24.Never betray me trusting you so much anymore.


どうしてこんなことになったのだろう。誰もそのわけなど分からなくて、どうすればいいのかすら思いつかない。すっかり声援が消え失せたせいで、季節を教える蝉の声だけが会場を包んでいた。
その中で、事実がぽつりと呟かれた。
「マッチポイント…。」
青学側のスタンドで、固唾を呑んでそう言ったのは貞治だった。その声にはっとなって振り返ったのは武で、彼は先輩の言葉を理解するために一度大きく頷いて、慌てて正面を向くと叫んだ。
「すげーな…すげーよ、さすが手塚部長だぜ!」
はっきり上向いた一声でやっと全体に活気が戻ったようだった。すぐに青学の旗は大きくはためき、外野の掛け声も少しずつ増していく。息を吹き返したかのような応援を受ける中心で、国光はぎゅっとボールを握り締めていた。
何と虚しい心地か。
自分へのエールが、その実、誰一人釈然としないまま、ただ送っているだけのものであると、国光も、部員たちも、いや、いっそ会場中の全員が本当は分かっているはずだ。そしてこのまま得られるはずの勝利が、やはり少しも嬉しいものではないことも自ずと分かる。
国光は顔を上げてコートの向かい側を睨んだ。そこに立ち尽くすのはあの「皇帝」の、ただの亡骸だ。
わっと声を張り上げたあと、英二はふと表情を落ち着かせた。どうにも気分が乗らない。
「…なんか、さ。つまんねーの。」
あとたったの1ポイントで青学の勝利が待っているのは分かっている。けれど勝利の快感とは善戦を尽くした上で得られるものであって、そうするとこの試合は甚だしく不完全燃焼だ。
英二がそう言ってしまうと、レギュラーたちの上っ面の声が静まった。みんな一様に苦い顔をする。英二の気持ちなら言わずとも誰もが分かるのだ。それでも出てしまった言葉は取り返せない。結局引き継ぐように武が答えた。
「確かに…。うちのこと舐めてるっつってもあれは…。」
武が苦笑いで軽く言い放つと、真後ろで試合の成り行きを睨んでいた薫が武の襟首を掴んだ。
「んなわけあるか。あの立海大だぞ、格下だろうがぶっ潰してくるのが筋だろ。」
「だったらこの試合、テメーはどう説明すんだよ!」
薫のジャージの襟を掴み返して武が叫ぶ。ふたりの一触即発のにらみ合いが始まって、すぐ仲裁に秀一郎が入ったが、部員たちの間に募っている不満はそこかしこで漏れ出していく。
「調子が悪い、というには、変だよね。彼。」
ミスというほどのことはしないが、決定打と呼べるショットのひとつもなかった。白熱の片鱗もなかった戦いを思い返して周助が零した。
「火がついたか、って思ったら急に止まっちゃうしな。」
巨大なフラッグを降ろしかけながら、隆も残念そうに言う。時折挑発的な視線と打球で誘う国光に答えるように、一瞬盛り返しても見せるのだが、やはりすぐ、その火は燻って彼の攻撃は最後まで成されない。
「あれじゃ、まるで初めから戦う気がないみたい…。」
最後に英二がはっきりと敵の将の姿を言い表してしまった瞬間、ずっと客席とコートの仕切り壁に張り付いていた小さな体が大きく震えた。
「そんなこと、ない…。」
「ん?なんか言ったか、越前。」
脇に立っていた武の耳にその声は辛うじて届き、彼はさっとリョーマの顔を覗きこんだ。深く俯いていたために表情はほとんど分からなかった。けれど力の篭った肩がふるふると震えていて、驚いた武が彼女の背中を擦ってやろうとした。それと同時に会場がしん、として、武がちらりとコートに目を向ければ、国光が最後になるだろう一球を天高く放ったところだった。
「…勝って!」
静まり返っていた場によく響く声だった。国光は、咄嗟に放り投げたそれをもう一度手で掴んでしまい、愕然として自軍の応援席を振り返った。
信じられない、という顔の部員たちに見つめられるその中心に、壁に縋ったままぐっと俯く彼女がいた。国光には分かっていた。今のが切実な願いで、決して自分に向けられたものではないのだということが。
それでも彼女がそこにいれば良かった。それならせめて部員たちには誤解されたままで済む。このタイミングで大声を上げるのは非常識だとしても、まだ許される範疇だ。
だから、どうか、嘘でいいからそこにいてくれ。
自分の心をないがしろにしてでもそう祈った彼の思いを、リョーマが汲み取ることはとうとうなかった。
我慢ができなかったのだろう。心も体も、リョーマはまだ子供で、壁を弾き飛ばすように体を起こした彼女は、国光にも、青学の仲間たちにも背を向けて走り出してしまった。失望で国光の手からラケットが滑り落ちる。そして彼もまた駆け出した。私情と志が混ざってもう区別なんてつかない。けれどどちらにせよ国光の中で、今彼を突き動かす思いは同じことを言っていた。

