22.Her truth made his mind change tonight.


薄暗くなった部屋の端に置かれたベッドに腰掛け、幸村は虚ろな表情を浮かべていた。呼吸さえしていないのではないかと、自分で疑ってしまうくらい彼女は放心していて、打ちのめされている自分の心だけが痛いほど感じ取れた。
予期せず知る羽目になってしまった越前リョーマという少女のこと、弦一郎とその少女の関係とふたりの過去から今までの複雑な経緯。そのどちらもふたりの必然的な現在を感じさせる、幸村にはひどく堪える事実だった。けれども今、彼女がこうして絶望の淵でも覗き込むような悲しみを味わっているのは、むしろ自身の内側から出てきた感情のせいだった。
リョーマという少女に、同情しないことはない。同じ女であればこそ、余計にその心と体の両方に負ったであろう傷の深さも痛みも理解できる。幸村でさえそうなら、弦一郎のような熱血漢なら同情とは違う形でリョーマの苦しみを受け止めてしまうはずだ。それを想像すると、間違っていると思ってもたまらなく嫌だと思えた。
私からあの人を取らないで。絶え間なくそんなことを胸中叫んでは、自分は何て嫌なやつなんだと悲しくなる。何回も何回も繰り返し感情の波を彷徨っているうちに辺りは今ほど暗くなってしまい、けれど部屋に明かりを入れるような気分では決してない。このまま明日の朝までずっとこのまま、ひとりで苦しみ続けるんだ。ひょっとしたらその次の夜も朝も、これから先ずっとひとりぼっち。
幸村の膝にひとつ、ふたつと急に染みが現れた。あ、また泣いてる、と思ったらもっと涙が溢れてきた。半端にあんな話を聞いたせいだ。弦一郎を諦めたくない、でも諦めるべきだ。だってきっとふたりは惹かれあってるのに、それを引き裂くだなんて、そんな一番弦一郎を悲しませるようなことはできない。でも、そうしたら幸村の心が誰よりもみじめになるのだ。笑顔でさよならを言う自分なんて考えたくもないのに。
「嫌だよ…そんなの、私…真田…。」
せめて名前だけでも呼べば、彼の面影くらいには縋れるんじゃないのか。そんな淡い希望で幸村は呟いた。
「幸村…?」
それは確かに質量のある声で、静かだった部屋の空気をしっかり揺らした。ゆっくり顔を上げた幸村は、暗い部屋に差し込む光の中に人影を見た。肩幅のあるがっしりした体格で、滅法背が高いその影はさっさと駆け寄ってきて、部屋の暗いのを気にしたのかベッド脇のスタンドのスイッチを入れた。
「どうした、寝ていたのか……」
ぼうっと部屋を照らし出し始めた明かりで色と陰影を取り戻したそこに、弦一郎がいた。幸村は声にこそ出さなかったが口では嘘、とかたどった。来ないものだと決め付けていた人が目の前にいるとそんなふうにしか心境を表す術がない。だから呆然としていると、同じように光ではっきりした幸村の顔をみた弦一郎がはっと息を呑んだ。
「お前、泣いて…!」
「え…」
指摘されて幸村は自分の頬を指で撫でた。思っていた以上に流れていた涙がそこをしとどに濡らしていて、慌てて寝巻きの袖で何でもないと笑いながら拭った。その合間にそっと弦一郎の様子を窺うと、彼は気が気ではないといったようすでじっと自分を見つめている。女の泣いているところを凝視するなんて気の利かない男だが、それは逆に弦一郎らしくて、やっと彼が自分の側にいるのだという実感が幸村の中に芽生えた。やがて涙を拭いきった幸村は微笑んで、それから少しだけ眉を顰めて言った。
「もう、やっと来たのかい?みんな怒ってたよ、明日は決勝なのに部長代理の君がサボってちゃ示しがつかないじゃないか。」
「ああ、それは分かっている。本当にすまなかった。私情に走った俺の責任だ。」
私情、と幸村は呟いた。弦一郎は心から悔いているような顔をしてはいたが、そこには一種清清しくもあるような感が見られる。迷いも不安も何もないことを幸せと言うのなら、彼は間違いなく幸せそうな表情をしていた。これこそ私情だ、と思っても幸村はその幸せの理由を聞かずにはおれなかった。
「それって、『越前リョーマ』のことかな。」
俄かに弦一郎が目を見張って幸村を見つめた。出来れば嘘でも否定してほしいのが本音だったけれど、彼がそんな器用な人間であるはずもない。幸村は予想通りのため息をつき、すると弦一郎は戸惑ったような声で尋ねた。
「何故お前が、アイツのことを…。」
「今日真田のお母さんが来てくれたんだけど、その、部屋の外で誰かと話してたのを偶然聞いちゃって…。」
「そうか…。」
「…色々、聞いたよ。君とそのリョーマって子のことも、リョーマって子自身のことも…。」
ぺらぺら白状したにも関わらず、弦一郎は幸村の言葉には頷くばかりだった。そうか、全部知っているのか、と最後の砦も失ったような心地で幸村は薄く笑った。自分に張り付く仮面がこんなときでもきちんと働くのが疎ましくてならない。
「気の毒、だよね。リョーマって子。」
「ああ。だがもうそんな辛い目には会わさん。」
「……可愛い?『リョーマ』って。」
明かりなんて入れたせいで弦一郎の赤面するのが拝めてしまった。最低だ。
「好き、なんだね。本当に。」
「…おかしいか。」
「どうして、真田も人の子だったってだけのことじゃない。」
それもどうなんだ、と不満そうな顔をする弦一郎を幸村は面白がって笑った。本当は視界がブレそうなほど揺らいでいて、今にも感情を曝け出して彼を力いっぱい叩いてやりたいほどだというのに。
「それなら、真田も気の毒だね、しょうがないけど。」
溢れそうな激情を隠すためだけに幸村は喋り続けた。もっと、部の仲間のために言うべきことがたくさんあるのに、部長としての自分が建前になっていくのはまるで裏切りだが、今だけは許してと心の中で陳謝した。
「ショックで記憶喪失なんて、幼馴染だったのにさ。」
言ってしまってから全くこれはただの嫌味で、弦一郎を傷つけるだけではないかと気がついた。けれど言ってしまったものはもう取り返せず、幸村がすぐさまごめん、と言おうとしたときだった。
「記憶喪失…?」
弦一郎の不思議そうな声がした。幸村が顔を上げれば声の通り、理解できていないという顔をした弦一郎が幸村を見下ろしていた。

