つらつらと流れるように気取った常套句を口ずさみ、つねにその熟練に研ぎ上げられた一挙手一投足で、こちらの関心をすべからく奪っていく。まるで恋人や親友に見せる親身な振る舞いで、甘美に酔えるほど居心地のよい空間を創り出してくれる。──かと思えば、遠く離れた壇上から一方的にこちらを見下ろされているような、空疎な距離感をにわかに覚える。何度か会って会話をして、ほどよく距離を詰められたと思い込んでも、噛み合っていたと思っていた視線はじつはフェイクか幻想だったのではないかと、離れてから疑問を抱くことがある。
 リネに対するわたしの所感はそんなものである。フォンテーヌ廷の端、主幹の水運に挟まれた小道沿いに住まいを移してから、もう二年は経つ。新進気鋭の大魔術師のことを知ったのも、最初は目抜き通りのゲリラ公演や予約完売の歌劇場のショータイムの実績など、噂程度に聞きかじったくらいだった。リネの名声をしかと聞き及んでいたものの、彼の舞台まで足を運び直接彼を知ることは、この二年長らくなかった。
 それゆえ、リネ本人と出会ったのはわりと最近のことで、初対面には、幼げが残る容姿とはかけ離れた洗練された身のこなしや、取り沙汰されるのも頷けるマジックの技量ばかりに目がいって、甘い笑みを浮かべるトリックスターに親しみやすさまでも覚えていた。徐々に、その感覚が一種の幻覚なんじゃないかと──わたしたちはずっと舞台上の虚像ばかりを本物だと信じていて、リネという人物の事実はまったく明かされていないのではないかと、考えるようになった。魔術師のふたりがホテル・ドゥボールで不定期に公演を持つようになり、いち従業員のわたしが彼らとつどつど話すようになってから、得られた所感である。
 今日も例のように、ディナータイムに予定されたショーの段取りを確認するはずだった。大道具の搬送、スポットライトのタイミング、観客席までの距離など、あらかじめリネが構想していたものを、わたしは確認して手配する係である。ラウンジのはしっこのひと席には、リネが作成したタイムスケジュール表と、氷の入ったチェイサーが人数分、さらに糖分を欲しがっていたリネットのために手配したケーキがひとつ……打ち合わせも毎度のことで形骸化しており、アフタヌーンのティータイムのような空気が流れているのが実情だった。
 珍しく、来たのはリネットひとりだった。聞けば、出掛けに舞台装置のトラブルが発覚し、急なメンテナンスの対応をしているとか……お兄ちゃんは遅れて来るから、と打ち合わせ用の書類をこちらに渡してきたリネットは、お咎め役がいないことを幸いに満足気にケーキを頬張っている。
「メンテナンスって、大丈夫?時間がかかりそうなのかな」
「使い続けていれば壊れてしまうのはよくあること。お兄ちゃんは慣れてるから大丈夫」
「そうなんだ」手元のタイムスケジュールに目を通す。癖のある丸みを帯びた文字が紙一面に並び、理路整然と今夜の手順を示していた。「でも、特別話しておかないといけないことはなさそうだし、リネットもいるから、わざわざ来てもらうのも申し訳ないかも」
 リネットはしずかにフォークを動かす手を止めて、こちらを見つめた。兄と同じ、気高く光るアメジストの瞳。
「それはお兄ちゃんが嫌がると思う」
「嫌がる?」
「うん。お兄ちゃんは毎回この時間を楽しみにしているから」
 リネットの言葉にピンと来るものがなく、小首を傾げてひとり悶々としていると、「私もあなたとお茶するの、いつも楽しみにしてる」と淡々とした声で告げられ、「ケーキお代わりしてもいい?」と続いた。前段の言葉はケーキのために言われたようにも感じたが、こういうリネットのおねだりには逆らえない性格なので、仕方なしにテーブルのベルを鳴らす。
 リネットがふたつ目のケーキを完食すると同時に、急ぎ足のリネが現れた。リネはわたしに向けて遅刻を詫びて、妹の目の前の空き皿を見つけて一言二言注意をした。それから、忙しなく打ち合わせの席に座ったので、とうとうわたしは本人に尋ねることはできなかった。この時間を楽しみにしてるというのは、一体どういう意味なの?と。

