17.Boys need the girl for each reason.


桃城武は緊張していた。そして爽やかな夏の朝、既に背中を刺すように熱く輝く太陽の光を浴びているとはいえ、そのおかげ以上の汗をかいていた。自転車のハンドルを掴む手を片方自分の胸に当てると尋常でないほど跳ねている。性格柄あまり緊張など味わう性質ではないのだが、今日ばかりは仕方ない。それもこれも昨夜、リョーマが実に気軽なメールを送ってきたせいだ。
土曜の今日、部活の午前練習に間に合うよう起きられる自信がないから武に迎えに来てほしい、と以前のような気楽さで彼女は頼んできたのだ。そんな馬鹿な、と目を疑ってもこすっても届いたメールが消えるわけもなく、断る理由をはっきり言うことははばかられた。だから分かった、なんて素っ気なくも了承したという返事を送ってしまってものすごく武は後悔した。そしてついに迎えた朝、越前家の前でもんもんと悩んでいる。
確かに、ここで、少し前に自分は越前リョーマに告白したはずだ。そのあと色々なことが起こったから忘れられてしまったのだろうか。可能性としてなくはないが、それはあまりに切ない。いや、あの尊敬する手塚国光部長が越前リョーマの許婚になったと偶然にも聞いてしまった時点でそんな感傷は捨てるべきだったかもしれないが、頭で分かっても思春期の、それも熱血漢で青臭い武の心がそんなことをあっさり受け入れられるはずもない。せめて、きっぱりリョーマに振られるほうがまだ踏ん切りがつく。
だから早く彼女に来てほしい気もするし、このまま永遠に現れないでくれたらとも思う。両極端な考えを行ったり来たりするせいで武はそわそわして仕方なく、自転車から降りると越前家に正面向いてみた。けれどすぐにガッと頭を抱えた。
「ああ〜、チキショー!どんな顔して越前に会えばいいんだよ!」
「何が?」
え、と言って武は目を一杯に瞬くと、眼前をよく確認した。斜め低いところにいつもの青学ジャージを着て、目の辺りを眠そうに擦っている華奢なのがいる。ひっと息を呑んだ。
「え、えっちぜん…!お、お、おお…。」
「お?」
震える指でリョーマを指してみたものの、見るからに彼女から緊張とか遠慮とかは感じられない。武の緊張の糸が残念さと一緒にだらだらと垂れていく。さすが越前リョーマ、青少年の告白のひとつやふたつ、どうってことないらしい。マジですか、と呟いたがリョーマははあ?と気だるそうに聞き返すばかりだ。これはこれでありがたいような、やはり残念というか、軽く心に傷がついたのだが朝練の時間が遅くなるわけでもない。結局零れた呻きはおはよう、と言ってごまかし、武は大層納得のいかない気持ちと体を引きずって自転車に手をかけた。

「桃先輩のせいッスよ。折角俺が頑張って起きたのにぐずぐずするから。」
小言と一緒に追いついてきた白帽子を武はじろりと睨んだ。数分とは言え遅刻は遅刻。おまけに今日は明日の関東大会決勝前の練習日だ。当然鬼の青学テニス部部長、手塚国光が許してくれるなんて奇跡があるはずはなく、二人仲良く現在コート周りを走って5周目に差し掛かったところだ。ゴールまであと15周、結構な道のりで目が遠くを見つめそうになる。はあ、と深いため息をつく武をリョーマは隣で走りながら横目でしばらく眺めた。
「ねえ、桃先輩。」
ぽつりとリョーマが声をかけると、武は億劫ながらも答えた。
「あんだよ…。」
「すんません。」
「何が。」
謝罪の意味が分からない。武がようやくまともにリョーマの方を見ると、彼女もちらりと彼を見上げて視線がぶつかった。
「告白のこと。」
途端、隣で派手に摩擦音がたって、リョーマが立ち止まると少し後ろで武が豪快に顔から地面に突っ込んでいた。大丈夫ッスか、と言って近づいてきてくれるリョーマがほんの少し嬉しいが、唐突な、あの恐れていた話題の振りはかなり武には堪えた。それも「すんません」ということは、そういうことなのだろう。
「だ、大丈夫だ…、つか、うん、やっぱそう、だよな…。」
