25.Even if you go along your way with someone else, I will love you.


干上がるほど強く照らす太陽のせいで、その乾いた音が綺麗に四方へ飛び散った。駆けつけかけていた青学のメンバーや顧問のスミレ、審判でさえ思わず足を止めてしまう。目前では手を振り下ろして肩で息をする国光と、不自然に顔を背けたままのリョーマがいる。一瞬の出来事だったが、だんだん捩った体を元に戻しながら、頬を押さえて国光を見つめ始めたリョーマの、その歪んだ表情を見れば何が起こったかは直に知れた。
そしてまた国光の後方でも、何が起こったかに気がついた彼がいた。最初こそ突然の出来事に目の前の光景を疑ったが、駆け寄った人々まで硬直しているのだから、たとえ国光の体躯で彼女の姿が見えなくても、きっと想像したとおりのことが起こってしまったのだろう。
当然と言うべきか、怒りが湧いた。みじめなまでに未練がましい感情には違いないが、感情に素直なのが常の彼にとって、特に怒りは簡単に押さえ込める類のものではない。自然と足が押し黙ったまま立ち尽くす国光の方へ向かう。このまま自分の歩を許せばすべてが台無しになるのかもしれない。しかしそういうことを考えるゆとりもこのときの彼にはあまりなくて、全てを焼き尽くすように熱を帯びる地面に怯えることも無く踏みしめた。
「どうして、こんなことをするんだ。」
虚を疲れたのかと思うくらい、震える手を持て余す国光の言葉が胸に刺さった。
リョーマは頬の痛みから何事か吐こうとしていたけれど、天上から降り注いだ矢のように逃げ場すら与えてくれない追及の声に何もかもを遮られてしまった。国光は見たこともないほど、一番リョーマが見たくない顔をしていた。
「どうしてお前は周りを見ない。後ろを振り返らない。現実を見ろ、お前を求めているのは誰だ。」
そう言われて首を巡らせたとき、見えたものは何だったろう。何十、いや、何百と近い瞳ではなかったろうか。その重さに、心が潰れるかと思った。
ふらり、とリョーマが立ち上がった。伏し目がちで、虚ろな顔をしていたが、もうどこに行く気も失せたようにただそこで呆然と立ち続ける姿を見て、国光はようやく手の震えをとめることが出来た。そして振り返って青学の仲間や審判に謝罪する。試合続行の意志を告げると審判がちら、とコートへ目配せした。国光が頷いて同じほうへ顔を向けると、彼は体こそこちらへ向けていたが、瞳は眩しそうに周囲ばかりを映していた。真田、と呼ぶとどういう訳か、少しだけ泣きそうな顔をして振り向かれた。
「すまなかった。だが試合を続けさせてほしい。」
頭を下げると、ややあって、いいだろう、という思ったより威勢のいい声が返ってきた。国光が顔を上げたときには、もう彼は背を向けていて、さっさとコートの中へ入っていくところだった。背に満ち出した気迫は以前の真田弦一郎のそれと同じもので、国光は微かな驚きを抱きながら自分も元の場所へと帰り始めた。

