20.Hear me, darling.


夕日の輝きの、その最後の一筋が家並みの陰によって完全に遮られた。しんと暗くなった部屋に明かりを灯して、国光は机の上にある明日のオーダー表に目を落とした。ダブルスに弱さのある青学テニス部では毎回直前まで組み合わせに関して議論が繰り広げられる。そのせいで今回のオーダー表も出来上がったのは今日の部活が終わる直前だった。結局ライバル同士として意識しあう二年生レギュラーふたりに、お互いへの対抗心で引き起こされる活力とそれ故の信頼があることを信じてダブルス2を託すことになった。その他はほぼ順当の実力順であろうと相手方オーダーを予想し、青学側もそれに沿う形の選手を並び揃えた。下からひとつずつ、思いを込めるようにチームメイトの名前を指でなぞり、国光の人差し指は最後に自身へと辿り着く。その指先から少し視線をずらせば、思い出されるあの雷のような怒号と不動明王がごとき顔つきに国光から知らず知らずのため息が漏れ出た。
テニスを介しての敵対心を向けられるのは一向に構わない。それは国光も臨むところであるし、そういう相手として選ばれることは一種光栄だとも思っている。けれど今日の昼下がりの出来事はそんな爽やかなものでは一切なかった。むしろ随分と生々しい、あの情事には滅法疎そうな男にしては意外なことだが、そういう嫉妬や敵意をもらってしまって国光は正直、胸でももたれそうな心地がした。
自分であえて選んだ道とは言え、なかなかに厳しいものだ。せめてリョーマの相手が真田弦一郎でなければもう少しましだったかもしれないが、今や取り返しもつかないことだろうから諦めるしかあるまい。そうあっさり思えるほど、あのときのリョーマと弦一郎の一緒にいた姿には切り離し難い絆を感じたのだ。
そうなったのはいつからだろう、と何とはなしに国光は思った。部に入ったころのリョーマは、淡白な態度で隠していたがその実ひどく部員の、いや周囲に居る全ての男性に恐怖を抱いて過ごしていたというのに。
顧問の竜崎スミレに連れられたリョーマと初めて対面したのは四月の頭、まだ桜がほろほろ散り始めたくらいの、ほんの少し肌寒い日だった。しきりに制服のスカートが気に入らないのか、それをいじくっていた彼女の小さな頭のつむじがはっきり見えて、新入生の初々しさを覚えた。国光が名前を言うと、すぐに顔を上げたリョーマの両目は生意気な色をしてつりあがっていた。けれど差し出した手には嫌悪感を露にした一瞥をくれただけで、ぶっきらぼうな声がよろしく、とちっともよろしくない調子で呟いた。
あれから細心の注意を払いながら一月、二月と国光はリョーマを見守った。日が経つにつれ、リョーマの表情から緊張が解けていくのが分かり、ほっとしたものだった。明るい英二や武の接触にも呆れ顔程度で付き合えるようになったのは大した進歩に違いなかった。恐らく青学のテニス部が、そういう意味でリョーマに与えたものはきっと小さくないだろう。
それと同時に彼女が一同に与えたものも、また大きかった。彼女のテニスプレイヤーとしての実力、才能が放つ眩さのような魅力が誰をも逃さず捕らえ、放さない。心惹かれた者もいただろうし、ライバル心を燃やした者もきっと多かっただろう。そのくせ彼女の見せる試合に勝ったときの爽快で、ほんの少し小憎たらしい、それでいて屈託のないあの笑顔がいつだってみんな見たくて仕方ない。手の届かないものほど魅惑的というが、どうして、全く彼女はそういう価値を全部持っているのだ。
そうだ、どうやったら彼女に惹かれないでいられるだろう。だからあの立海大の皇帝だって彼女へ想いを募らせたのだろうし、それは俺だって。
国光が考えかけたことがらに目を見開いたのと同時に、背後で電子音が彼を呼び始めた。携帯が鳴っていた。それをしばらく見つめた国光は、すぐさまこれ幸いと言わんばかりに応答を求める電話を取り上げた。珍しく慌ててしまい、ディスプレイで誰からの着信かも確かめなかった。だからはい、手塚です、と言って相手を探ると耳に飛び込んできたのはひょうきんな男の、少し申し訳なさそうな声だった。
『あー、国光君?俺、俺、リョーマの父親の南次郎だ。』