手塚部長いるもんな、と武は鼻頭が今しがた擦ったのと、内から込み上げてくるものとでツンと痛むのを堪えながら言った。青春の1ページが悲しい思い出になるのはつらいが、相手があの部長とあっては諦めがつく自信は存分にあった。よく聞く相手の幸せが自分の幸せという神話を地で行くなら、ここは笑顔でリョーマの幸せを祈ってやるところだ。想像すると結構格好いい男ではないか。よし、と頷いて武が作り笑いの顔を上げると、その先でリョーマは国語のテストが返されたときのような顔をしていた。即ち衝撃と絶望と嫌悪、はっきり言って男の前でそんな顔する女があるか、と言いたくなるほど歪んだ表情だった。
「な、なんだよ、俺が何したんだよ…。」
驚いた武が訴えると、しばらくしてリョーマはゆっくり表情を、いつも程度の不機嫌そうなものに戻して別に、と呟いた。あの顔をみせてから別に、と言われても何の説得力もないが、国光とリョーマのことは繊細でプライベートなことだからそう気軽に聞くことができない。しかし、ではあからさまに国光にデレデレするリョーマというのも想像するには難があるから、少々無理があると思いつつリョーマの表情の件は見なかったことにしようと武は心に決めた。そうしてふたりでそれぞれの思惑を抱えていると、傍からはサボっているように見えたのだろう、国光の鋭い喝が飛んできた。
「桃城、越前!何を休んでいる!」
わざわざコートから出てきてつかつかと歩み寄ってきた国光の姿に武の背筋がピンと張り詰めて伸びた。慌ててすみません、と頭を下げると謝る暇があるなら走って来い、ときつく返されてしまった。間髪入れず武は走り出した。
「……お前も行け。」
が、居残っているのもいた。一年生の分際でポケットに手を突っ込んで生意気そうな姿勢で部長たる国光を睨み上げている、それが自分の許婚だなんて信じ難いものだ。国光がため息をつくと、苛立ったようにリョーマが軽く声を張って言った。
「ねえ、どういうこと。」
「何がだ。」
「桃先輩はともかく、なんか部活のみんな、俺とアンタが許婚だって勝手に知ってるんだけど。」
リョーマが目配せした先を国光も一緒になって見れば、国光とリョーマが揃っているというだけで興味深そうに覗き見してくるのがコートの中に結構な数見当たった。リョーマの指摘は国光も薄々感づいていたところだ。関東大会の初戦があったころにはもうそんな雰囲気が部内に広がっていたように思う。けれど二人の関係を広がらせてしまった原因には思い当たる節がない。
「俺は知らんぞ。」
淡々と国光が返すとリョーマはまた食って掛かってきた。
「アンタ以外で誰がいるんだよ。桃先輩はこういうの言いふらすタイプじゃないし、誰が…。」
段々怒りが立ち上ってきて握った拳にリョーマが力を入れていると、ふらっと誰かが側を通りかかった。
「やっほー、ご両人!仲良しもいいけど練習しなきゃ駄目だよー。」
とくるくる回りながら菊丸英二が、ついでにリョーマの頭を二、三度叩いて別のコートに入ってしまった。そして入れ替わるように反対からは乾貞治がノートとラケットといういつも通りの不思議な組み合わせを携えて通りすがる。
「そうだな、籍を入れてからいくらでも睦まじく出来るだろう。」
そう言った彼がまたコートの方へ姿を消すまでを見送ってから、国光は無言で眼鏡を指でずり上げた。
「…俺、走ってきます。」
そしてリョーマはくるりと国光に背を向けた。駆け出した彼女の背中には確かに怒りのオーラが漂っていて、多分打ち合いの練習に参加したらツイストサーブの乱れ打ちになるだろうことが用意に想像できた。

部活が終わり、国光が着替えを済ませ部室を出るとすぐ、会長、と呼び止められた。部室の脇には二人ばかりの生徒がいて、どちらも生徒会の役員だ。少し困った顔で何かの書類を持っている辺り、国光に頼らざるをえない用を抱えているのは明らかだ。大会中のハードな練習で疲れている身だが、決して自分の職務に含まれることを放り出せる性分ではないのが国光だ。どうしたんだ、と歩きがてら事情を聞いて、報告や計算のミスで複雑に絡まった問題を解決し、教師にも弁明周りをして終わる頃、一日で一番暑い時間帯はとっくに過ぎていた。