結局青学の応援席には戻れず、リョーマはそこで試合を最後まで見届けた。それはすごかった、のだと思う。何せ、「皇帝」はその名に相応しいほどに生き返っていたのだから。
青学はあと1ポイントというところまで迫っていた。ところが試合が再開するとさっきまでが嘘のように、どうしてかそれはなかなか決まらなくなってしまった。国光の球をひとつも零すまいとする彼の迫力はたまげたものだった。圧倒的な力とスピードがあの国光すらもどんどん追い込んでいく。あと1ポイントだ、という気持ちが青学の生徒たちの中でどんどん不安にその姿を変えていく。ついには、「皇帝」がブレイク寸前まで持ち込んだのだから、歓喜と絶望の立ち位置はすっかり入れ替わってしまった。
大いに沸き立つ立海大側の席で、リョーマはうつせみの身も世もまるでなくなってしまったような心地で一部始終を眺める。ずっと見つめていた彼は最早ひとりの「皇帝」に過ぎず、何のために戦っているのか、聞かなくても分かってしまいそうだった。だから試合終了の声がかかって、辛うじて青学の勝利が分かった頃には、もうリョーマは両手で顔を覆ってしまっていた。何も見たくない、こんな顔も見られたくない。ただ時が、全てが、本当は何事もなかったのだと言って過ぎてくれないか。そんな夢を見ていたい。
しかし彼の足音は誰に対しても無情だ。体の側に火照った風を感じて、ひくついたリョーマが顔を上げる。左方では青学の歓声が渦巻き、いっそ狂気のようにリョーマを脅かす。奥歯がかちかちと鳴るくらい震えてしまって、すぐ脇でそびえ立つ彼に思わず手を伸ばしかけた。昨日までなら、この手をすぐ取って支えてくれただろうに。
おびただしい汗を拭うこともせず、真っ直ぐリョーマを睨み下ろした彼が言った。
「さよなら、だ。…越前。」
吹っ切れたような言葉の通り、立ち去っていく彼の足音もまた重くはなかった。それが赤の他人の足音なんだ、と分かると指先まで凍ったように寒くて、勝手に涙が溢れようとする。思わず口許を押さえたら、後ろから声がかかった。
「越前。」
振り返らなくても分かる、部長だ。もう棘もなく優しい声だから、きっと帰って来いと、俺の元へ来いと、そういう残酷なことをこの人は言おうとしているのだろう。
あまりに寄りかかるものがなくて、一瞬、それもいいのだろうかと思ってしまった。振り返って、この人の前で泣いて、ざわついていても自分を心配しているような声を漏らしている温かな人々の中で、今まで通りに過ごしたら何て楽、何て幸せ。
靴が地面を擦る。少しずつ振り向こうとしている自分がそこにいて、考えることを放棄し始めるリョーマの頭は空っぽだ。首を傾けると差し出された国光の手が見えた。節の目立たない、綺麗な手をしていた。滑らかそうなその手はきっと同じような感触で優しい。
でも、違う。
靴音が止んだ。国光もその微妙な変化を悟ったのか、もう一度リョーマの名を呼ぶ。
でも違う、そうじゃないの。弱弱しく首を振ってリョーマは涙を堪えた。
涙を流すさまを見せることが許せるのは、差し出してほしい優しさは、自分がほしいのは、もっと無骨なものなのだ。
苦しい道だと分かっている。選べば、捨てなければいけないものがたくさんあると知っている。いや、今気がついた。それを知らずに突っ走っていた自分の愚かさをやっと理解したのだ。
理由なんてどうでもいい、ただこの感情があればいい。そう思っていたけれど、今一番知りたいのは彼の理由だ。覚悟を決めたって、どんなに立ち向かっても今の彼には通じやしない。だから感情は立ち向かう準備をする心の糧にしよう。折れないように、負けないように。
「…部長。」
背中を向けたままリョーマは声を出した。国光は差し出した手を徐々に引っ込める。もうそれを振り上げる気にはならなかった。小さな体には不釣合いなくらい大きな決意がそこに見えて、だから今度叱りつけたら馬鹿なのは自分の方になってしまう。でも出来ることなら聞きたくない。彼女をここに縛り付けておきたい。浅はかだ、でもこれが感情か。さっきまでのリョーマの気持ちが今更理解できて、その止め難さに恐れさえ覚えた。
「好きだ。」
せり上がった声が零れたのは初めての経験だった。いつも言葉は慎重に選ぶ。出来るだけ正しく、それでいて不要なことは言わないように心がけているのに、今のは完璧な失言で、最も言いたかったことだ。ほんのちょっと、それにリョーマの肩が震えてくれた。届いたのだろうか、振り返ってくれないだろうか。淡い期待に体が前のめる。しかしながら震えは一瞬のことで、首をもたげたリョーマは浅く息を吐いた。
「…ありがとう、ございます。それと、色々、ごめんなさい。」
詰まった声だったから泣く寸前だったのだろう。それを見せることも許さないで小走りに立ち去っていく後ろ姿は、透明な壁に遮られて追うことができない。あっという間に見えなくなったリョーマはまるで引力に導かれたようだった。彼らの理由を深くは知らない。けれど、どんなにあがいても自分が割り込む隙なんてもうとっくにないのだろうか。薄々分かっていても諦めたくない。そう、諦めは悪いほうだ。みっともない、けれど諦めたら終わりなのだから。差し出すはずだった手をぎゅっと握って、国光はひとり振り返った。何も言わず居なくなってしまったリョーマを案じて、戸惑う仲間たちを、彼女のために偽らなければならなかった。

――――――
一番KYで鬼畜なのは、実は私というアレ…。


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