21.Is this what, for the first time, I did?


幸村が病室に戻ったのはもう夕方といってもいい頃合になってのことだった。涙が止まってもしばらくぼんやりとして動く気にもなれなかった。体力もないのに随分と泣いてしまったから、ベッドに辿り着くとそのままそこに倒れこんだ。眠ってしまおうかと目を瞑ってみたが、暗闇は不安を呼び起こすし、何か思い浮かべようとしても弦一郎との三年間が走馬灯のように駆け抜けてきて堪えられない。だから無理矢理腕をついて体を起こし、幸村はそれでもぐったりと項垂れてシーツを掴む指先を見つめた。
今気力を起こせるものがあるのなら、それは良くないとは思ってもまだ見たことのない幸運な少女への妬みの気持ちだけだった。以前弦一郎から話を聞いただけでも彼がその少女に心を奪われかけているのは明らかだった。あのときは今まで決して自分にはしてくれなかったような顔を次々と弦一郎に見せられて、幸村はいっそ拷問にでもかけられているようだと思ったものだった。
心がすれ違っても諦められないほど弦一郎が想う子は一体どんな人なのだろうか。たとえどんなに魅力的な少女であっても幸村は納得がいかなかった。その少女よりよほど弦一郎を知っている自信が彼女にはあった。想いの丈でさえ絶対に負けるとは思わない。
小学校のとき通っていたテニススクールで初めて弦一郎に会ったときから、もう彼に惹かれていたのだと振り返ればそう思う。同じ歳の子に混じると物言いの古臭さや歳不相応の態度でいつだって彼は浮きっぱなしだった。だからこそ自然と目が彼の方に向いたし、それは決して捻じ曲がっているからではなく、確固たる信念に基づいているから。だからこそ真田弦一郎という人間は既に出来上がっているのだとすぐに知れた。そういう人に今まで幸村は巡り会ったことがなかった。まさに不屈の男、ジュニア大会で幸村に完敗しても試合直後には彼女の力量を褒め称えて、あまつさえ次回は勝つとたきつけてきたのだ。あのときは呆気にとられるばかりだったが、実力故に特別扱いをされてやはり自分も周囲に馴染めなかった幸村にとって、そのとき弦一郎が向けてくれた迷いのない真っ直ぐな瞳は驚くほどの救いになった。
そう、彼だけなのだ。常に恐れることを知らず、自分に付き従って片時も離れずにいてくれたのは。辛いときは助けてくれた。嬉しいときは一緒に笑った。そんな当たり前だけれど幸村が十分に得られず飢えていたことを弦一郎だけがいつも与えてくれる。
好きだ、なんて安い言葉ではもう足りないくらい、体中に満ちて溢れそうな彼への気持ちが募って仕方ない。こんな自分でも持て余すほどのものを、見ず知らずの女のせいで非情にも捨てさせられるなんてのは真っ平御免だ。
ギリ、と奥歯を噛み締めた。はっきりと許せない、と幸村は感じていた。弦一郎は自分のものだ。絶対に、他の誰にも譲れるはずがない。病のおかげで彼はもう幸村にとって生きる希望にも近い存在になりつつあるのだ。奪われるくらいならいっそ死んでやる。ぐっと目に力が入って幸村がさらに独り善がりの思考の中に沈み込もうとしたとき、ドアの外で誰かの声がした。
はっとした。シーツを放すとひどい皺が寄っていて、指先も真っ白だった。唐突に冷静さが舞い戻って幸村はゆっくり首を振った。いけない、私情に埋もれることが絶対に悪いわけではないが、今はあの女のせいで乱された部のことも考えなくてはならない。今回揺らぎかけた皆の弦一郎に対する信頼はどうにでも修復できるが、これからもこんなことが続くのは決して許されないことだ。既に全国大会への参加は決まっている立海大テニス部は今まで以上に結束しなければならないときに来ている。弦一郎の心が部のことより、その女の方へ向かっているのなら引き戻さなくては、いや、いっそその女と引き離さすべきだ。苛立って幸村は親指の爪を噛み締めた。たったひとりの少女の存在で自分の大切なものが次から次へと狂わされている現状がどうにも腹立たしくてたまらない。せめてこの体が健全なら今すぐにでも弦一郎のところに駆けつけてやるのに。そう思うと明日の手術に対して抱いていた恐怖がむしろ希望にすり替わっていくのが分かった。手術が成功すればリハビリ次第でこの体はどうとでもなる。そうしたら押し寄せてくる障害なんて絶対に突破してみせる。
彼を、仲間との絆を失うことに比べれば怖いものなんて何もない。だから出来ることは何でもしてやる。幸村がそうひとり誓って目を閉じると、さっき部屋の外でした声が不意にはっきりして聞こえた。
「…ええ、どうしても弦一郎さん来られないらしくて、代わりを頼まれたの。」
さり気なく聞こえた名前に幸村は体を強張らせた。外で聞こえるのは会話だった。よく聞けば片方は聞き覚えがある、弦一郎の母親の声だ。咄嗟に幸村は扉の脇の壁に飛びついた。そして耳を澄ますとさっきよりずっと会話の内容が聞き取れる。立ち聞きなんてして弦一郎の母親に悪いと思うが、今弦一郎の話を聞き逃すことはできない。息を殺して佇んでいると、もうひとりの、こちらも女性の声が聞こえ始めた。
「ごめんなさい、リョーマの許婚のこと。うちの人ったら断りもなく…。弦ちゃん、戸惑ったでしょうね。」
リョーマ、許婚、と幸村は反芻した。ああ、それが弦一郎を惑わせた女の名前なのか。直感的にそう思われて、幸村は瞳を険しく細めた。心に今刻んだばかりのその名前が、もうすこぶる憎らしくてたまらなかった。もし対面することでもあれば、出会いが頭に掴みかかってしまいそうな気さえしたが、そういう高ぶる気持ちを抑えこんでさらに会話の続きに幸村が聞き耳を立てていると、今度は弦一郎の母親がすこぶる申し訳なさそうに、こちらこそ、と切り出した。
「こちらこそごめんなさい。弦一郎さんのことをちゃんとお話してなかったから南次郎さん、心配されたのよきっと。私がいけないんだわ。息子のことなのに、ちっとも分かってなくて…。」
「でもリョーマに会うまで分からなかったんでしょう。仕方ないわ。けど、あの人も、ひょっとしたら弦ちゃんもじゃないかしら、自分のせいだと思いすぎよ。あれは、事故にも近いんだから…。」
「そんな、事故だなんて片付けちゃだめよ。リョーマちゃんどんなに怖かったか…今も思い出せないんでしょう、当時のことも、幼馴染だった弦一郎さんのことすら…。」
「ええ。でも、思い出さないならその方がいいって…南次郎もそう思って今回のことをしたんだと思うけど。だって、そうじゃない、」
あやふやな会話だ。一体彼女らは何の話をしているのだろう。そう幸村が訝しんでいるとリョーマの名を出した女性の震える声が、詰まりながらもどうにか言葉を繋いだ。

