これのつづき

「僕はやっぱり、きみのことが好きみたいだ」
 あの日、リネの柔らかく細められた瞳に見つめられて、自分の息が止まりそうになったことを今でも覚えている。
 普段から彼が口にする砂糖菓子のように甘い囁きには、骨の髄まで溶かされないように心の淵に防波堤を建てて、つとめて粛々と淡々とやり過ごしてきた。たとえどんなに自分の鼓動が踊りだして本心からときめきを感じようとも、彼の甘い誘い文句はあくまでパフォーマンスの一部であり、彼から与えられる喜びや興奮はわたしだけでなく観衆全員に平等に与えられているものなのだと自分に言い聞かせていた。決して、自惚れないようにしていた。
「リネもそういうこと言うんだね」
「……ちょっと、からかうのはやめて。真面目に言ったのに」
「うん、わかってるよ」
 普段の気障ったらしい煽てや魅惑的な常套句でもない、ただ好きだと真摯に伝えるためのまるで飾り気のないセリフ。それが、ふとリネの本心から零れ落ちたものだということは、本当の彼を理解しようとせずに予防線を張っていた臆病なわたしにもすぐ理解できる。目の前にいる彼は、稀代の魔術師でも魅惑のトリックスターでもなく、ただの等身大の男の子だ。初々しく顔を赤らめて、藤色の瞳を揺らして所在なさげに視線を彷徨わせて、からかうなと怒るけれど口調は至って優し気なままの、リネだった。
「リネ」
「うん」
「わたしもリネのことが好きだよ」
 星屑のような氷砂糖がいっぱいに詰められた瓶の底にあって、甘い砂糖の粒を掬おうと揺すろうとも、とうてい手に入れることができない。いつしかリネの本心のことをそんな風に思っていた。
 あの日、とうてい手に入れることができないだろうと諦めかけていた彼の本音に触れられたとき、わたしの世界は一度滅んでそれから全く違う世界に生まれ変わった。強烈なまじないをかけられたように鮮やかで、醒めない夢をずっと見ているように幻想的で、けれどもたしかに彼のこころと繋がれたのは紛れもなく現実だ。

 一般的に、そういう意味での好意を伝えられたら、とりあえずよほどの支障をきたしたり事情を挟まない限り、当人たちは恋人関係になるのだろう。だろう、というのはつまりわたしには過去そのような経緯で付き合った人もおらず、何んとなく知っている世俗的な知識で判断しているのだが、果たしてわたしたちもそのような関係性にすんなり昇華できるのかというと実感がない。
 リネとはもともとビジネスの関係があり、ホテル・ドゥボールで行われるリネとリネットのマジックショーを企画し手筈を整えるの従業員がわたしである。以前まではたまに三人で当日のショーの進行や運搬についての打ち合わせをしたり、というより打ち合わせという名のティータイムに興じるだけの間柄で、日々街頭公演やリハーサル準備などに忙しなくしているふたりとまめに顔を合わせることはなかった。彼らは大歌劇場での公演も控えているスターでもあるし、替えの利くしがないホテルスタッフの自分とは時間の濃密さが違う。
 おそらく自分はあの日からリネと恋人同士になったはずだけれど……やはり、中々実感が沸き起らなかったのは、今までの生活の中身がほとんど変わらなかったからだろう。リネと打ち合わせをしているときは、彼の妹のリネットも当然同席しているし、付き合いたての恋人らしい甘々しい雰囲気になる気配は全くない。たまの休暇にリネとふたりでフォンテーヌ廷の街中を散策していても、本来からリネがつねに愛嬌と甘美な言葉を振る舞う性質なので、彼にエスコートされるわたしもそれにはすっかり慣れ切ってしまっていて……恋人らしい振る舞いとは以前までのとは一体何が違うのか。はっきりとしない。