ざわめきが激しい波のようにコートの周囲を取り巻いている。その中をもがくように、掻き分けるようにして客席を駆け抜けてくる青学の一等小さいジャージを、彼は同じところに立ち尽くしたまま見つめていた。傍目には冷静なように見えるだろうか。そんなことを思うということは、つまり自分はひどく動揺しているのだろう。汗が一筋、二筋と垂れていく首の、その皮膚の下で流れる血の激しさを、頭が痛むほどに感じる。目の前で起こっている信じ難い現実の持つ、その魅惑と悲しさに眩暈がした。
再びリョーマが掴んだ仕切りの壁は、今は誰もいない立海大側の応援席のものだった。その周囲にあるフェンスの向こうでは、彼と同じジャージに身を包んだ群集が呆気にとられてリョーマを見つめている。彼らから見れば、青と白で彩られた衣装を身にまとうリョーマは異質で、どうしても抵抗感を覚えてしまう存在だ。リョーマにもそれは分かっていた。ちくちくと全身を突いてまわる鬱陶しい視線の山は針のむしろのようで、意識しないではいられない。けれどそんなことどころではない。それが彼女を駆り立てる心境だ。
どうしてこんなことになったのかはリョーマにこそ分からない。確かに昨日約束をした。彼は簡単に約束を破る人じゃないから、こんなことになったのには絶対に、相当の理由があるはずだ。そこまで思いやっているのに。リョーマは壁に縋って荒い息を零しながら自嘲した。たとえその理由を彼にかなぐり捨てさせることになっても守ってほしい、これはそういう約束なのだ。だから自分はやっぱり我が侭。
息が苦しくて咳き込んでしまうと涙が出た。それもぼたぼたと落ちてコンクリートの地面にワントーン色の落ちた染みがどんどん出来上がっていく。泣きすぎだ。一瞬、くしゃりとひとりで笑い、ごめん、と喘ぐとリョーマは精一杯体をコートの方へ傾け、声を上げた。
「勝って!勝ってよ、ねえ!お願いだから…だって、こんな、こんなに…。」
激しく振り乱したせいでトレードマークの帽子が飛び、ぱさり、と乾いた音を立ててコート側の地面に落ちた。
言いたい一言にくっと喉が詰まる。辛うじて顔は上げたままにしていられたが、涙で視界が利かない。薄ぼんやりして揺らめく背の高い影を見失わないようにするだけで、もう限界に近い気がしても堪えなくてはいけないと心の奥で幼い自分が懸命に訴えている。もう二度と、自分から諦めてはいけないんだ。そうあの子が言っている。だから。

こんなにあなたを信じてる私を、二度も裏切らないで。

手を伸ばして息を吸う。
瞬間、飛び込んできた影で彼が見えなくなった。目線を上に向けたあと、リョーマは呟いた。
「何で、また…。」
ひどく息を乱す、目の前の国光の振り上げた手がヒュッ、と風をきった。

――――――
荒ぶる手塚。


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