「おれ、向こうにいた、ころ、レイプ、されたこと、あっ…て……、…でも…」

―きらいにならないで。

やっとの思いで言い切ったリョーマが声を押し殺して、けれどひどく泣き始めたのを、弦一郎はぐっと自分の胸で受けきった。その瞬間、燻るもやのようだった何かがさっと晴れ、そしてはっきりとした覚悟は忽然と彼の中に湧き出ていた。
この娘を救えるのなら、自分の一生を捧げたって惜しくもない。いや、そうしなければならない。
浅はかで、けれども今まで抱いたことがないのではと思うほど圧倒的なこれは、一体何だろう。憐れみか。それもある。しかしながら急速に心の地面に根付いていくから、もう大分前からこの気持ちを自分は持とうとしていた。遠い、遠い、振り返るのが難しいくらい昔には、もう。
頭が鈍く痛んだ。思わず首を振ると胸の中のリョーマが震えた。見下ろすとちょうど立っていることも出来なくなったのか、段々と薄暗がりの中で鈍く煌いて見える頭が下へとずり落ちていくところだった。慌てて背に手を回してやったが、服を掴んだきりでリョーマが腕から零れ落ちるのを防ぐことができない。いや、それだけは絶対に駄目だ。もう二度とそんなことはしない、と鈍い痛みが叫ぶ。くっ、と唸って弦一郎は気合で痛みを振り払うと、身を屈めてリョーマの背に回していた手を腰まで伸ばした。息を詰めて勢いをつけると、リョーマの小さな体は糸も容易く、ぐん、と上へ持ち上げられてしまった。
「う、わ…!」
悲鳴を上げたリョーマがぐらぐらする体を支えようと手を伸ばすと、弦一郎の黒帽子の前鍔にぱしん、とぶつけた。そのせいで帽子は彼の頭の向こうに落ちていこうとする。それにひどく興味を持っていかれた。幼い好奇心だ。咄嗟に今度は宙へ手を伸ばし、右手で取りこぼしたが左手でどうにか鷲掴んでやった。ほっとするとリョーマの顎が広い肩の上に収まって、やっと弦一郎に高く持ち上げられた自分のことを思い出した。そっとその肩に手を当てて体を引き離してみると、眩むほど視界が高かった。これが弦一郎の見る世界であることに一抹の感動を覚えながらも、急な行為に心はついていっていなかった。弦一郎を見つめたリョーマの顔は、そのために不安が露だった。
俗に言う姫抱っことはまた違う、持ち上げるのに力を込めすぎて身軽いリョーマを放り投げそうになったほどの抱き上げ方を弦一郎はしてしまった。その末路がこの幼い子供を胸の辺りで持ったときのような状態だ。おかげでリョーマの顔が平素と違って自分より高いところにある。新鮮と言えばそうだが、戸惑うと言った方が正しい。この状況、どうしてくれよう。訳もなく焦ってやった自分のせいであることは分かっているが、余計混乱した今の弦一郎はただじっとリョーマを見つめ返すだけだ。言葉が出ない彼を、しばらくして救ったのはリョーマの一言だった。
「…怒っ、た?」
泣きそうに顔を歪めて言われてしまい、弦一郎は驚いて突き上げるような大声を上げた。
「…怒っとらん!」
その声にびくついてリョーマはきゅっと目を閉じた。それから恐る恐る瞳を開かせると、彼女はさらに顔をくしゃりと歪ませてより泣きに入った声を出した。
「怒ってる、じゃん…。」
ふええ、と言いながら自分の顔の横にうずもれてしまったリョーマの顔を弦一郎は慌てて目で追い、叫び散らした。