ありがとうございました、と何べんも頭を下げる後輩の見送りを受けながら国光は校門に向かって歩いた。トップの仕事としては間違っていないが、本音を言うとこういう時期だから後輩たちには配慮やいつも以上の努力をしてほしいものだ。甘やかしてはいないと思うが、それでも自分の感情は部活の方に先走っていて、生徒会の指導は疎かになっているところがあるかもしれない。国光は立ち止まって小さくため息をついた。もっと何事にも努めねばならない。幸い心配していた腕の怪我は今のところ何ともない。青学の全国優勝への障壁を身の内に抱えていないだけ迷いはないのだ。あるとすればあの自覚が薄い1年ルーキーのことくらいか。彼女を思うとどっと疲れが溢れてくるようで、思わず眼鏡を外して目頭を押さえ込んだ。
「お疲れのようだな、手塚。」
呼ばれて顔を上げた国光の視界はぼやけていた。薄い青空と道路の向こうに佇む家々の滲んだ色、学校の校門の輪郭もぶれているところにぼんやりとした人影が見えた。確かに国光は疲れていて、しばらくそのままで相手を見つめた。が、不意に不機嫌そうな声で眼鏡をかけろ、とよく見えない原因を相手に指摘され、国光は素直にその通り従った。するとくっきりとした形を取り戻した風景に、見慣れない屈強な体躯が堂々とそびえていた。
「…珍しいな、お前がこんなところに来るとは。」
真田、と目の前の長身を国光が睨むと同じくらい鋭い眼光が返ってきた。立海大の制服に身を包んだ彼を見るのも珍しいが、そんなことより王者として君臨している立海大付属中のテニス部員が格下とでも思っているだろう青春学園にわざわざ赴いているのが驚きだ。
「青学に何か用か。」
立ちはだかるように国光が尋ねると、弦一郎が俄かにばつの悪そうな顔をした。珍しいことが続く。用がなければ来ぬわ、と強く言ったものの、弦一郎にしてはためらったような声音がした。
「だが青学にではない。お前に用がある。」
弦一郎と国光は決して縁遠い関係ではない。寧ろ因縁の仲と言ったほうが正しいくらいで、弦一郎が国光にこだわる理由も思い当たる節がないわけではない。けれど小学生以来のテニスがらみの事柄で用があるなら、彼はもっと真っ向から対峙するだろうし、彼も気性は実に真面目だから時を弁えるくらいは絶対にする男だ。お互い明日を関東大会決勝として控えている身で、こんな軽率なことはありえないのだ。すると弦一郎の用事として考えられるものが一気に引き絞られ、脳裏によぎった生意気な面構えに一瞬国光の気が遠くなった。だから思わず呆れ声で答えてしまった。
「越前のことか。」
小さく弦一郎が唸った。しかし彼はすぐに居直るとそうだ、とはっきり肯定した。彼の眼差しに真剣さが増して、国光はつい呆れてしまったことを悪く思った。だから彼も弦一郎に向き合うとやはりはっきりと言った。
「悪いが抗議されるいわれがない。越前は、今は俺の許婚だ。」
「当人の気持ちを無視してか。」
弦一郎が一歩力強く踏み込んで問いただす。そういう反論を国光はどうでもいいとは思わないし、リョーマの気持ちなど本人から聞かされて重々承知している。だから笑えてくるくらい分かった、きっと自分は今悪役だ。
だが国光にもそんなことをするだけの理由がある。つまり彼の成すべきことがらの前では申し訳ないが弦一郎の指摘こそ瑣末なことにすぎず、国光は他人には分からない程度に苦笑した。
「当人の気持ちか、それは越前に聞いたらどうだ。」
意地悪い目を国光は弦一郎から校門脇にある電柱に移した。いるんだろう、と声をかけてやると、そのあたりの影が揺らいでかくれんぼで見つかった子供のような顔をして白い帽子がそっとこちらを窺ってきた。途端に弦一郎が驚いて怒鳴った。
「た、たわけ!ついてくるなと言っただろうが!」
怒声の大きさに耳を押さえつつ、リョーマは疑わしそうな目を弦一郎に向けて言った。
「…だってアンタのことだから部長に掴みかかっていくんじゃないかと思って。」
「お前、俺を見くびっているだろう…。」
