アズール・アーシェングロットの友情

「さあ、サインを!」
 光が微かにしか届かぬ深海で、その銀の髪を揺蕩わせた少年は、きらきらと見たこともない星の如く輝きを放ちながら勝ち気に笑って見せた。その輝きが魅力的で蠱惑的で、それ[・・]はニンマリとほほ笑んで獲物を定めたのだ。



「ヤァヤァ、お疲れ様」 その声は、唐突に荒れ果てたオクタヴィネル寮へと降り注いだ。ぱちぱちぱちと手を鳴らし、その場へと降り立ったその声の主にグルと低く喉を唸らせたのはレオナだ。それに続くようにラギーも顔を顰めた。気配がなかった――その男はまさに神出鬼没に、つい先ほどまでオーバーブロットによる緊張の糸が張り詰めていたその場に現れた。輝かんばかりの黄金色の髪は彼の動きに伴いサラリと靡く。瞳は晴天の海面のような穏やかなブルーで、その四肢はヴィル・シェーンハイトが容姿だけはと認めるレオナと並んでも遜色はない。それはBelという名の通り──”美しさ”を具現化したような男であった。
「アダム――テメェ、そりゃなんのつもりだ」
「おや、レオナくん。どうかしたかい?」
「グルル……それで隠しているつもりなら、テメェの実力もたかが知れてんだがな。クソ野郎」
 原初の人間の名を抱き、オクタヴィネル寮の腕章を付けた彼はその鋭い牙を剥き出しにして唸るレオナをそれでも一切気にせずに一歩一歩輪の中心へと歩み寄る。彼の視線は中心に力無く横たわる、彼の寮長へと注がれていた。 「クソみてえなその匂いに、今まで気付かなかった自分が信じられねえぜ――シェタニが人間の真似事か?」
 張り詰めた緊張の緩みとともに現れた学友とそれに対する微かな戸惑いは、その一言で一瞬で緊張へと移り変わった。シェタニ、ディアボロス、トイフェル、サタン――それは古今東西様々な名で呼ばれているが、時を経ても変わらず悪魔を指し示す言葉である。NRCにも在籍する妖精族とは一線を画したそれは、世界の始まりたる混沌に唯一存在していたとされるアン・ノウン。世界の生み出し手たる「神」に嫌われた彼らが何処にいったのかを我々は知らず、ソレは永き時を揺蕩い、「神」の似姿たるヒトを誑かし、欲を叶えることで人の核たる魂を食らうのだという。闇より出でて、なにも生み出さぬその身のためにただ人を喰らう悍ましい混沌。魂を持たぬ汚泥は皮肉にも美しい姿でその場に立っていた。
「おやマァ、嫌われたものだ」と。男は飄々とそう溢す。その表情には正体がバレた焦燥も狼狽も何一つとして存在していなかった。「そう怪訝にするなよ、[]はお前らと同じ学生じゃないか」
 そうだ。目の前にいるこの男をレオナも、そしてこの場に残るあの生徒も知っている。アダム・デ・ベル=ペオール。輝石の国に連なる大連邦国 塔槍の王国の第一王子にして王位継承権第一位。レオナが喉から手が出るほどに欲するものを、かの男は完璧に兼ね備えていた。それでも彼との関係は悪くなかったのは彼が王族としてその立場から他者を踏み込まず、そして他者に踏み込ませなかったからだ。彼は正しくこの学びの場に一学生として存在していた――まさにたった今この時までは。
「一体いつから、輝石の国は悪魔に乗っ取られてやがったんだかなァ?それとも何か。元からあそこは悪魔が支配している国だとでも曰うか」
「さてなァ。マァ、気にするな。邪魔をせぬならお前たちに興味はない────なァ、アズール。アズール・アーシェングロット」
 それは柔らかな声だった。まるで愛し子を見つけた母のように、愛しい女を見つけた男のように。そして、イヴを見つけた蛇のように──警戒心を抱かせぬ優しく穏やかな声だった。
「アズール、あァ可哀想に。負けてしまったなァ」
「ッチィ!平伏しろ、王者の咆──」
「これは契約に基づく履行だ。わかるだろう?“レオナ・キングスカラー”」
 ヒタリとレオナの身体が壁に阻まれたかの如く動きを止めた。悪魔との契約。誰にも、悪魔にさえも破棄ができないその契約を破棄する手法はただ一つ。「オイ!テメェら、誰かあいつの"トゥルー・ネーム"を知らねえのか!」
 動きの阻まれたレオナは、声を荒げて叫ぶ。目の前の男の目的がどうやらアズールであることは明らかであった。得体の知れぬ異邦人のままごとのような騒音を魔法を用いて妨げることなく、この計画に参加したのはアズールという後輩へのちゃちな借りを重くみたわけではない。それは、順当に成功を修め続ける後輩への些細な嫌がらせであり、レオナにとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。可愛さなどは欠片も存在しないが腐っても後輩である子供をクソッタレな悪魔に差し出すなど、そのようなことは断じて意図していなかった。
「ンなもん、知るわけがねえっスよ!」
「残念ながら!」
「知らねー!」
 悪魔の圧に圧倒されている一年や数多の学生たちに反して、寮長に近しい位置にある彼らがなんとか返答を行うがもちろん真実の名を知るものはいない。そこにダメ押しのように男は声をかける。「あァ、名による破棄も無効だぞ」
 それは絶望を伴う言葉であった。古今東西、悪魔を退ける方法とは悪魔の真実の名を突き止めることだと相場が決まっている。しかし、アダムは──これが偽名であることは、既に明らかである──それを否定した。
「ナァ、アズール。お前に俺は真名を掛けて契約を行ったものなァ」
「──ええ、そうでしたね。アダムさん」
 アズールはオーバーブロットの直後の、魔力を使い切った気怠いであろう身体をふらりと覚束ない様子で動かした。支えようと手を伸ばした二つの影を制したのは確かに彼自身の意思であった。
 
