれど前鍔の奥の表情は分かりづらい。垂れていた腕を緩慢に持ち上げて、呆然とその手の動きを目で追う彼をくすりと笑った。そのまま前鍔を掴んでぐるりと後ろに回してやれば昔みたいに分かりやすい顔が現れた。
「…遅いよ、弦ちゃん。」
伸ばした腕を首に絡めて大きな体を引き寄せた。ああ、なんて我が侭。なんて欲張り。大丈夫と言ったって、結局この温もりは捨てられない。
そしてアタシは忘れたけど、俺はまたあなたのもとに帰ってきた。
「好き。大好きだよ、弦一郎さん。」
こうはっきり言うと、ずっと迷った空気を湛えていた弦一郎がひくりと反応して途端にぎゅっと抱きしめ返してきた。
結局情に流されやすいのは、本当は根っこのところが優しいから。知ってるよ、そういうところも大好きだから。
一瞬の本音、あとは全部嘘でいいから。

公然と別れを告げておいて今更何をしているんだろう、と弦一郎は自分を漫然と叱咤してみるけれど回した腕をほどく気はさらさら湧いてこない。何故リョーマがあんな呼び方をしてきたのか、不思議でならない。けれどそれよりも、病院からの帰りに何とはなしに立ち寄ってしまったここに、まさかこの子もいるとは思っていなかった。おまけに階段のところで蹲っているから具合でも悪いのかとひどく心配した。結局眠っていただけのようだったが、暗いところでひとりぼっちの姿を見たときに感じた、全身を貫くような恐怖は弦一郎をリョーマのもとへ走らせた。彼女への仕打ちに罪悪感は募っていたが、それとはまた違う怖さだった。まるで使命感のようにそれは激しくて、弦一郎の存在すら根底から覆すのではないかというほどのものに思える。
何かがおかしい。この感覚と感情は、ただリョーマを好きだからというだけではないのではないか。いや、根源は彼女への想いかもしれないが、それだけが理由になるとは考えにくい激情だ。まさか、とは思っていたけれど今ではひょっとして、と思考が移り変わっていく。
腕の中のリョーマが急に震えた。次第にしゃくりあげる声が大きくなってきて、止まりそうもない勢いによほど堪えていたのだろうということが知れた。慰めるつもりで頭を撫でていたら、まるで幼子にしているようで少しおかしさが込み上げる。
「弦、ちゃん…。」
そのおかしさが不意に引っ込んだ。いつもは気だるそうでもはっきり喋る声が、今は何だかわずかでも舌足らずだ。これでは笑えない、と弦一郎が半ば焦ってリョーマを引き離そうとすると、突然いやいやと言うように首を振ってリョーマはもっとぎゅっと弦一郎にしがみついて離れない。それに懐かしさを覚える分だけ冷や汗が流れた。やっぱりそうなのだろうか。上がる一方の心拍が体の奥底から何かを込みあがらせてくる。
ずっと昔に置き去りにした思い出と記憶。きつい日差しと涼しい木陰の中で、あの日もお前は泣きじゃくってはいなかったろうか。
「…ひとりに、しない、でっ…おいてっちゃ、やだぁ…!」
そうだ。
そうやって同じことを言ってひどく俺を困らせていた。
今も昔も、お前はいつも我が侭で、ときどき鬱陶しい。けれど寂しそうに潤む目が悔しいがかわいくて、必ず放っておけなくなる。
女って言うのはそういうところがずるい。でもずるいと思うから余計愛しい。
そうか。
あの頃から、もう俺はずっとお前が好きなのか。

あんな子供の頃から、ずっと。

――――――
次回から少し過去話。

[ 27/68 ]

*prev next#
[back]