こめかみをひくつかせ始めた弦一郎の様子にさらなる怒りの鉄槌を感じたのか、リョーマは電柱の陰からひょいと飛び出すと彼を宥めるようなことを二言、三言言って、今度は国光を振り返った。
「ていうか、俺に聞けって意味分かんないんだけど。」
リョーマがじろっと睨んでも国光は動じなかった。それどころか射抜くような目でリョーマを見つめ返し、彼はもう一度聞きなおした。
「越前、お前の許婚は誰だ。」
「そ、れは…。」
たじろいだリョーマがややあって、俯き加減でぼそりと呟いた。
「部長、だけど…。」
すぐさまリョーマの背後でカッとなった気配がした。やばい、と思ってリョーマが振り向くともう耳をつんざく声が存分に降り注いできた。
「この…裏切り者!そんなにあっさり認める奴があるか!」
「だってしょうがないじゃん!約束しちゃったんだから!」
「そういう訳だ。」
飛び交う痴話喧嘩をなんとも思っていないように国光が割って入った。弦一郎とリョーマが同時に彼を振り返っても、国光は涼しい顔で分かったな、とリョーマに念押しさえしてくる。
「お前は俺の、青学の越前リョーマだ。決して自分の居場所を見失うな。」
そう言い、去り際に国光はリョーマの肩を軽く叩いた。その振動が何故か体の、いや心の奥底にまで届いた気がしてリョーマはその重みに言葉を失った。それってどういうこと、と尋ねたかったがやっと首を巡らせる気力が湧いたときには国光の背は遠ざかって小さく、どうしようもないように思われた、のはリョーマだけの話だった。彼女の背後で控えたままの弦一郎はと言えばこれが自分を置いて国光とリョーマの間で話が進んだものだから立腹のど真ん中で平常心など風前の灯。そしてそのまま彼を無視して国光は立ち去った上に、さり気なくリョーマに触れてくれたせいで怒りの臨界点をあっさり迎えてしまった。わなわなと震えていた拳に一段と力を込めて弦一郎はバッと顔を上げた。
「手塚ァーッ!!」
すぐ側に居た小さなリョーマの体など吹き飛びそうな怒号だった。それが当然国光を驚かせるほど道一杯に響き渡り、随分と目を見開いたままで振り返った彼に弦一郎は最大級のガンを飛ばした。
「ならば今度は俺と勝負をしろ!明日の決勝、シングルス1で貴様を打ち砕いてくれるわ!」
ブン、と手を振りかざしてそう怒鳴りつけると、リョーマからかすかな驚きの声が漏れ、大分遠くにいる国光からは呆れたような視線が返ってきた。しかし弦一郎が引く様子も見せないで睨み続けてくるので、国光は一度思い直した。
その勝負を受けて立たないわけにはいかないのだ。それは青学を全国大会へ導くためには通らないではいられない道であって、断る理由は少しだってなかった。
無意識にリョーマの肩を叩いた手が握られた。まだ失うわけにはいかない。ならあの全力でぶつかってくるだろう男をどうにかしないと国光の願いは果たされないのだ。その願望とまた少し違う理由が、それにかぶさって見分けのつかないまま国光の首を縦に振らせた。
「…いいだろう、明日の決勝戦で会おう。」
そう言い残して今度こそ国光は完全にふたりへ背を向けた。冷静に遠ざかっていく背中がついに見えなくなった頃、やっと振り上げていた手を弦一郎が引っ込め、それと同時にリョーマが驚いた顔のまま遥か上方のいまだ険しすぎる男の様子を窺った。
「アンタって…。」
何とそのあとを繋ごうか思いつきもしないのについ零れた言葉が、けれど途切れさせられた。声が聞こえた瞬間、リョーマを見下ろした弦一郎の体が急に揺らいで、リョーマは突然首根っこを掴まれた。一体何だと問いかける暇さえなく、すぐリョーマの頬に夏服のさらさらした布の感触は押し付けられた。ややあって足元からぽすっと間抜けな音がしたのと、リョーマの髪を全部風がくすぐったからまた帽子が落ちてしまったと分かった。目で確かめられないのは、要するに力強く弦一郎の胸元に押し付けられているリョーマには不可能なことだからだ。
「……何?」
俄かに頬が紅潮していくのを感じながら、平静を装ってリョーマが聞くと、ジャージの襟を後ろから掴んで離さない不器用な彼が実に悔しそうな声で答えた。