「さあ、”アズール・アーシェングロット”──契約履行の時間だ」

 “アダム”の姿が歪み、捻れ、裏返り──次の瞬間その場にいたのは美しい、どこまでも美しい人ならざる存在だった。海に反射された光に輝くブロンドヘアは腰まで波打ち、雪のような白さをもつ肌に覆われた手足は長く細っそりとしていた。名だたる彫刻家の作った傑作ですら、それを見た後では価値を有さない。悪魔のその姿はこの世で見る何よりも美しかった――そして、悪魔は口を開く。
「お前の魂は美しい。これまで、そして、よくぞ ここまで、磨き上げたものだ。お前の努力を俺は否定しない。お前の魂の輝きを俺は否定しない。どのような手法であれ、どのような過程であれ、お前の魂はあの時、俺たちが契約を結んだ時とは比べようがないほどに輝いている」
 その声は悪魔の器の美しさに相応しく、聞くものの腰を砕き、恍惚とさせるものであった。オーバーブロットとの戦闘の後、抵抗するだけの精神力や魔力が欠けたものやそもそも未熟な者がぼーと悪魔に見惚れ、聞き惚れている。かの声には常に魅了の魔力が乗っていることに、辛うじて正気を保っていたレオナだけが気付いていたが、しかし、それは静止が可能という意味ではない。二本足で立つことがやっとな現状にただ目の前の残酷な現状を眺めるしかなかった。「さァ!」と、悪魔が大仰なふるまいで獲物[アズール]へと手を伸ばす。 
「この敗北で、その輝かしき魂に翳りが生まれてしまう前に、実りは収穫せねば。さようなら、アズール・アーシェングロット――悪魔の契約書<パクト・スント・セルヴァンダ>」
 男の言葉に従って、履行はなされる。アズールの魂はその珠玉の肉体から――――「……?」