 とはいっても、わたしがこの現状にもどかしい不満や深刻な悩みを抱えているのかといえば、決してそんなことはない。わたしにとってはリネと本心から信じあえる関係性になれたことが奇跡のサプライズなのだ。これ以上を彼に何かを望むほど傲慢になれないし、求めすぎた結果彼の重荷になるくらいなら別れた方がマシだ。
「僕はもっとワガママを言ったってかまわないのに、と思うけど……」
 ペールスを抱きかかえながら浜辺に座り込むフレミネの絹糸のような髪の先に、燦燦とした日の光が照り付けている。項垂れた前髪の奥からおずおずとそばかすの乗った白い顔を覗かせ、彼はわたしを眩しそうに見上げていた。
 わたしとリネが恋人同士になったことは、リネの家族であるリネットやフレミネにとっても周知の事実であった。隠すつもりはないのだが、こちらから報告するより前にいつの間にかふたりが知っていたと表現するのが正しい。リネットに至っては付き合う以前からわたしたちを見届けてくれた本人でもある。
「……そうかな、今でもじゅうぶんワガママだよ」
「相手にもっと自分がしたいことを伝えてもいいのになって……そ、その、ふたりは、こ、恋人なんだし」
 自分が言ったそばからフレミネはたちまち頬を赤らめて、気を取り直すようにペールスを抱える腕に力を込めた。ペールスがすこし窮屈そうに身を捩らせる。
 したいこと……。フレミネの言葉を頭の中で復唱する。わたしはリネと何がしたいのだろう。悶々と考え込む脳裏に大好きなリネの顔が次から次へと浮かび上がっては消えていく。リネのことを考えることは今まで数えきれないほどあっても、わたしがリネと何がしたいのかなんて考えたこともなかった。
「僕もひととうまくつき合うことは得意な方じゃないし、相手の気持ちを汲み取ることも相手を喜ばすこともいつだって難しいなと思う。でも、だからこそ、自分が相手とどうなりたいかを伝えられるのが大切なんじゃないかな」
 生臭さの残る潮の香りと絶え間ないさざ波の音、フレミネの優しい囁き声。彼の言葉が砂利だらけの足のすねに零れてそのまま内側へ溶けていく。僕なんかが偉そうに喋ってごめん。茫然とするわたしにフレミネは慌てて声を上げ、わたしは小さく笑った。

 フレミネと話したことをたまに思い出しては、宙を見上げぼんやりとして、けれどもこれといった明確な答えが出ないまま日は過ぎていった。
 その間、フォンテーヌ全域を揺るがす災いが発生し、国中の大混乱ののちに水神は玉座を降りた。原始胎海の水が陸地を浸しはじめたあの日からリネたち壁炉の家の者たちは被災地の人命救助に赴き、そして何やら彼らのはかりごとのため忙しなく駆け回っていたので、中々落ち着いて顔を見て話すタイミングもつかめなかった。
 かつてからの予言を覆したフォンテーヌには平和な風が吹き始めている。人々が平穏と安泰の生活を取り戻したころ、ホテル・ドゥボールも通常通りの営業を再開し贅を極めた安息を目当てに客足が回復していた。今まで水面下で張りつめていた不安と緊張の糸が切れたせいか、祝杯のムードを纏い美酒と美食を堪能する紳士淑女や、スチームバード社が連日報道するフォンテーヌ科学院の技巧力について熱弁を語る若者たちなど、ホテルのラウンジは以前にはない異様な雰囲気に包まれている。
 忙しなさで本当に目が回りそうだと接待係のアルガリアさんが弱音を零したきっかけから、ここ最近はわたしもウェイトレス服に身を包みレストランで働いていた。ショーゲストを招待し企画運営する係であるわたしの本来の職務範囲ではないものの、ようやく型にはまってきたものだ。名物のスイーツセットを客のテーブルに運び、酒を卸し、テーブルクロスを下げ……そんな一日を繰り返してもう三度目になる。
「今日はアレの日らしいね」
「アレ?」
