23.Wandering to find his way out, he goes foward the match.


炎天下になることが容易く予想されるほど熱を帯びた関東大会決勝の早朝、その日一番に公表される決勝戦のオーダーを誰よりも緊張した面持ちで待っていたのはリョーマだった。あまりに表情が硬かったせいか、英二や武に心配する必要はないだろうにと笑われた。もちろん女であるリョーマに今日の試合が直接関係することはない。けれどからかわれたことに膨れっ面でリョーマは答えた。鬱陶しい先輩たちの手を払いのけ、彼女はすっかりへそを曲げて帽子の鍔を握りこむと、ぷい、と青学の人だかりに背を向けた。ちょどそのとき、既に茹だるような暑さを持とうとするよどんだ空気の中を顧問のスミレが放つ厳ついほどの声が突き抜け、同時にリョーマが睨んでいた道のずっと先にやや黄色がかった黄土色のジャージを着込んだ一群が圧倒的な存在感で現れ始めた。
「そしてシングルス1は…。」
オーダーの最後を読み上げようとして目配せをしたスミレは肩透かしを食らった。その驚きさえ表れた顔に思わず青学レギュラー陣もスミレの視線の先を追い、同じように口をあんぐり開けてしまった。
リョーマはただ遠くに見えた立海大の面々の中に黒い帽子の、一番体も出来上がった少年を見つけただけだった。そしてまた向こうにいる彼もこちらに気付いた様子だったから、わずかばかり歩み出て、ほんの少し赤らんだ頬で微笑み、向こうに分かる程度に小さく手を振った。
けれど彼がつれなく目を逸らしてしまったのと、後ろから目元を押さえ込まれたのはどっちが先だったろう。
青学のメンバーたちが見たのは、まるで背後からリョーマを抱きしめているような国光の後姿だった。それも彼にしては珍しいくらい慌てた様子で、乱暴なほどだった動作にリョーマの体はほとんど国光に寄りかかるようになっていた。
そこは決して暗闇の世界ではなく、指の隙間から赤く透けて漏れてくる光に、人の手で視界を奪われたのがはっきりと分かった。リョーマの奥歯は小さくカチカチと鳴り始めた。急に起こったくせに震えが止まらない。怖い、やめて、放して、助けて。頭の中で飛び交う言葉は明らがなのに体が動かない。まるで呪われているように、強張った体は微動だにしないのだ。リョーマはまた目の前の赤い光に意識を向けた。涙が出そうになる。一瞬前までいたのに、どうして彼の姿を自分に拝ませてくれないのだろう。分かれたのはほんの少し前のことなのに、こんな手のひらひとつで恐ろしく遠い。
どうして、どうして、いつも「私たち」は引き離されるの。
「何を、見ているんだ、越前。」
心なしか感情に押されて震えているような声がした。部長だ。そう分かるとリョーマははっとして目元に張り付く彼の手を無理矢理引き剥がしにかかった。国光の手にはかなり力が篭っていて、苦戦したもののその手の呪縛から逃れると、リョーマは直接の日差しに負けそうな目を必死にこじ開けて見失った先を探ったが、もう立海大の一団は影も形もない。落胆のため息を零すと、ざり、と背後で詰め寄る足音がした。イラついたリョーマがキッと睨み返すと、国光の、どうやら怒ったらしい表情が待ち構えていた。そこではいつもの部長としての威厳を湛えた怒りではない、手塚国光という少年ひとりの苦悶がじっとリョーマを見下ろしていて、途端にギクリとしてリョーマは後ずさった。
実を言えばこういう瞬間が、近頃頻繁にあって、そしてリョーマはその瞬間がたまらなく苦手だ。その顔も感情も、ひどく誰かに似ているのだ。同じように真っ直ぐで、不器用で、そのくせ優しさを模索し続けてはそれをリョーマへ施そうとする、国光もそういう類の人間らしい。そんな顔をされては、それに弱いリョーマにはどうすることも出来なくなってしまう、そんな敗北感が嫌で仕様がない。やめてよ、と蚊の鳴くような声で零した。
「あー…手塚よ、いいかい?」
国光が少しばかり戸惑ったように振り向けば、赤い顔をして気まずそうに方々へ俯くレギュラー陣と、その奥でこれまた困った顔で、しかしどこか楽しそうにオーダー表で顔半分を隠すスミレがいた。一様の反応の意味がよく分からないまま、国光がはい、と答えると、スミレの顔はすっといつものように戻って、ため息をついたあと大声を張った。
「シングルス1は手塚!立海大は間違いなく大将格の真田くんで来るだろう、任せたよ!」
彼女の威勢のよい声に気を取り直したレギュラーたちが国光に視線を注いだ。それを全て受け止め、国光は部長の顔をして力強く頷いた。
すぐさまワッと活気付く少年たちが円陣を組み、王者と呼ばれる強敵への挑戦に士気を高める。その腹の底まで響く、強く重い歓声をリョーマはひとり背中で受けていた。それから解けた円から次々とリョーマの側を通り過ぎていく先輩たちの背中を泣きそうな目で見つめた。羨ましかった。彼らはみんなひどく呑気で自由に思える。リョーマの心の内なんて知らないで、目の前の好敵手と競り合うことに自分の全てを賭けて行くのだ。そんな彼らがリョーマはすごく好きで、同時に顔も見たくないといつも感じている。どうか輝いていて、でも傍にいて。伸ばせば届きそうなのに、と試しに弱弱しく左腕を歩き出した彼らの背に向けて突き出そうとした。
「越前。」
はっとして手を引っ込め、リョーマが右隣を見上げると横に並んだ国光が軽く首だけ傾けて彼女を見下ろしていた。彼はまるでリョーマの心を見透かしたような言葉を発した。
「お前は青学の越前リョーマだ。気後れするな。皆お前を待ってる。」
そう言って国光が前を指差すので、目で追えば確かに幾人もが向こうで大手を振ってリョーマと国光を呼んでいる。確かにそれはリョーマの心を宥めるような光景だったが、リョーマの中では何かが明らかに高揚しきらない。はぐらかされたような気分がして、リョーマはつい歩き始めたばかりの国光を呼び止めた。
「…部長、だったらさっきみたいなの、やめてください。嫌なんスけど…。」
「怖がらせたのならすまない。」
「そうじゃなくって…!」
立ち止まった国光へさらに抗議しようとしたが無駄だった。彼はさっさと謝るとまた歩き出してしまって、リョーマはぽつんとその場に残されてしまった。けれど置いていかれるとそれはそれでせいせいした。どうせこの人は置いていくんだ、と妙な安心感が湧いたのだ。遠くからおチビちゃん、とか、越前、とか間延びした声で呼びかけてくるのはただの友情に過ぎないが、ともかく国光については今はそれで片付けておこう。それよりもこれから試合が始まるのだ。大事な試合、それが終わったら待ってる人がいるからいいもん、とリョーマはフンと鼻を鳴らしてズボンのポケットに手を突っ込んだ。一歩踏み出すと不意にさっき弦一郎が目をそらしたのではないか、という疑問が舞い戻ってきたが、何せ国光が妙なことをしてきてくれたのだ。それを気にしたか、あるいは気のせいだろう、と軽くあしらってリョーマはどんどん熱く、騒がしくなっていく道を駆け抜けていった。