「あまり…気安く触らせるな。」
存外腹が立つ、と言った顔が見られないのが本当に惜しかった。きっと珍しく拗ねたような顔をしていたに違いないのだから、そんなもの拝めた日にはリョーマは楽しくってたまらなくなるだろう。想像しただけでも笑顔が零れて彼のシャツに顔を押し付けてくすくすやっていたら、襟足のあたりを掴む手に今度は引き離された。
「だから何故お前は訳の分からんところで笑う。」
見上げると残念ながら不機嫌そうな顔色しか残っていなかった。ひとまず苦しいと訴えて弦一郎に放してもらうとリョーマは少し締まった首を擦りながらニヤリと笑った。
「アンタがかわいいから?」
「何だそれは。」
「あと時々ダイタンなとこ。」
肩をすくめたリョーマを見下ろしてしばらくすると、弦一郎ははっと息を吸って辺りを見回した。幸い土曜午後の学校周辺に人影は見えない。ほっとしたのも束の間、すぐさまくっと唸った彼は片手で顔を押さえこんで項垂れた。
「……すまん。」
「いいよ、謝んなくて。嫌じゃないんだから。」
むしろそのままの勢いでもう少し階段を上ってくれればいいのに、とリョーマは密かに唇を突き出して思った。彼の真面目な性分は気に入っているほうだが、真面目すぎて少し手順を守りすぎているというか、奥手というか、つまらないと感じることもしばしばある。12歳のわりにはませた考えかもしれないが、唯一どんなにリョーマが触れても平気な弦一郎には、会えない日が多い分も含めてもっと触れてほしい欲求が募る。あの大きくて粗野な、優しくて不器用な、そしてきっと自分よりヨワイものの触り方を一度だって知らない弦一郎の手がもしも精一杯自分に触れてくれたら、世界で一番幸せになれる気さえする。
そんな夢想に耽っていたら、また弦一郎にすまん、と謝られた。声のした方を見るとリョーマの足元から帽子を拾い上げた彼の姿があった。
「ああ…なんか最近落としてばっかだね。」
てっきりすぐ渡してくれるものと思ってリョーマが手を伸ばすと、弦一郎はぼんやりひっくり返した帽子の鍔を見つめたまま、リョーマには気付いてもいないようだった。首を傾げてリョーマが真田さん、と呼びかけるとそれでやっと目が覚めたとでもいう様子で弦一郎は答え、帽子を差し出した。けれどそれを被り直すリョーマを弦一郎はまた呆然と見下ろし始めた。
リョーマが帽子を落としてばかりというのはその通りだ。先日の関東大会の初戦の日にもこの帽子は持ち主を一時見失った。落としただろう場所にふたりで戻って、最初にそれを見つけたのは弦一郎だった。すぐに拾い上げ、リョーマを呼び、少しひしゃげていたそれの形を整えてやっていると、ふと前鍔の内側に掠れた文字で何事か書かれているのを弦一郎は見つけた。
「ねえ、今日本当に家にも来るの?」
すっかりいつものように帽子を被ったリョーマが聞いてくる。そのつもりは十分にあるので肯定したものの、気持ちは半分宙をさまよっていた。相槌を打ったリョーマが親父家にいるかな、などと呟きながら歩き出したのに弦一郎も続いて歩き始めた。しかしその歩みもいつもより鈍いもので、先を行っていたリョーマが不意に振り返ると不思議がって戻ってきた。
「どしたの?」
前鍔を軽く握って押し上げ、リョーマが弦一郎の顔を覗きこむ。何でもない、と首を振ったがまたちらりと見えた掠れ文字が何とはなしに見たくなくて、弦一郎はリョーマの前鍔を握るとぎゅっと目深にそれを押し込めた。うわ、と悲鳴を上げたリョーマがすぐに文句を言い始める。それも結局耳に入ってはどこかにすり抜けていってしまって意味がない。弦一郎の頭の中はこれから南次郎に会って、聞いてみたいひとつのことで占められていた。

リョーマの帽子に書かれた幼く、古い「さなだ げんいちろう」という字は、一体何なのですか、と。


――――――

真田が暴走して始まりました第二部です。



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