「われらが大魔術師リネとリネットのマジックショーよ」
 出勤前の従業員用のロッカールームで意気揚々と話しかけてきたアルガリアさんの言葉に、制服に着替えていたわたしの手が止まった。とっさに頭の隅で今日の日付を思い出す。彼らと公演のスケジュールを打ち合わせてステージをブッキングしたのはまさにわたしなのだが、ここ数日はもっぱらレストランの給仕係に専念していたのもあり、今の今まで今日がその公演の日だということを綺麗に忘れていた。
「タイミングよかったら後ろの方で観られるかもしれないわ。ねえ、あなたも観たいでしょう?彼らのショーは久しぶりだもの」
 ハミングでも口ずさみそうな彼女に曖昧な笑みしか浮かべられない。その大魔術師リネとつい先日恋人関係になったのだとは、熱心なショーファンである彼女に知られるわけにもいかない。彼女だけでなく、このホテルに集う人々、道行く人々、フォンテーヌじゅうの国民に伏せられるべきことなのではないだろうか。
 そういえば、最後にリネと会ったのはいつだっけ。
 
 リネとリネットのマジックショーの公演は不定期で、ホテル・ドゥボールでは予告なしに行われることがほとんどである。偶然居合わせた客にとって彼らのショーを観ることは特大のサプライズプレゼントであり、勤務中のホテルスタッフにとってもそれはささやかな楽しみでもある。
 日が西に傾きかけたころ、これからショーを控えるレストランの客入りはまばらで優雅に紅茶を味わうにはふさわしいのどかな空気が流れていた。豪奢な造りのラウンジの向こう、従業員用の通路には特徴的なタキシード衣装を身につけた双子の姿が遠目に見える。あまりに距離が離れていたためか、彼らがこちらの視線に気がつくことはなかった。
「きみ、これをあそこのテーブルに運んできてくれないか」
「あ、はい」ぼんやりとしていたわたしに料理人の声が飛ぶ。配膳トレーの上にはオレンジ、黄緑、ピンクとカラフルなマカロンが見目好く積まれていた。アイシングと果実のピールが乗ったなだらかな表面に天井のシャンデリラが煌々と照らしている。「美味しそう……」思わず本音が零れ落ちた。
「これは今シーズンから始めた新作だよ。甘いもの好きかい?」
「はい、大好きです。ここのスイーツはどれも魅力的に見えます」
「見えるって、食べたことはないのか」彼は訝しげにわたしを見やった。「お客様に提供するものなのに自分が味を知らないなんてダメじゃないか。勤務時間が終わったら厨房に寄るといい。定番のアソートを用意しておくよ」
「えっ、いいんですか?」
 配膳トレーを受け取り立ち尽くすわたしに、彼はいたずら気に口の端を上げた。常日ごろ黙々とオーダーを捌いている彼を厨房の外から見かけるだけだったので、まさかこんな親切心で提案されることは露も思わずわたしは面食らってしまった。喋れば意外にも慣れ親しやすく茶目っ気のある人なのだと、目の前の彼の顔をまじまじと見つめる。
 突然、背後からパアンと大きな破裂音のようなものが鳴った。鼓膜を震わしたその音源の元へ即座に振り向く。
 レストラン内の奥、中央の簡易ステージに双子が立っていた。リネが掲げた手の先にはクラッカーがある。クラッカーの口からは煙の名残が吐き出されており、床には銀テープの残骸が散らばっていた。
「お、もうマジックショーが始まるみたいだ」
 彼の言葉に頷く。クラッカーがリネの演出であっても、勤務中であることを思い出されるように冷や水をかけられた気分だ。そのとき、速やかにトレーを持って移動するわたしをショータイム中のリネが見ていたような気がしたけれど、ただの気のせいだろう。

「やあ、お嬢さん。これからお帰りかい?」
 一日の勤務が終わり、ホテルの裏口を抜けると、物陰から気さくな声に呼び止められた。