陽炎で揺らぐ景色に目だけでも暑さを感じた。朝から晴れっぱなしの今日はきっと灼熱の一日なのだろうけれど、幸村の知っている人々の中に、そういうもののせいでやる気をそがれるような普通のものは思い当たらない。そして今の立海大の部員たちはいっそ幸村のために戦っていると言ってもいいはずだ。だからこそみんな一丸となって今日という日に挑んでいる。
それなのに、と今更悔やんでもどうにもならないことで、幸村は歯噛みした。最近、ずっと悩んでいる。立海大の部長としての自分と、ただの少女としての自分、どちらかが立てばどちらかが立たない。自分は一体何者になればいいのだろう。志と感情がせめぎあって、たくさんの信頼に応え切れないでいつも終わる自分が一番憎い。だけど反対に自分を可愛いと思うのも、人としてまた仕方のないことで、だからどんどん「あの子」が嫌いになる。全部お前のせいだ、と思い至って、そして何てことを考えているのか、と気がついてまた堂々巡りをする。気が触れそうだった。
「幸村さん。」
ノックに気付かなかった。けれど看護師の声は穏やかで、驚くことはなかった。顔を上げると自分の担当の女性で、幸村は一度部屋の時計を見てから、はい、と返事をして立ち上がった。

ストレッチャーの車輪の音はいつもうるさいと感じる。そんなに急いでどこに行くの、と霞む頭で馬鹿なことを考えていると、今日は自分の後を追う足音がたくさん聞こえて、やがて車輪の音がやんだ。
「幸村!」
ぼんやり目を開けると天井よりも手前に人影がたくさんいた。大勢に覗き込まれて何だか恥ずかしい。揃って荒い呼吸をする彼らの着ているものの色がだんだん分かってきて、幸村は小さく笑った。
「みんな…。」
「幸村、頑張れよ。俺たち、ここにいるからな。」
優しい表情でジャッカルがそう言った。自由の利かなくなっている首を必死に巡らして全員の顔を見渡す。少し泣きそうな顔で無理矢理笑う赤也、心配させまいと明るい顔をしているブン太、同じような気持ちで冷静さを見せる比呂士と蓮二、ストレッチャーのすぐ脇でいつになく真剣な眼差しで見つめてくる雅治。そして労わるような表情のジャッカルに視線を戻すと、幸村はぼんやりとしながらも尋ねた。
「真田は…?」
「まだ試合中じゃ。」
即座に雅治が答えた。彼の方を見ると決して浮いた顔ではなく、やっぱりな、と思って幸村は目を瞑りかけた。
「でも、ここにいるぜ。」
そう言ったジャッカルがばさり、と手で大きなものをかざした。それは昼のきつい光から薄い闇で幸村を守るようにはためき、それを持たせた彼を古臭い奴、とおかしく思う反面、彼らしさが感じられて本当に嬉しいものだった。幸村はジャッカルの手の中でまだ揺れるジャージに向けてもう一度だけ微笑んだ。
再び車輪が回り出す。遠くなっていく親しい面々を最後まで見つめていた。扉の閉まる直前、幸村はもう声も出なくなってきたが、ひっそり、ごめんね、と呟いた。