蓮二は机にかじりついていた体を起こして背伸びをした。時計を見れば真夜中まで一時間ほどしか残っていない。明日対戦する青学レギュラー陣のデータを頭に詰め込みなおしている内に夢中になり、時間のことを忘れていた。明日は大会なのだからもう寝なくては、と立ち上がると階下から呼び声がした。部屋を出れば母親が階段へ向かって声を出し、自分を呼んでいる。何事かと降りていけば客が来ていると言われたので驚いた。こんな非常識な時間に訪問してくるような知り合いは身に覚えがなく、玄関で彼を迎えると一層そう思ってしまった。
「げ、弦一郎…?」
「夜分に申し訳ない。」
蓮二は本当に、久々に心の底から驚いていた。それは夜分に、というのが最早問題ではなかったからだ。玄関口でじっと立ち尽くす弦一郎の顔が、表情もさることながら痛々しくはっきりした青あざをその頬に刻んでいて、よく見れば口の端も切っている。よほどの怪我だった。
「どうした、その顔…。」
動揺しながら蓮二が尋ねると、弦一郎はこれか、と何でもないように傷の辺りを手の甲で拭った。
「殴られたのだ。」
「いや、それは見れば分かる。どうしてそうなったのかと聞いているんだが。」
「当然の報いだ。」
はっきり言ってのけられたので、蓮二はしばらくすると何とか合点がいってそうか、と答えられた。弦一郎のことだ、今日の副部長としてあるまじき態度を海より深く後悔していて、殴られたところで当たり前のことだとでも思っているのだろう。昔気質な男なのは十分知っているが、それでもため息というのは出るものだった。
「…とりあえず上がれ。手当てしないと明日は大会だぞ。」
手招くと弦一郎は再びすまん、と言って大人しく蓮二についてきた。

