19.Win my bride from him, her father!


リョーマはテニスコートにかかるネットのポールに指先を添えて置いたまま、もう二時間近く動くこともままならなかった。二時間中コートからテニスボールの弾かれる音は消えていない。十数分か経ってまれにコールをして、数えた今がゲームカウント5-0。父親の南次郎が圧倒的な優勢だ。けれどただの一ポイントも取れないのに南次郎の繰り出す球に食いつき続ける彼の精神力には、リョーマでさえすっかり仰天してしまった。
リョーマが不安げに見つめたサーバーはおびただしい汗を乱暴に袖で拭って、それでも力強くトスをした。夕日の中を目で捉えることさえ厳しい速度で黒い小さな影が走りぬけた。南次郎と弦一郎の試合、最後の弦一郎のサービスゲームが始まった。

事の始まりは国光に事実上リョーマをかけた勝負を申し込んでから、今度は全ての元凶である南次郎に会いに越前家を訪れたときに遡る。家人に南次郎がいるか尋ねると寺にいる、と言われた。面倒臭いとぼやくリョーマを引っ張って弦一郎が家の裏手にある、以前も来たことのある境内まで上ってくると、南次郎は鐘楼の欄干の上で器用に横になったまま雑誌を捲っていた。そして彼は大あくびをすると振り返らず声をかけてきた。
「なんだ、殺気だってんな。」
青いねえ、とからから南次郎が笑った。その態度が気に入らず、途端に弦一郎を押しのけてリョーマが一歩踏み出した。
「誰のせいだと…、親父!いい加減どういうことか説明しろよ!」
「何をかしら、リョーマさん。」
白々しい南次郎の態度にまたリョーマがカッとなる。そしてまた食って掛かろうとするので弦一郎はその肩を掴んで彼女を押さえ込んだ。
「落ち着け、喧嘩をしに来たのではないんだぞ。」
「だけど…アンタだってムカつくだろ!勝手に許婚変えるとか、どういう神経して…。」
弦一郎の制止にも納得がいかず、掴まれた肩をリョーマが振り払う。するとはあ?と素っ頓狂な声が上がり、見ると南次郎が目を瞬いて弦一郎とリョーマを覗き込んでいた。
「おいおい、なんだそりゃ。誰が許婚変えたんだよ。」
南次郎が首をぼりぼり掻き毟って言った。もちろんその言葉にリョーマも弦一郎も目を見張る。そして呆然となった沈黙を先に破ったのはリョーマの方だった。
「…って、アンタだろ!」
馬鹿じゃん、と付け加えながら怒り任せにリョーマが指差すと、多少ショックだったのか南次郎は相変わらず欄干の上で胡坐をかいたまだったが、アンタって、と復唱した。
「リョーマ…お前さ、最近ちょっと反抗期じゃねーか。」
「…俺は生まれてからずーっと反抗期だけど、アンタにだけ。」
本題からそれるばかりの南次郎にリョーマのイライラもピークに達し、言葉がどんどんきつくなる。しかし未だかつて見たことがないほどその怒りのオーラが強く、弦一郎も今一声をかけるタイミングを見失っていた。どうしよう、と彼が真剣に悩み出す頃、やっと南次郎が諦めたようなため息をついた。
「えーとな、誤解してるだろお前ら。俺は弦ちゃんから国光くんに乗り換えたんじゃないぜ。」
南次郎が呆れたようにふたりを見下ろして言った。
「え?」
「それは、どういう…。」
そして見下ろされたふたりは同じような驚きの表情を浮かべて南次郎を見上げ、その子供臭さに南次郎はふっと笑った。
「喜べ、リョーマ。お前の許婚、ふたりいるから好きな方選びな。」
数秒間を置いて、突然リョーマがぐしゃりとその場に潰れた。ぎょっとして弦一郎が助け起こしてやると、真っ青になったリョーマは唇をわなわなと震わせていた。それでも完全に膝が砕けたのか、弦一郎に縋ってやっと立ち上がった彼女はそのまま弱弱しい声で南次郎に訴えかけた。
「ちょっと、冗談じゃないんだけど…。許婚がふたりって、何それ、聞いたこともない…。」
「確かに、些か、いや全く意図が掴めませんが…。」
思わず弦一郎も疑問をぶつけると、南次郎はなんてことはないという顔をして答えた。
「いやー、多いほうがいいかと思って。ほれ、ひとりきりで飽きちゃあまずいだろ。」
俺だったら飽きるね、とひとり深々頷く男を気が遠くなる思いで見つめたリョーマと弦一郎はややあって、同時に叫んだ。
「「飽きるかー!」」
とんだ茶番だった。それから南次郎を欄干から引きずり下ろし、弦一郎とリョーマは散々彼に文句を浴びせかけてやった。