「副部長、勝ちますよね?」
手術室の前で立ち並んだ内のひとりが言った。そして全員がその一言に知らず知らず息を詰めてしまった。しばらくして赤也がすいません、としおれた声で付け加える。
「いや、お前さんの言いたいことは分かるぜ。」
ポケットに両手を突っ込んで壁に背を預けたまま、雅治はそう返してやった。そしてお前たちもそう思うだろう、と言わずとも目を向ければ、確かにその場の少年たちは一様に浮かない顔をしていた。
幸村の手術に間に合うよう、他の部員を先に会場から出した弦一郎の様子が、どこかいつもとは違っていたのを雅治は思いだす。覇気がなかったわけでも、不安そうに見えたわけでもない。ただ彼には最初から戦意がない、そんなふうに感じられた。幸村に対する心配だってどこか上の空のことのようで、もう一回ブン殴ってやろうか、と思ったほどだ。
しかし軽々しい雰囲気ではなかった。彼には何か決心のようなものがあるようで、間に間に見せた思いつめた表情が印象的でさえあった。あの明け透けなはずの男が一体何を考えているのか。見えない暗闇がそのまま暗雲のようである。
ぎゅっとポケットの中の拳を握った。正直あまり彼を好きではないが、今はそんなことを言っている場合ではない。
頼むから勝ってくれよ。あの子のために勝ってくれ。
目を瞑って祈れば少しは届くだろうか。幸村に一目会いたかったからここまで駆けつけたものの、自分くらいはあの会場に残っているべきだったかもしれない、と雅治はかすかに後悔していた。もしも彼に迷いや苦しみがあったとして、それを強引に聞き出して解消してやればよかった。それさえ無ければ負けるかもしれない、などという不安を人に与える奴ではないのだ。
向かいにあるベンチに目をやると、ラジオに耳を傾けるジャッカルの表情が思わしくない。
「…どうしたんじゃ、真田。」
チッと舌打ちをして雅治は足元を睨んだ。病院の廊下はひどく冷えていて、どうしてだか凍えるほどの心地がした。

薄くなる意識が夢の中を虚ろに歩く。どうして今さっき、ごめんね、と自分は言ったのだったか。
暗闇が迫って昨日の夜を思い出す。
もう閉じた瞼の裏側にそのとき見た光が浮かんだ。

スタンドの明かりが灯るだけの室内は暗い。それでも霞む視界の中でその光は希望のように見えた。
「記憶喪失…?」
弦一郎の不思議そうに問い返す声が聞こえて、幸村の首筋がびくりとした。眠らせかけていた邪な感情が一気に浮上したのだ。駄目だと思っても心の奥底から湯水のように湧いてやまない願望が機会を窺って目を光らせている。あの夜、これを待ってそれまで話していたのだとしたら、自分も大概諦めの悪い女だ。でも。
「昔の、事件のあと、ショックでリョーマって子、事件のあったときのこととか、その頃の記憶をいくらか失くしてるって、君のこともやっぱり、忘れてるって…。」
口だけが意志を持って動いているようだった。すらすらと弦一郎に情報だけ与えて、あとは白々しく対応した。
「そんな、ことが…。」
「ごめん、真田はてっきり知ってると思って、私…。」
衝撃を受けた様子ではあったが、弦一郎はそれでも幸村が謝ることはないと宥めてくれた。本当に馬鹿な人、とそう思うと愛しさと冷ややかさが一緒に沸いて笑顔ともつかない微笑を幸村は浮かべた。
「ねえ、余計なことかもしれないんだけど…。」
「何だ。」
疑ってもいない眼差しで弦一郎が幸村を見た。このまま、ずっと自分を見ていればいいのだ。それがまさに自分の願望だ。
「あまり、『リョーマ』の側にいない方が、いいよ。」
「…それ、は、どういう…。」
言葉ひとつで戸惑うほどその女が大事なのか。気に食わなくて俯いた。
「だって、記憶喪失って忘れてるだけなんだろ?何かのきっかけで思い出すかもしれないってことじゃないか。そのきっかけが、もし君だったら…。」
傷つけるよ、彼女のこと。

しんと静まり返った病室には月明かりが差し始めていて、幸村の忠告はいっそ厳かなように聞こえた。一緒に思い出されたのはリョーマの強気だったり、悲しそうだったり、そしてはにかんで、勝ってね、と言って恥ずかしそうに名前を呼んでくれた、今しがた見たばかりの顔だった。側にいることが守ることだと思っていた。それが砂上の楼閣のように脆くも崩れ落ちていく。

声が出なかった。

――――――
アニメの展開拝借。


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