「フフ…フフフ……アーーーハッハッハ!」

 そう声を上げたのは、今まさに魂を取られんとしていたアズールだった。 「ねえ、アダムさん。僕が貴方と契約した内容、覚えていらっしゃいますか?」
 彼はかすかにふらつきながら、しかし、己を確かに害そうとしていた悪魔へと近づき手を伸ばす。
「ああ、もちろん。”甲の魂が最も輝いた時期に、乙はその魂を貰い受ける。対価として、乙は友としてあることを誓う。”と君のユニーク魔法を用いた契約に、さらに私の名を持って二重契約を行った。残念ながら、君のユニーク魔法の媒介はおよそ破壊されてしまったようだが、僕の契約に従って──君の【黄金の契約書】はこの通り、復元が可能だ」
 悪魔の手に乗っているのは、一枚の契約書。先程アズールがオーバーブロットするきっかけとなったはずの契約書は、確かにそこに復元されていた。「ふ、ふふふ。」とアズールが思わずといったように笑いを零す。
「何がおかしいんだ?アズール・アーシェングロット」
「ああ、いえ、本当に気付いておられなかったんですね。貴方」
「――一体何を」
「それ、ちゃんと確認して下さい。魔法を用いて、隅々までですよ」
「!」
 その言葉に悪魔がその膨大な魔力を持って契約書を検分する。さすれば契約書の文字は浮き上がり、解かれる。それは消して契約書の破棄を意味せず、契約書は金の輝きとともに編みなおされる。そして再度一枚の契約書となったそれを、悪魔が読み上げる。「――甲の魂が最も輝いた時期に、乙はその魂を貰い受ける。対価として“甲と乙、何れかの生命が尽きるまで”、 乙は “甲を裏切らず、”その友としてあることを誓う──」
「──わかりますか?アダムさん。僕の魂に翳りが出ない限り、そして、その生命が尽きるまでは、貴方は僕の魂を喰らうことはできない。だって、そう、契約しましたよね。僕を裏切らぬ友としてあると。ねえ、悪魔のあなた」 悪魔の視線はその言葉に引き込まれるように、アズール・アーシェングロットの悪魔と対になる青空のようなブルー・アイをとらえた。その瞳はいつもと何ら変わらず、否、いつも以上に鋭く輝いている。己の敗北を糧に必ず立ち上がるのだと誓うその視線を悪魔はわずか十数年前に見た。そう、あれは、あの時深海の闇の中で見たのと同じ復讐に燃える瞳だった。
「僕があなたの期待をその魂で裏切らぬ限り、僕のそばにいると。あなた、そう約束[契約]しましたよね?」
 シンとその場が静まり返る。その場にいる生徒たちは揃って思った──こいつ[・・・]やりやがった!
 悪魔を騙すなど誰が考えるのか。誰が実行するのか。しかし確かに、今この場で創造主に嫌われたアン・ノウンはただの人魚に先手を打たれている。レオナの額からたらりと汗が流れる。契約の一番最初から遣り込められていた悪魔が一体どう動くのかをきっと世界の誰もが知らない。そんなものは御伽噺にだって記されていない。次の瞬間に動き出せるように、魔法石が黒ずみオーバーブロッドも視野に入ったマジカル・ペンをレオナはぐっと構えた。
 
「ア――――ッハッハッハッ!」

 しかし、生じたのは空気が破裂するような大爆笑だった。「スゴいなあ!スゴいなあ!」と、まるで大好きなおじたんの言葉に反応した子ライオンのような無邪気な喜びで悪魔は満面の笑顔を浮かべていた。
「アズール・アーシェングロット!君はまだ自分の魂が輝き続けると確信を持っているわけだ!ああ、たしかに。確かに、今もなおお前の魂はフローライトのように色味を変え、翳りの一つすら見受けられない。そうだな。そうだとも。敗北を経てもなお、お前の魂は一等美しい」
 そうして、美しい悪魔は恍惚とした笑みを歪める。 「ああ、ああ。やっぱりお前の魂が欲しいナァ……」
 その本質をさらけ出した欲と混沌、じっとりとした言葉に周囲の背には悪寒が走るが、しかし、アズールはいつもの微笑を浮かべてさえいる。
「ええ、ええ、差し上げますよ。人魚たる僕が、死を迎えて泡になろうとするその瞬間にね」
 自身の魂を至極当然のように対価として差し出すと宣言をして、そうして人魚は嗤ってみせる。「それまで、お前が僕を裏切ることは契約によって許されない。そうだろう、僕の最愛の友よ」
 
 「楽しかったから、これは僕のサービスだ」と、悪魔は小さく指を振るった。一瞬の内に時が戻り、美しく洗練された室内とアズールの姿は(魔法石の黒ずみはそのままであったが)元通りとなった。一方で、周囲の生徒の服は汚れ切ったままである。露骨な扱いの差に、しかし、この程度で済んでよかったとレオナは小さく息をついた。
 「ハ、いいのか?お前程の力があれば、アズールの黄金の契約書程度破棄することくらい簡単だろうに」と。しかし、露骨なそれが気には喰わないので余計な言葉が口をつくのはNRCのご愛嬌だ。悪魔から美しき第一王子へと戻ったアダムは、悪魔であることを完全に消し去ったいつもの形で微笑んでいる。
「私たちはね、お前たちヒトのように、思い通りにいかないからと契約を破棄などしないのさ。たとえそれが小指一つで可能だとしてもね」しかし、その言葉は間違いなく悪魔のもので、すべての原因となった一年生らは小さく息を呑む。「――さあ、アダムさん、手伝ってください」
「もちろんだよ、アズールくん。まずは、サバナクローへの食事の請求書を作らなくてはね!」
 その言葉にレオナが大きくため息をついた。



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