「ああ、どうも。ご無沙汰してます。何か御用でしょうか。」
思い出していた彼女とはあまり似ていない喋り口で南次郎が話すのに、訳もなくほっとして国光は挨拶を済ませた。すると用を聞かれた南次郎は軽く唸りながら、突然こんなことを言った。
『んあー、えっとなー国光君。ほんとすまねえんだけどよ、リョーマの、許婚の話、あれ取り下げさせてもらっていいか?』
ちょっと都合が悪くなっちまって、と乾いた笑いを南次郎がもらす後ろで、何かぎゃいぎゃい喚く声が微かにした。聞き違いでなければそれはリョーマの声だった。何と言ったまでは分からなかったが、その声がリョーマのものに聞こえただけで十分国光の中である意識は芽生え始めていた。国光君、と何度か名前を呼ばれても、国光はなかなか返事をしなかった。彼の思考は色々と渦巻いていた。唐突な話に驚いて、その経緯は何だろうかとか、ここで南次郎の申し出をすんなり受け入れるべきか、否かとか、それならそのどちらかの選択をするとしてそれぞれの理由はとか、忙しい頭の中は南次郎に対する配慮すら忘れたが、あちらこちら考えを及ばせても結局辿り着くところは変わらなかった。
『国光くーん…?』
幾度目だろう、いっそ不安にでもなったのかという調子で南次郎が自分を呼ぶので、国光はやっと薄く口を開いた。
「…お断りします。」
『え?』
彼ははっきり顔を上げ、そこにいない南次郎を睨み返すような強い目をした。
「まだ、越前を失うわけにはいきません。それに俺の側に置いておく方が、特に今は、彼女のためにもいいと思います。ですから、」

『そのお話はお断りします。』
では、と短い去り際の挨拶でプツッと言った受話器を、南次郎はしばらく呆然と見つめた。そしてそれからゆっくり親機に子機を収めると、彼はゆっくり振り返ってぱっと手を降参とでも言うように掲げた。
「…断られちった。」
予想通り、振り向いた先では娘の、凍る刃の一刺しのような眼差しが待っていた。
「…ちった、じゃないよ。どういうことさ!」
「お、俺は知らねーよ。だって国光君が…。」
「元々悪いのは親父だろ!」
居間の床をダン、と強く踏み抜いてリョーマが詰め寄るので、南次郎は危機感を覚えてさっと逃げの体勢に入った。尚も詰め寄ろうとするリョーマをたくみにかわし、彼はとうとう側で立ち尽くしていた弦一郎の背に回ると彼を盾にリョーマへ訴えた。
「落ち着け、リョーマっ。ちゃんと今度話つけてやっから…。」
「今度っていつだよ!」
リョーマは興奮しきっていて南次郎の言葉など聞く耳を持っていなかった。腹が立つのは予想外にも話を断った国光に対して、というのもあるが、今のところはそれであっさり引き下がった南次郎に対してが大半だった。左、右、と体をずらしてはリョーマの様子を窺う南次郎の動きに合わせて、同じく左右の移動を繰り返すリョーマは声を張ったまま文句を言い続けた。
「親父なら責任とれよ!折角真田さんが1ポイント取ったのに、これじゃ意味ないだろ!」
「分かってる!分ーかってるって!だから何とかするって…。」
「今すぐ!今すぐ何とかしろ!」
「今すぐってお前…もう日が暮れてんだけど…。」
「はあ?それが何だって言うんだよ、このクソ親父!」
「おい。」
親子の馬鹿の応酬に鶴の一声、というには随分地獄の底から立ち上ってきたような低い声が打ち止めを食らわせた。左右移動を繰り返していた越前親子が顔を上げると、彼らの移動の軸にされていた大柄の少年が帽子の陰で黒ずむ目元をこれ以上は無理だというくらい顰め、鬼のような眼光を燃やしていた。リョーマなどは、あ、ヤバイと思ったが、幼年の頃の弦一郎しかよく知らない南次郎は緩んだ気持ちのまま彼の様子を窺った。そして雷光のように喝は下った。
「この…たわけどもが!人の周りでちょろちょろするな、目障り極まりないわ!」
ひっ、とリョーマと南次郎が息を呑んだ。しかしその程度のビビリ具合は何でもないと言わんばかりに弦一郎の叱り声は続く。
「リョーマ!お前は落ち着かんか!無理な我が侭を通すんじゃない!おまけに自分の親に向かって暴言を吐き晒して、みっともないとは思わんのか!」