 このあと時間あるかな、とディナーショー後のリネに呼び止められ、数秒、時間が止まったように面食らった。ショーの後はそそくさと片付けをして解散するリネから提案されるなんて、あまりに思いかげないものだった。予定は、なにもないけど……。口篭るように答えると、彼は溌剌とした声で返事をする。よかった、じゃあホテルの外で待っていてくれるかな。それだけ言って、その場を駆け出していったリネ。──はて。何が起こっているのだろう。奇遇なことに、今日の勤務時間はこれで終いだった。
 従業員服を着替えてからホテルのエントランスを抜けて、植え込みのそばにあるベンチの前に赤と黒の燕尾服を見つけた。名前を呼ぶと、やさしい笑みを浮かべた彼と目が合う。
「やあ、お勤めお疲れ様。遅くにごめんね。疲れてない?」
「ううん、全然……そういうリネこそ、今日のショーもすごく良かったよ。影から見てたけど、リネがかっこよくて感動しちゃった」
 そう告げると、リネは虚をつかれたように瞳をぱちくりとして、一瞬、ただ呆然としていた。不自然に固まったリネに、今度はこちらが困惑をする。散々誰にでも言われてるような賛辞に、リネがいきなりフリーズする理由がわからないのだ。
「そっか……」
 黒いハットを深く被りなおし、いつもの愛嬌を忘れてすっかりしおらしくなってしまった彼に、どうすればいいかわからず、えっと……と口淀む。何とも言いがたい、じっとり停滞した空気がふたりの間を流れて──コホンッ。ついにリネがひとつ咳払いをした。
「来てもらったのは、きみに新しいマジックの実験台になってほしかったんだ」
「新しいマジック?」
「うん。お客さんに協力してもらう形の新ネタを考えたから、まずきみに感想を聞きたくて。とりあえず座って」
 そばのベンチに腰を下ろすと、リネは自分の両の手のひらを差し出してきた。白く薄べったい手のなかには何もない。目の前でそれを確認すると、彼は二度三度手のひらを翻して、パンと手を叩く。そのまま、神に祈るように両手を擦り合わせる。
「きみの好きな色は?」
「えっ?うーん……しいて言うなら、赤色かな」
 リネはにこりとはにかむと、合わせた手をずらして仰向けにさせた。すると、指の先から赤色のガラス玉が飛び出してくる。つるりと磨きあげられたガラス玉が、リネの右手の人差し指と中指のあいだに挟まれていた。
「すごい、どこから……」
「まだ完成じゃないよ。ねえ、きみの持ってるものと合わせてみて」
「わたしの?……あれ?」
 言われるがままに、自分の手のひらを確認すると、右手の人差し指には、透き通るように小粒に光る石を載せた指輪がはめられていた。いつの間に……不覚を取られた思いで指輪を見つめていると、コツンと、リネがガラス玉を当てた。見る見るうちにガラス玉の赤色が滲みだし、指輪の石が同じ色に染まっていった。
「わあ……」
「どう?気に入った?」
「うん、本当に綺麗だね」
 街灯の光に照らすと、真紅に染まった石の光がつやつやと、清虚な湖畔の水面のように穏やかに、輝いている。炎神の瞳の色も想起させるが、実際は十分の一ぐらいの大きさだろうか……なぜだか、その石には不思議な力が込められている気がしてならない。
「リネ、これすごいね。きっとみんなも魅了されると思うよ」
「……そっか、うん。だったら安心だ」
 リネは一拍遅れて、ほっとしたような笑みを見せた。リネのその振る舞いが当事者らしからないもので、まるで他人事のように言った台詞が気になってしまった。
「どうしたの?リネが考えたマジックなのに、嬉しくないの?」
「まさか、きみにこんなに喜んでもらえるなら嬉しいことこの上ないよ」リネは言葉を探すように、躊躇いがちに続けた。「ただ……このマジックは他の誰にも見せる予定はないんだ」
「どうして?」
「どうしてって……それは、きみに見せたかっただけだから。実験台っていうのも建前で、お客さんの前でやるつもりは最初からないよ」
 深く、胸の奥底にリネの言葉が落ちてくる。リネの声で、つとめて真摯に紡がれたその言葉は、わたしの頭を撹乱させた。──リネはわたしに?それはなぜ?どんなにリネの言葉の意図を測ろうとしても、何も理解することができない。リネは……リネのことは、わたしは何も理解できていないはずだから。
「それはリネの本音?それとも、みんなにも言ってるの?」
 ハッとした顔のリネと目が合う。リネの表情で、自分が何を言ってしまったのか気がついた。けれども、わたしの口からは、傾けたボトルから水が流れる容易さで言葉が溢れてくる。