「リネ!びっくりした」
「ふふふ、驚かせようと思ったんだ」
 均一に刈り揃えられた植え込みの奥から、にこやかな笑みを浮かべたリネがこちらに向けて手を振る。帳の落ちた閑寂な夜の街、壇上のスポットライトの代わりにべたついた色の街灯が彼の顔を照らしつけていた。
 辺りを見回しても、リネットの姿はない。どうやらリネはひとりでわたしの退勤を待っていたのだと察すると、途端に胸の内側がむず痒くなる。今わたしに充てられているこの優しさはわたしだけの特別なものなのだと、こちらを穏やかに見つめるリネの顔を見ては自惚れずにいられなかった。
「ごめん、待っていたなんて知らなくて……」
「僕がしたくてしてたから気にしないでよ。それでも今日は何だか出てくるのが遅かったね」
「うん。レストランの人の厚意でスイーツをいただいていたから」
 極上のスイーツアソートの甘やかな刺激が未だ舌先に余韻を残している。特別に味わうことのできたささやかな至福の時間を思い出すと、自然と口角が上がっていく。
「……ふうん」浮ついた様子を隠そうとしない自分とは相反して、リネの瞳は急激に冷えていった。それは、氷点下の湖の水面が凍るよりも速かった。
「り、リネ?」
「ねえ、それって昼間にもきみに話しかけていた料理人と?」
「え?」
 思いもよらないリネの言葉に思考が止まる。二度瞬きを繰り返し、リネの顔を見つめた。何とも不服そうに口元を歪ませて、ガラス玉のような丸い瞳をじっとりと細めている。
「え、えっと……そうだけど、リネ見てたんだね」
「見てたよ。僕のショーが始まろうとしてたのにずいぶん楽しそうに話してたよね」
「楽しそうだったかな」
「だったよ!」
 荒げたリネの声が回廊の暗がりへ木霊していく。彼のこんな姿を今まで見たことがあるだろうか。ショータイム中はおろか、家族の前でさえ己の余裕を崩そうとしないリネがこんな風に取り乱すのは本当に珍しい。未知の生き物に遭遇したようにしばらく呆気にとられ、それから一体どうしたのだろうかと疑問が生まれた。
「………ごめん、取り乱しちゃった」
 リネはバツが悪そうにハットのひさしを目深に下ろした。空気の流れの停滞を感じるほど気まずい沈黙が続き、少ししてからはあと深いため息が聞こえる。
「何だか僕はきみの前だとすっごくわがままになっちゃうな」
 わたしを映す透き通った藤色の虹彩が、きらりと、みずみずしく光沢を放った真珠貝のようだった。
 いつだったか、浜辺で話したフレミネとの会話を思い出す。──ワガママを言ったってかまわないのに。わたしに語りかけていたフレミネの声が耳の奥で反芻する。わたしとリネの両方を見て、フレミネはもどかしく思っていたのだろうか。彼が告げた言葉の意味が今になってすとんと腑に落ちた気がした。
「わがままでいいよ。リネにはわがままになってほしい」
 本当は甘え下手でいつも周りに気を使っているリネが、わたしに本音をさらけ出してわがままになってくれたら、それはテイワットじゅうのどんな甘美なスイーツよりも価値のあるものなんだろう。わたしがリネに求めていることはきっとこういうことなのだ。これから先も、ずっとリネがありのままでいて、他の誰にも言いづらいことをわたしにはしてしまうような、そんなふたりの姿を望んでいる。
 口を開けて呆気にとられたリネは、呆然とわたしを見つめて、それから吹っ切れたように笑った。やっぱりきみには敵わないね。リネにつられてわたしも笑った。頬を撫でる風は冷たいのにお腹の底から熱くなるのを感じて、わたしの方こそリネには敵わないのだと、きちんと伝えなくてはいけない。

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