「ご、ごめん、なさい…。」
「南次郎さん!あなたも些か威厳に欠けますぞ!親ならばいかんものはいかんとはっきり言ったらどうですか!」
「ご、ごもっともで…。」
思わず正座になってしまって、弦一郎の正面直球ばかりで来る責めの言葉をもらったリョーマと南次郎はすっかり縮こまった。そして弦一郎が鬼の副部長パワーを出し切ってはあ、と深く息をついている内に小突きあうように頭を寄せた越前親子はこっそり言葉をかわした。
「おいおいリョーマ…弦ちゃんっていつの間にこんな怖い子になっちゃったんだよ。」
「知らないけど…真田さん、あだ名『皇帝』っていうとか何とか…。」
「中学生のあだ名じゃねーな。つーかそれ『説教魔人』の間違いじゃねーの…。」
南次郎が軽口を叩くと、ふたりにぐさりと刺さるものがあった。顔を上げれば、案の定弦一郎の強烈な睨みだ。しまった、と思って親子は慌てて黙り、俯いた。もう二、三発怒鳴られるんじゃないか。そんな不安を抱えてじっと待っていると、しばらくしてまた弦一郎の深い息が聞こえた。恐々リョーマが顔を上げれば、そこには先ほどまでの恐ろしいだけの表情はなく、やや呆れ顔ではあるが冷静な気色に戻った弦一郎が膝をついてふたりと同じ目線になった。
「怒鳴り散らして失礼しました。それと手塚のことは構いません。明日、俺が直々に奴へ引導を渡してくれる。」
引導、と越前親子が仰天して言い返しても弦一郎は素通りして立ち上がった。彼が軽く頭を下げて居間を出て行こうとするので、リョーマが慌てて追いかけると彼は玄関できっちりそろえて置いていた靴をもう履いていた。
「えっと、あの…。」
リョーマが言葉を探しながら声だけもらすと、弦一郎は振り返って腕組みをし、ふてぶてしい表情を見せた。
「案ずるな、お前を悩ますあいつをタダでは置かん。きっちり叩き潰してやるから待っていろ。」
そう言ってまた弦一郎がさっさと越前家から出て行くので、またリョーマは慌てて後を追った。南次郎も居間を出て、ずんずん遠ざかるたくましい背中とちょこちょこくっついて駆けて行く小さな体に気がついた。そのまま見送ろうかと思ったが、南次郎はすぐ声を強く上げ、リョーマを呼び止めた。
「おう、リョーマ。」
振り返った娘がきょとんとしているので軽く笑顔が浮かんだが、それを引っ込めて南次郎は真面目な面持ちで続けた。
「弦ちゃんにもう言ったのか。」
一瞬、何のことを言われたのかリョーマは分からなかった。けれど南次郎の真剣な姿にじわりと頭の奥から呼び戻されたものがあって、急に眉を顰めた彼女は顔色を悪くしながらも首を横に振った。その憐れなほどの様子が胸に痛かったが、だからこそ鬼のような気持ちで南次郎はリョーマのためにはっきり言い渡した。
「言うなら今しかねーぞ。上っ面の許婚でいいんなら別にいいけどよ。」
声の調子を小馬鹿にするようなものにすると、思い通りリョーマがムッとした顔を南次郎に向けた。そしてもう何も言わず父親に背を向けた彼女はまた、今度は少し焦って走り去った。ああ、遠くなるな。南次郎は最後にそう呟いた。
家を囲う塀の仕切り戸を弦一郎が越えたところでリョーマが彼に追いついた。弦一郎の歩くスピードのせいで駆け足になり、軽く息の上がったリョーマがちょっと待って、と途切れ気味に言えば、弦一郎はちゃんと立ち止まってリョーマの方を向いた。
「まだ何か用か。」
悪いが少し急ぐ、と急きたてて弦一郎が言えばリョーマは不思議そうに彼を見上げた。しかし彼女はそれ以上は何も聞かず、前かがみだった姿勢を真っ直ぐさせると一度は大きく口を開いた。が、言葉に詰まったようにリョーマからは何の声ももれなかった。一時は泣きそうな顔を浮かべさえした。結局弦一郎が心配して尋ねようとする前に開き直ったのか、打って変わってほんの少し気恥ずかしそうに手を後ろにやったリョーマは、軽く俯いて話した。
「あの、ね。明日さ。」
「…ああ。」
弦一郎が納得しているような相槌を打ってやると、ぱっとリョーマは顔を上げた。そのまま軽く背伸びをするように体を伸ばして俄かに赤らんだ頬で微笑んだ。
「勝ってよね、絶対。」