「ち、違う!本当に俺は怒ってなどおらん!俺は、…そうだ、むしろ喜んでいるぞ!お前がようやく、その、何だ…。」
一言一言精一杯喋ったつもりだが、弦一郎は結局皆まで言えず黙った。なんと歯がゆいことか、と歯軋りをしたのは、やはり相変わらず自分の言葉が下手なせいだった。リョーマが懸命に自分の辛い過去を教えてくれたこと、そのおかげでようやくリョーマと一緒にいることへの疑問もしがらみもなくなって、それが自分は嬉しいのだと、頭の中ではすらすら出てくることが口からは何故か出てこない。どうしてこんなに伝えることが上手くないのだ、俺は。悔しさのあまり弦一郎は震えた。けれどとにかくリョーマに誤解を与えないように、という一心でぽつりと彼は呟いた。
「…すまん。不甲斐ないが上手く、言えんのだ。」
その直後、耳元でぷっと息を噴出す音がした。何だ、と弦一郎が弱っていた目元に力を入れると、くつくつという声と一緒に抱えているリョーマの体が小刻みに揺れていた。ひとしきり体を揺らしてから起き上がったリョーマは、笑っていた。
「なっ、貴様…謀ったな!」
カッとなって弦一郎が力むとリョーマを支える彼の腕が動いた。途端リョーマの体はふらつく羽目になる。
「わ、待って、待って待って、タンマ!」
なので彼女は慌てて弦一郎にしがみつくと、ようやく安定を得てほっと息をついた。それでもまだ弦一郎のかあっと怒っている感じが伝わって、違うよ、と呟くとリョーマはきゅっと彼の首に腕を回して抱きついた。
「ごめん。アンタのこと笑ったんじゃなくって、俺も嬉しかったんだ。うれし、く…て」
ようやくすらすらと流れたリョーマの言葉が再び途切れ始めた。それで弦一郎もやっと気がつくと、怒りを静めて首と肩にかかるリョーマの些細な重みをじっくり感じた。これから自分が支えていく重さを覚えようと思った。そして、まるでそういう弦一郎の気持ちを確かめるように、リョーマは幾度も同じ言葉で弦一郎に問いかけた。
「ねえ…ほんとにいいの?…ほんと?ほんとにほんと…?ねえ、真田さん…」
そう聞いた途端、ぎゅっと弦一郎の手に力がこもった。
「他人行儀だな…リョーマ。」
彼の腕の力が強いので、少ししか体を起こせなかったリョーマは結局弦一郎と額を小突き合わせた。今までで一番近いところで彼と話すのは、気恥ずかしいけれどお互いの全部が通じるような気がして悪くない。気後れしながらもリョーマは他人行儀、と言われたので試しにこう囁いた。
「……じゃ、弦一郎、さん…とか?」
「…好きに呼べ。」
ふっと目の前にいるのに目をそらされて、リョーマは苦笑した。今更何が照れくさいんだろう、この人は。そういうどこまでも真っ直ぐで不器用なところがいいのだけれど。そう思えてしまう、いつだって彼にくっついていきたいという気持ちは、どうしたって懐かしい感覚だ。目を細めると涙が滲んだ。憧憬の気持ちがリョーマの中で待っていたようにその殻を脱いでいく。心からこの人がいい、とそう思える。
「弦一郎さん。」
心を込めて読んだ初めての呼び方は、やっぱり恥ずかしかった。それは呼んだ側もそうだし、呼ばれた側だってその倍くらい赤面するのを堪えようとした。当然それ以上言葉が出るはずはなくて、それでも持て余すほどの近さが、ふたつに分かれているのが難しいほどの似通った想いが、もう少しだけ近づこうと欲張った。