頬の傷を手当しがてら聞いた次第では経緯はこうだ。野暮用とやらを済ませた弦一郎は幸村を筆頭に、今日のことを謝罪しにレギュラー陣のもとを全て回ってきたのだという。みんな反応はそれぞれで、弦一郎の訪問にいっそ怯える赤也だったとか、小言をもらしながらも快く許してくれたブン太やジャッカルだったとか、結構説教の長かった比呂士だった、等々。そして蓮二の前に訪れた雅治のもとでこの傷はもらったそうだ。
「何せ仁王のやつ、俺がすまんと言ったそばからブン殴ってきた。避ける間もなかった。」
「確かに、アイツが今日のことでは一番怒っていたような気はしていたが…。」
それにしても下手に出ているとは言え、泣く子どころか学校では教師も黙る真田弦一郎を躊躇なく殴り飛ばす仁王も相当のつわものだ。よほど頭にきていたのか、それともさすが仁王というべきか。どちらにせよ食えない男だ。蓮二がそんなことに感心していると、ふと弦一郎の空気が重々しくなった。次の瞬間、だん、と床に彼の大きな手が突かれて、蓮二が一体何だと思う前に弦一郎があぐらをかいたままで頭を下げた。
「お前にも申し訳なかった!俺はお前たちの信頼を裏切るような真似をした、決して許されることではない!」
「あ、いや…もういい。お前の誠意は伝わったからな。…というか落ち着け。」
夜も遅いし、とその声の大きさを心配して蓮二が言うと、弦一郎も常識はあるのでそうだな、と言って静かになった。ほっと蓮二は胸を撫で下ろしたが、これで全員に謝罪して終わったという割りに弦一郎の表情は謝る前よりも暗く見えた。それも単に落ち込んでいるというより、何か思いつめているような、そういう深刻さを湛えていたので、連二は思わず弦一郎、と彼を呼んだ。
「どうした。浮かない顔をしているぞ。」
「……いや、何でもない。」
「…話したくないならそれでも構わないが、嘘はやめておけ。お前、下手なんだから。」
そう蓮二が言ってやると弦一郎は顔を上げた。そして蓮二を食い入るように見つめたあと、より深刻そうに尋ねた。
「…俺は嘘も下手か。」
「ああ、下手だな。」
悪いことじゃないぞ、と付け加えたものの、そんな蓮二の慰めを歯牙にかけることもできず、結局弦一郎はぐっと押し黙ってしまった。彼の気持ちの落ちようは相当である、とここにきてようやく蓮二には分かった。とはいえ彼はそうくよくよ悩む人間じゃないし、よほど自分で解決を見れないとなれば蓮二なり何なりに相談も、割ときちんとしてくるほうだ。そういう彼にしては珍しい。そして大概彼が珍しいことをするときには必ず絡む人物が、近頃はたったひとりだが、すぐ思い当たる。だから十中八九そうなのだろうが、と躊躇われたが、落ち込む一方の親友を放っておけるほど蓮二は情を薄くすることも出来なかった。存外自分も世話焼きである。自身に向けて肩を竦ませた後、蓮二は苦笑しながら緩いパンチをさっき手当てしてやったばかりの弦一郎の頬にぶち当ててやった。
「…っ!な、何だ!」
当然戸惑ったようすの弦一郎だったが、蓮二は構わずそれで、と話を押し進めた。
「『彼女』がどうしたんだ。」
「彼女、とは誰だ。」
「今更しらばっくれるな。」
わざわざ強調して言ってやったにも関わらずピンぼけた返答をしてきた弦一郎にはほとほとため息が出る。仕方ないので越前リョーマのことに決まっているだろう、と名前を出してやるとやっと合点のいった弦一郎が、一瞬にして青ざめた。
「何故、あいつのことを聞く。」
「何故、って…お前がおかしなときはあの子に関わることだと相場は決まっているように思うんだが。」
そうなのか、と聞かれるので、そうだ、と蓮二は返してやった。そのまま二、三納得したような言葉や唸りを弦一郎は繰り返した。意表をつかれて驚いたのか、と蓮二が思えば、予想外に弦一郎の顔色はますます優れなくなっていく。呟きながら彼は再び俯き出し、すっかり沈黙してしまったので蓮二はもう一度声をかけようとした。
けれどそれは叶わなかった。声を出しかけた蓮二の目の前で、威勢の良くない姿だった弦一郎がゆっくり顔を上げた。彼は蓮二を見るわけでもなく、ほんの少し見当外れな方に顔を向けると、その表情はまだ俯き気味なせいもあって変に大人びて、ひどく親しみの篭る小さな笑顔だった。そしておかしいな、と弦一郎はやや困ったように言った。
「お前に見透かされているのだと思うと、どうにも安心してしまった。」
そう言ってすっと目を閉じると、立ち上がった弦一郎の体躯で出来た影が蓮二に降りかかった。
「邪魔をした。もう失礼しよう。」
そのまま蓮二の脇をすり抜けて去ろうとする弦一郎に驚いて、蓮二は立つのも忘れて体を捩り、弦一郎、と最後に呼びかけた。
「待て、お前…。」
「すまん。こればかりは言えんのだ。」
蓮二の言葉はすっかり遮られた。弦一郎が早々に謝ったせいもあるが、彼がとった今の一連の態度に蓮二の中では裏切られたような、一種の悲しさに似た気持ちが駆け巡っていた。いや、どんなに親しい人間に対してだって言えないことのひとつ、ふたつ、あっても不思議ではない。焦るほどの悲しさを紛らわすように、蓮二は咄嗟にそう思った。それなのに、蓮二、と呼ばれたので親友の背をじっと見た彼に、弦一郎は再び悲しい言葉を浴びせかけた。
「すまない。」
そしてとうとうひとりきりになった自室で、呆然としていた蓮二はふと置時計に目をやった。日付は十分ほど前に変わっていて、既に今日はやってきている。わだかまりを残したまま、関東大会決勝戦が始まるまでもう二桁の時間もなくなってしまった。


――――――
OVAコメンタリーの真田は偽者だと思う。
しかし異様なまでにリョマさん贔屓で嬉しかったのもほんと。


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