はっきりリョーマがそう言うと、ふと弦一郎から苦笑がもれた。彼はリョーマの頭に手を置いて背伸びしてきた彼女を押さえ込むとたしなめるように言った。
「たわけ、それは青学が負けても良いという意味ではないか。」
「それは、そう、だけど…。」
言われてリョーマも初めて気がついたのか、彼女は急に言いよどんだ。けれど頭に置かれた手の重みを段々押しやると、とうとうその手を自分の両手で掴んで取り去ってしまった。そしてそのまま彼の手をぎゅっと握り、再びリョーマは背伸びをした。
「やっぱり真田さんには勝ってほしい。勝って、俺を…。」
それ以上言うことは憚られたのか、リョーマは言いかけた口許を小さく結んでじっと弦一郎を見つめ上げた。弦一郎もその先は言われなくても分かっていた。
そして思った。堂々と国光を下して、何のしがらみもなくただリョーマのこの手をもう一度取れたら。そのとき味わう清清しさは何物にも換えがたいし、例え難いだろう。今はこれだけしか出来ないけれど。少し切ない気持ちでリョーマの手を握り返すと、途端、縋るような鬼気迫る勢いでリョーマがさらに握り返してきたので、弦一郎は驚いて声を上げそうになった。
見下ろしたリョーマの小さな肩がカタカタと震えていた。突然の割りにひどく深刻なその雰囲気を弦一郎は前にも見たことがあった。記憶を辿れば難なく思い当たった。あの雨の日の観覧車の中だ。確かに自分はこれと同じ様子のリョーマを見た。堪える何かに、込めた力に自身を押しつぶされそうになりながら、命がけのようにリョーマは何かを弦一郎に伝えたがっていた。
あのときはとりとめもなく、くだらない不安でその懸命さをないがしろにしてしまった。思い返すほどに悔しく、だから今度は絶対にそんなことはしない。そういう固い決意で弦一郎がさらにぎゅっと手を握り締めてやると、それに気がついたリョーマがその握りあった手を引き寄せ、自分の額に当てた。まるで祈りを捧げる姿のように見えた。ひくつく声を上げた彼女はきっと泣いている。
どんなことがこの先に待っているのだろう。あの、と言い出しかけてあと少しが言えない彼女のさまがひどく愛しくて、慰めてやりたくて、弦一郎はたまらず手を伸ばしてリョーマの頭の後ろを捉えると、彼女の胸近くまである仕切り戸越しに体を引き寄せてやった。ぎゅっと弦一郎の胸に握り締めたふたりの手が押し付けられた。そして言い聞かせるように彼は呟いた。
「大丈夫だ。」
感極まったように肩に込める力を増したリョーマが、それでも懸命に、小さくコクリと頷いた。あのね、と言い出した声は相変わらずひどく震えていたけれど、もう言葉が途切れることはなかった。
「初めて、会ったときアンタの手、振り払ったの、覚えてる?」
「ああ。」
電車の中でのことだ。すぐに思い浮かんで答えてやった。
「あの頃は、まだ日本に来て、あんまり経ってなくて、それまでアメリカに住んでたんだけど、日本の方が安全だから中学からはこっちでって、親父が決めて、日本に来たんだ。」
安全、という言葉が気に掛かった。一般的にそう比較することはあるけれど、わざわざリョーマがそう言うのにどことなく違和感が募って弦一郎は話の続きを待った。息が苦しいのか、喉をコクリと鳴らしたリョーマは短い息を吐きながら続けた。
「でも、やっぱり怖いのに変わりは、なかった。あの日も、そうで、あの嫌な高校生も、アンタのことさえ、怖かった。青学のみんなも、立海の人たちも、クラスメイトも、本当は通りすがる人だって、怖い。」
男の人が、とリョーマは言った後、少し間を置いた。
そして弦一郎の体に圧迫感が増した。辛いのか、リョーマがどんどん彼と繋いだ手に縋って、擦り寄って、そのせいで弦一郎は自分の手にまだ温もりを宿した雫がはらはら落ちてきては指の間を伝っていくのを感じる。あと少しだ。もうしゃくりあげそうなリョーマの頭を添えた手で何度も撫でてやっていると、は、は、と消えそうなほど短い呼吸の中で真田さん、と懇願の声をリョーマが上げた。

――――――

地震、雷、火事、真田。って名言。



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