18.My true heart wishes only you were here.


「幸村部長!」
近頃では全く聞かない呼び方で声をかけられ、幸村が振り返ると午後の日差しに眩しい屋上に壮観な少年たちの一団がいた。学校の頭文字をモチーフにした校章を胸に光らせている彼らはは立海大付属中テニス部のレギュラー陣だ。つまり幸村の大事な仲間で、きっと関東大会決勝前日ということで示し合わせて見舞いに来たのだろう。
「みんな、来てくれたんだ。」
笑顔で幸村は返したが、夏服の白が光に反射して眩しい。手をかざしていると彼らはわっと歩み寄ってきて、その中でもムードメーカーのブン太や赤也が一番に幸村のもとへ飛びついてきた。
「ほい。幸村ちゃん、おみやげだぜ。」
甘党のブン太がやはりあまい香りの漂ってくる箱を差し出した。ありがとう、と言って幸村は受け取ったが、そう食欲が湧く最近ではないのでこの中身は多分ブン太の胃袋に納まるだろう。想像してくすっと笑うと赤也もぱっと笑って幸村の正面に回りこんだ。
「部長!元気みたいッスね!」
「それはどうかな、明日手術だからね。」
急に沈みがちで答えた幸村に赤也がしまったと思って慌てていると、すぐさまブン太とジャッカルの殴りが立て続けに彼を襲った。
「バッカ、赤也!」
「アホかお前は!」
ちょうどふたりとも赤也の頭を殴ったので、赤也はこれ以上馬鹿になったらどうするんだと喚く。あまりに元気旺盛な制裁なのでお目付け役の蓮二や柳生比呂士が忠告に入ると、ほどなく忍び笑いがその中心から上がった。
「ほんと皆元気だね、見てると明るくなるよ。」
彼女がゆったり笑うと結局結果オーライとなったことが分かったので、赤也はブン太による脇固めの刑から解放された。慌ててその場でぜえぜえ赤也は唸る。その姿が滑稽で場の全員から自然と笑いが起こった。
皆と同じように笑いながらも、さっきの幸村の言葉は本心からだった。明日の手術で緊張していた神経がほぐれていくのを彼女は感じ、心から彼らの訪問を喜んでいた。辛い病院での日々もこうして彼らがいてくれるからこそ心を折らずにここまでこれたのだ。言い尽くせない感謝をそれでも口にしようとして、ふと気がついた彼女は軽く首を巡らしてみた。
「そう言えば、真田は?」
ふつりとさっきまで湧き出してやまなかった笑いが息を潜めた。そしてあっさりと降りてきた沈黙の時間に幸村の表情は急速に曇った。
「蓮二、真田は?」
何事も一番ストレートに、臆すことなく話してくれるだろう蓮二に白羽の矢がたった。けれど参謀と讃えられ、部でも怖いもの知らずに入る部類の彼が、今日はどういう訳か幸村の問いかけに目もあわせない。どうしたの、と幸村が消え入りそうな声で誰にでもなく聞く。するとずっと沈黙を保って隅の方にいた雅治が急に歩み出して幸村の目の前に来た。
「来ちょらん。あいつ、自分の女んとこ行きよったんじゃ。」
「仁王君。やめたまえ、そんな言い方は。」
比呂士がすぐに雅治の肩を掴んだ。けれど雅治は微動だにせず、他の部員もそれ以上彼の言葉を否定も非難もしなかった。
幸村はそんな周囲を見渡して、目を見張った。彼女には今まさに立海の厚い信頼の壁が蜃気楼のように揺らいで見えていた。とても信じられないことだった。あの真田弦一郎が、立海の常勝の掟を誰よりも厳しく貫き、立海の全国大会三連覇の夢を誰よりも堅く誓ってくれた彼が、関東大会とは言えその決勝の前日、こういう集まりに加わらないというのは何より由々しき事態だ。幸村不在の立海大テニス部にとって副部長の弦一郎はまさに要だ。彼ががいるか、いないかで全員の士気は当然違うし、彼がいることで全員の一致団結の輪は初めて形作られる。厳格な彼が自分の立場を理解していないはずはない。なのにどうして彼はいないのか。個人的な感情も越えるほど幸村の心の中で赤い灯火がその勢いを増していく。
けれどここでそれを曝け出して取り乱すことはならなかった。幸村も元々立海大テニス部を率いていた人間だから、その程度のことは分かっていた。だから彼女は自分の中の激情も劣情も見事に隠して、軽々しいくらいの苦笑を浮かべてみせた。
「全く、しょうがないな真田は。ほんとに私がいないとあいつは駄目だね。」
ふざけた言い回しをすると案の定、面子の中で一番事の深刻さに戸惑っていた赤也が乗ってきた。
「そ、そうッスよ!副部長だけじゃやっぱ不安だから、幸村部長早く元気になって帰ってきてくださいよ〜!」
一度破られると、重苦しかった沈黙が少しずつ晴れ間を見せ出した。部員の中にはぼつぼつ赤也の言うことに同意する声や、幸村の心情を察して固まっていた雰囲気を和らげる発言をするものが出だした。幸村はそういう言葉のひとつひとつを丁寧に拾って答えた。そうやって全員の不安や憤りを取り除いたり、覆い隠してやったりして皆の輪を見事に整えてみせた。
「真田のことは私から言っておくよ。これはお仕置きものだ。」
ふふ、と意味深な笑顔とともに彼女がそういうと一団の乱れはついに治まった。笑顔を取り戻したメンバーは最後に幸村へ明日の勝利を約束した。その約束は全員心からのもので、幸村は深く頷くと最後まで笑顔を貫いて全員を見送った。屋上から降りる階段に続く扉に最も遅く辿り着いたのは蓮二で、彼は一度振り返ってフェンス脇のベンチに座ったままの幸村に声をかけた。
「すまない、助かった。…弦一郎には後で来るように伝えておく。」
そう言った蓮二の顔はやや険しかった。弦一郎と親しい分、今回のことに随分と彼は怒っているのだろう。頼むよ、と幸村が言うと蓮二は申し訳なさそうに笑って扉を閉じた。バタン、というその音が幸村の心の奥に真っ直ぐ刺さった。そして気丈な役者の顔がはがれた。
堪えきれずどうして、と呟くと涙が一筋幸村の頬を伝った。決して自分との約束を無碍にはしない人だと信じていたのに、彼は変わってしまったんだろうか。遠ざかっていく仲間の足音が冷たい誰かの足音に重なって聞こえているような気がした。そのせいで背筋が凍りそうで、幸村は慌てて自分の肩を抱きしめた。外の世界で幸村だけを置き去りにして進む時間が彼女を氷付けにしてしまうようだ。
知らないところで彼が変わっていく。自分を置いていってしまう。閉じ込めていた私的な気持ちが堰を切ったようにあふれ出してくるのが分かって、切なさに涙が止まらなかった。仰いだ空さえ突き抜ける青さで圧し掛かってくるようだ。
今どこにいるの、何してるの。どうしてここにいてくれないの。明日の恐怖に足が竦んで呼吸も出来ないほど溺れて凍えているのに。ただ一目会いたいだけなのに。
「どうして、私じゃないの……。」
膝に落ちるいくつもの滴が、夏に変わる季節の中で唯一冷たかった。


――――――

まったくもって仁王が正しい。



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