地面に正座した南次郎を見下ろしながらやっと言いたいことを言い尽くしたリョーマは深く息をついた。そして腰に手を当て、顰め面はそのままに彼女は父親へこう提言した。
「とにかく、今からでいいから部長は断ってよ。部の皆にも茶化されてすっごい気分悪いんだから。」
「あん?弦ちゃんでいいのか、あんなに嫌がってたくせに。」
娘とその許婚に徹底的に絞られて小さくなっていた南次郎が急に態度を大きくして言い返した。最初こそリョーマはギロリと反論した南次郎を睨みかえしたが、今度は怯まず自分を見つめ返してくる南次郎を見て、少したじろいだ。何か言え、と父親に促された気がしたのだ。思わず手元をもじもじと遊ばせたが、南次郎の所業に文句を言いに来た手前やはり面と向かって言うしかないのだろう。あの、と言い出したときには顔を必死に伏せていたが、やはり心から思っていることを伝えるときには自然と父親の顔を真っ直ぐ見ていた。
「俺は、真田さんじゃなきゃヤだ…。」
南次郎はじっと娘を見つめた。それも穴が開くのではないかというほど見てくるので、居心地が悪くてリョーマはついには目をそらした。もう頬はすっかり赤くなっていた。無理もなかった。自分の父親に「今までお世話になりました」とでも言うのに近い状況なのだ。それを年端もいかない内に言わなければならないのは苦しいほど恥ずかしかった。
そしてそんなリョーマの勇気と健気さを真横で見せられて、弦一郎も黙っていられなかった。小さな背中を褒めるように軽く叩いてやると顔を上げたリョーマが眩しそうに目を細めた。その眼差しを受け取って弦一郎は前を向くと勢いよく頭を下げた。
「俺も同じです。最初に渋った身で厚かましいとお思いやもしれませんが、リョーマの、娘さんの許婚は俺であることを、どうか認めて頂きたい!」
弦一郎の懸命な頼み込み具合に、慌ててリョーマも同じくらいに頭を下げた。それに面食らったのは他ならぬ南次郎であった。あの常に反抗的なリョーマが素直に頼んでくる様は衝撃でもあり、どことなく物寂しくもあった。二人で同じことをしている姿は微笑ましく、父親としては複雑だ。だからやれやれと頭をかいて彼は立ち上がった。そのまま少し歩いて鐘楼の土台に立てかけてあるテニスのラケットを手に取ると、顔を上げるよう南次郎はふたりに言った。頼んだことの返事がまだで、不安そうに南次郎を見つめる弦一郎とリョーマに苦笑がもれた。
「なら、テニスしようや、弦ちゃん。」
ラケットで肩をとんとんと叩き、南次郎は顎でしゃくって弦一郎を指名した。当然驚いた弦一郎が目を見開くのにもお構いなしで、南次郎はその脇を抜けるとひとりテニスコートへ向かった。そして奥のコートに陣取ると背を向けたまま語った。
「だーかーらー、お前さんらの頼みをこれで賭けようって言ってんじゃねーか。」
「な、何でだよ!元々親父が真田さんと俺をくっつけようとしたくせに!」
父親の意図が分からずリョーマが喚くと、南次郎は不適に笑って指を振った。
「ちっ、ちっ、ちっ。んなこと聞くたあ、まだまだだな、リョーマ。確かに俺はお前さんらを許婚にしようとしたぜ?でもなあ…。」
今のは違うだろう、と彼は言った。そして振り返った南次郎は弦一郎に目を向けた。
「俺から娘を頼むってのと、お前さんから娘さんをくださいってのは、訳が違うんだよ。」
念押しでなっ、と南次郎が首を傾げて呼びかけると、さっと顔を赤くしたのは弦一郎だけでリョーマははあ?と怪訝な表情になった。
「何それ…全然意味分かんない…。」
「…分かりました。」
え、とリョーマが驚いて弦一郎を見上げると、彼はもう早速下ろしたサイドバッグからラケットを取り出し始めていた。そんな意味の分からないことをするな、と制止しても弦一郎は止めてくれるなと言うばかりでさくさくレシーブ位置に向かってしまう。そうこうする内に審判をしろと南次郎に言われてしまい、リョーマは甚だ疑問を抱えたままコートの脇に渋々向かった。
「そうそう、弦ちゃん。誰も俺に勝てなんて言わねーから。俺から1ポイント取ってみな。そしたらさっきの件、認めてやるよ。」
試合開始のコールの前に思い出したように南次郎が声を張って伝えた。サービスラインの対岸に居るとは言え、はっきり聞き取れたその声に弦一郎のこめかみがひくりと疼いた。
「たった1ポイント、ですと…?」