少し乾いてて随分と熱い。
ほのかに湿っていてひどく柔らかい。

重ねていたところを離すとそんな感覚的な感想だけが後に残った。本当に小さく、けれどふたりともが震えてしまっている。情けなくて一緒に顔を伏せたら前髪が擦れ合って、また額を突き合わせる形になった。そのままじっと固まって時間の感覚も消えそうになると、リョーマは勇気を出してちらりと瞳を上向かせてみた。と、向こうもちょうどこちらを見ていたので、またふたりともぎょっとして顔を突き放した。間髪入れず、下ろすぞ、と弦一郎がぶっきらぼうに言って、リョーマが頷くのと同時に地面に足が着いた。
改めて見ると、リョーマの目の前に真っ直ぐ立った弦一郎は本当に見上げるほどの大男で、そのせいかまた少し遠ざかったような気さえした。何だか勿体無い。でもほっとするのも反面事実だった。こういう想いを好き好んで体験したがっているらしいクラスの女子達の気が知れない。
「…すっごい恥ずかしいんだけど。」
「…それは俺の台詞だ。」
いかにも恥じ入っているという風にリョーマが言うと、同じようにぶすっとして弦一郎が返した。しかしリョーマが見上げれば、不機嫌そうな声の割に弦一郎の顔は怖くなかった。恥ずかしさと余韻の抜け切らない複雑な顔色だ。多分、自分もあんな顔を今している。一緒なんだと思うと安心感と気力が湧いた。不安なんて大概がいつだって杞憂なのかもしれない。少なくともそう思わせてくれる人を自分は選んだはずだ。
そっと微笑んでリョーマは生意気に組んだ手を頭の後ろにやった。
「ねえ、どうでもいいけど急ぐんじゃなかったの?」
さっと顔を上げた弦一郎が、彼もまた安堵したような顔を垣間見せてからそうだな、と呟いた。そしてリョーマの頭をわしゃわしゃと撫でるついでに頭の後ろに回された彼女の手から自分の帽子をきちんとひったくり、ぎゅっとそれを被ると弦一郎は帰る方へ足を向けた。
「じゃあな。」
「ん、また明日ね。」
ひらひらと帽子を取られて空いた手のひらを振れば、外灯の明かりの下でまだリョーマの方へ僅かに体を向けていた弦一郎がうっすら笑ったように見えた。それからすぐに彼の背中が明るいところから消えてしまって、急に呼び止めたくなった気持ちをリョーマは首を振って押し込めた。
代わりにさっきからじんじんするほど熱い気がする唇を噛み締めて、指でなぞった。初めてのはずのそんな感覚も、彼が相手だと久しいような気がする。どうしてだろう、馬鹿みたい。リョーマは肩を竦めてくすくす笑った。

――――――

元々リョーマさんに「弦一郎さん」って新妻っぽく言ってほしいがために始めたパラレルである。(告白)



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