26.And he realizes she might be crazy.


全くもって、化け物同士の戦いであった。マッチポイントまで追い詰められたのにブレイク寸前まで盛り返すとはどれだけ常識というものを奴らは知らないのか。いまだ覚めやらぬ興奮と衝撃で、景吾は何度目かのため息をついた。
まさに頂上決戦、立海大付属中の真田弦一郎と、青春学園の手塚国光という好カードの実現をこの目で観ようと、わざわざ赴いたはよかったが、予想以上に濃かった試合内容に気分は少々酸欠気味だ。
とは言え途中まではひどくつまらない試合であったのもまた事実である。途中で帰ろうと何度思ったか知れない。一体あの抜け殻のようだった男に何が起こったのか。試合半ばで起こったあの騒動は、そして越前リョーマは、一体なんだったというのだろう。いや、まあ、予想がつかないわけではないのだが、そうだったら何とも馬鹿馬鹿しいことだ。傍目に観ているからそう思えるだけであって、もし想像通りのことがあの場で起こっていたのだったとしたら、自分を省くんじゃないと景吾は怒り狂うに違いない。そういう真実にはてんで気付かないで彼は今日も崇弘を引き連れて会場を優雅に練り歩いていた
「がふっ!」
はずだった。ところがどういうことか、十字路に出たところで横から何かに追突されて彼は激しくよろめいた。その衝撃で何か白いものがぽーんと宙を舞って、踏ん張った彼の目前では何かが同じようにふらついていた。頭をぶつけたのか、短い髪を掻き揚げるように額を擦っている。その小さな手を覆っているジャージの色や、昼過ぎの光にきらきら光る深い緑の髪で景吾にはそれが誰であるかピンと来た。同時に高鳴る胸を押さえて、向こうが顔を上げる前に慌てて平静を装った彼はいつも通り前髪をさっと払った。
「よお、越前じゃねーか。俺様にぶつかるとはいい度胸だ…。」
「うげ、跡部さんだ…。」
女にうげ、と言われた例などない。本当にどこまでも自分を舐めくさった奴だ、と怒りと喜びが入り混じる微妙な気持ちで景吾は顔を上げた彼女を睨み返した。
「……な、なんだその顔。」
しかしながら言い返す気はさっぱり失せた。うげ、などと言った割りに目の前にいる意中の越前リョーマという少女の顔はかなり悲しげに歪んでいる。次の瞬間泣き喚かれても不思議ではないほどだ。
景吾の質問に、別に、と素っ気なく返したリョーマはきょろきょろと辺りを見渡す。一見気丈だが、よく見れば体のあちこちが小刻みに震えていて、よほど何かを堪えているようだ。そんな珍しい姿にどぎまぎして、景吾がぼうっとリョーマを見ていると、彼の肩を指で突く人物がいた。
「跡部さん…これ…。」
振り返ると巨漢の崇弘がその大きな手でこじんまりした帽子を摘んでいた。白いが、使い古してくたびれかけているそれを受け取って、景吾は依然として周囲をうろうろしているリョーマに合点がいった。
「おい。これかよ、探し物は。」
ぴくん、と反応して景吾を振り返ったリョーマは彼の手中にある目当てのものを見ると、慌てたように飛び掛ってきた。そのせいで咄嗟に景吾は彼女をかわしてしまったが、負けじとまた飛び跳ねてくる様子が面白い。というか可愛くて、優越に浸った彼はついニヤニヤしながらしばらく帽子を高いところにかざし続けた。
「何頑張っちゃってんの。テメーの宝物か、こんな汚ぇ帽子が。」
「う、っさい!子供のっ、ころっ、から、被ってんだ、から、あ、たり、まえっ、じゃんっ!」