「そ、1ポイント。」
わざわざ指を一本立ててまで教えてきた南次郎の舐め腐った態度に弦一郎の自尊心が大いに傷つく。いくら元プロテニスプレイヤーと言っても現役を退いた中年男のくせに大した自信だ。少し抗議してやろうか、と弦一郎がレシーブの姿勢を解こうとしたとき、不意に目に入ったリョーマの表情でそれは思いとどまわれた。随分と彼女は不安そうな顔をしていたのだ。たかが1ポイント、と思っていたのが、それでいっぺんに、されど1ポイント、と思われた。リョーマだってかなりの実力者だが、そんな彼女が弦一郎の勝利など考慮にも入れられないというような顔をしているのだ。それほどまでに越前南次郎という男は、強いのだろうか。飄々とした立ち姿からはとても想像できないが、それでも油断できない人間なのはこの親子の共通する特徴なのかもしれない。
弦一郎は再び腰を落とした。やはり真剣勝負には真摯な態度が必要だ。それにあの不安そうな顔をしたリョーマを安心して笑わせてやりたい。真っ直ぐな眼光を飛ばすと、にやっと笑った南次郎がボールを天高く放った。
そしてその予想は現実のものとなって立ちはだかった。弦一郎の長身から繰り出されるサーブも本来はちょっとやそっとじゃ決して取れないだろうが、それをちょっとやそっとで取ってしまうのがリョーマの父親だった。実際彼は二時間経っても大した汗すらかいていない涼しい顔だ。
「ほらよっ。」
気の抜ける掛け声で弾丸のようなそれをラケットに当てた南次郎は、さり気ないショットだというのに的確に弦一郎の反応が一番届きにくいコーナーを突いた。南次郎の繰り出す球筋は彼の気配からその軌道を捉えることが出来ない。これが世界で戦ってきたプレイヤーの手腕なのだ。身をもってそれを体験できることは光栄だが、今の状況が屈辱でしかないのもまた事実だ。走ったが寸分の差で届かなかった。今ので幾度目のリターンエースだろうか。
「0-15」
「聞っこえねーよ、リョーマ。」
肩で息をしていた弦一郎が顔を上げると、コールの声が小さいことを指摘されて父親を睨み返す小さな少女がコートの側でじっと立っていた。それから彼女はコートに向き直るとちらりと弦一郎に眼差しを向けてきた。心配そうな目が大丈夫か、と尋ねている。無理もない、はっきり言って弦一郎はこの二時間コートを駆けずり回ってばかりだ。精神的なダメージも大きい。極限状態に限りなく近いことが自分でも分かっていた。けれどそんな自分のことごときで彼女を不安にさせたくない。だから力強く頷いてやった。そして弦一郎もまたネットの向こうで次のサーブを気軽なポーズで待っている男を畏怖と負けん気で睨みつけた。たった一ポイント、それでいいのだ。彼からそれを奪えば全ては片付く。
再びトスをしたが、力んだサーブの一回目はネットに当たって向こうに行かなかった。弦一郎はくっと唸った。目の前がちかちかする。らしくないミスをするほど疲労が蓄積しているらしい。
「おーい、もう諦めてもいいんだぜー。」
薄っぺらい揶揄が飛んだ。カッとなって弦一郎が顔を上げると南次郎は笑って手を振っている。なるほど、これはリョーマでなくても腹が立つ男だ。実際ポールの脇に立って先ほどから審判をやらされているリョーマもふざけんな、と怒鳴っている。少しだけ笑みがこぼれた。これはいよいよ負けられない。いや十分負けているが、まだ試合は終わっていないのだから希望はある。
「リョーマ、コールしろ。」
そう声をかけてやると振り向いたリョーマがしぶしぶフォルト、と言う。こんなにどちらかの選手に肩入れしている審判と言うのも、これまた笑える話だ。むしろ嬉しい話と言ったほうが正しいか。自惚れると気力が戻る。とにかく落ち着かなければならない。サーブミスで自滅なんて御免だ。ボールを何度か地面にぶつけながら弦一郎は集中を高めた。そして前を向く。相変わらず気の抜けたようにしか見えない男が向こうにいて、ムカつく。
「…俺は、諦めん。南次郎さん、俺はあなたを…。」
ブッ潰す!と叫んで打った二度目のサーブがイメージした通りの軌道をなぞり、突き抜けた。

――――――

婿舅戦争(テニス)勃発。
ちなみに私はおやっさんをひとでなしだと思ってます。



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