景吾が右へやれば右へ、左へやれば左へ、思い通りに飛び跳ねるリョーマが楽しくてたまらない。ご満悦の景吾は何気なく高いところに持っていったリョーマの「宝物」とやらに目をやった。と、その鍔の裏側にかすれているが、確かに読める文字を見つけ、彼はそれに見入る。その頃地上でぜえはあ息を荒げたリョーマは腹立たしい景吾の態度に業を煮やし、ついには彼の気を抜いているところを見つけると、走りこんでその膝裏に蹴りを一発見舞ってやった。それは強烈な、所謂膝カックンというやつだ。
「のわっ!」
当然膝を抜かれて転びそうになる彼を、さっと後ろに回って助けたのは崇弘だった。しかし助かった景吾の手からはもう帽子は消えており、すぐ側ではそれを奪い返し、景吾に向かって、ばーか、と勝ち誇った顔をしてみせるリョーマがいた。一変して全然可愛くない。ふと、何で自分はこんな女好きなんだろうか、とまで考えてしまった。それはともかく、崇弘に礼を言って立ち上がると、あの前鍔のことを思い出した。ツンとすまして帽子の埃を叩いて払うリョーマに、景吾は再び声をかけた。
「おい、越前。」
「…まだ何か用ッスか。」
心底嫌そうな顔をされて地味にショックだが、負けてなるものか、と景吾は無理矢理クールな笑みを浮かべた。
「どうでもいいんだがよ、何でテメェが真田の帽子持ってやがんだ。」
しばらく沈黙が流れた。それから景吾の言ったことが分からない、という不満たらたらな表情を浮かべ、リョーマが、はあ?とキツイ調子で聞き返した。
「これのどこが弦い…。」
「あ?」
「…真田さんの帽子に見えるっていうんだよ、馬鹿じゃん。」
何か言いかけて、ほんの僅かな間だけリョーマが切なそうな顔をした。しかしすぐ憎まれ口を叩くので、深く追及はせず景吾は訳を話した。
「そりゃテメェの方だろ。その帽子ひっくり返せば分かんだろーが。」
「ひっくり返す?」
怪訝そうにも言われたとおりリョーマはまだ手に持っていたそれを裏返した。頭の収まる部分と、鍔の裏側。どちらも白いきりで他に珍しいものなど何一つ無い。やれやれといった様子で景吾は彼女に歩み寄り、鍔の外側の淵を指差した。
「ほら、ここだよ。」
リョーマは彼の指先を見つめた。睨んで、目を擦り、薄目になってまで指されたところをためつすがめつしたものの、結局は首を傾げた。その手応えのなさに、景吾も首を傾げる。越前リョーマの目が悪いはずはない。それどころか常人離れした動体視力まで持っているのだ。それだけ立派な目でこの程度の古い字が見えないはずは無い。しかし彼女ははっきり景吾に向かって尋ねた。
「…ねえ、どこにそんなの書いてんの。」
大きくて曇りの無い瞳が、一種狂気染みて見えて景吾は息を詰めた。きょとんとした幼い顔は無反応な景吾をつまらなく思ったのか、また帽子の鍔を見つめる。そして景吾がそこにある違和感に気がついたのは、帽子を被ってしまった彼女が先へ歩き始めたばかりのときだった。
「…どういう『嘘』だ、そりゃ…。」
多分、彼女には景吾の指摘したものが「見えていた」はずだ。間違いない。しかし彼女自身は「見えている」と認識していない。そうでなければ、景吾が何も言わないのに「それ」が「書いてある」と言えるわけがないのだ。
「跡部さん…。」
心配そうに崇弘が声をかけた。はっとして景吾は崇弘を振り返り、何でもない、と笑いかけたが、崇弘はずっと景吾から目を離さない。それもそうだ、彼には嘘が通じたことはない。怖いやつだな、とすぐ観念して景吾は会場の出口へ足を向けた。
「行くぞ、樺地。…あの女のこと、ちょっとばかり調べるぜ。」
「…ウス。」
景吾が素直に思うところを言ってやると、納得したように崇弘は彼の後を追って歩き始めた。


――――――
色々頑張れべさま。

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