「リネに嬉しいことを言われても、なんでだろう、素直に喜べないの。いつもリネの本心がわからなくて、リネが笑いかけてくれるのはパフォーマンスのひとつだって……わたしだけじゃなくて、みんなに平等に分け与えているものだって知ってるから」
「そんなこと──……」リネは何かを言いかけて、しかし、その先を続けることはなかった。目線を下げ、暗がりのなかの足元を見下ろしている。「そうかもね。全部、僕の自業自得だ」
「リネ、あの」
「ごめん!なんか空気重くなっちゃったね。もう暗いし解散しよっか」
 リネのわざとらしく明るい声が、わたしの体を突き刺す。言うはずもなかった自分の独りよがりな感情をぶつけてしまって、最後に残ったのは爽快感とは程遠い、苦々しい後悔の味だけだ。じゃあ、またね。軽快にリネのブーツが石畳を蹴っていく音を聴きながら、わたしは呆然と立ち尽くした。
 指元から、赤い石の指輪が惨めなわたしを照らしつけている。目に見える美しさは簡単にその存在を認められるのに、彼の胸中は何も見えず信じることもできない。リネがそういう人だからではない。きっと、わたしが臆病で覚悟がないだけだからだ。

 気分がどんなものであれ、易々と仕事を休むことはできないのだが、今朝はいつにも増して起き上がるのがつらかった。ホテル・ドゥボールのマジックショーの予定は、カレンダー上だと二週先に入っていたため、迂闊に壁炉の家の近くを通らなければリネと鉢合わせることはない。それに、仮に顔を合わせてしまったとて、リネの性格上まるで何事もなかったように上手く接してくるだろう。──ただ、リネに言ってしまったことに対する煮え切らない後悔が、粘りっこくわたしの体の内側にへばりついて離さない。
 いても立ってもいられず、しかし、彼との不和の解決のために何をすればいいのかもわからず、一日思い悩んだ果てに助っ人を呼んだ。この世でいちばん彼をよく知り、またわたしと彼のために助言をしてくれそうなのは、リネットの他にはいない。デザート付きでふたりでお茶しないかと直々で誘えば、クールな表情を変えず二つ返事で承諾された。そして約束の休日、正午過ぎに、カフェ・ルツェルンのテラス席でリネットと合流する。
「そう、納得した」
 あの夜の出来事を一から十までリネットに説明すると、彼女は小さく頷いた。
「納得?」
「最近お兄ちゃんの様子がすこしおかしかったから、きっとあなたと何かあったんだろうと思ってた。お兄ちゃんは妹の私にこういうこと話さないから、ちゃんと聞けてよかった」
「リネが……」
 リネの様子はどんな感じなのか気になったが、傷をつけた自分がずけずけと踏み込んでいいのだろうかと躊躇う。彼の内面から寄り添うつもりでいても、ただ脆いところを暴き、無闇に公然に晒すようなことしかできないのではないだろうか……。あれから随分と、リネと接することに臆病になっている。
「お兄ちゃんのことがこわい?」
 リネットの問いに、首を横に振る。
「お兄ちゃんのこと好き?」
 今度は、はっきりと頷いた。
「それはお兄ちゃんも同じよ。あなたのことを大切に思ってるのは紛れもなく事実。だけど、ふたりともそれに向き合うことを恐れてるし、諦めている。自分のハーネスばかり気にして、いつまでたっても飛べないスタントマンみたい」
 リネットの言葉が頭のなかで渦のように反芻する。
 事実……本当は、傷つけてしまうことを恐れていたのではなくて、彼の内面に触れてしまったせいで自分が傷つくことを恐れていたのかもしれない。リネから自分に対する感情は、きっと有象無象へのと変わらない取るに足りないものだと、勝手に予防線を張って、自分を防御していたつもりになっていた。その予防線自体が、リネを苦しめるものだと考え及ばずに。
 リネに謝らないといけない。そして、彼と向き合いたい。傷つくことを恐れずに、彼を信じてみたい。
「リネット……ありがとう」
「ううん……私もふたりが早く仲直りしてほしいと思ってる」
 自分の右手を見る。人差し指には、小さな赤い石が絶えず光り輝いている。

 一日の仕事が終わり、駆け足で歌劇場まで向かった。たしか、今夜のマジックショーの公演は一時間ほど前に終わっているはずだった。なんとか間に合えば、舞台の撤収作業をしているリネに会うことができる。
 人気もまばらなロビーで、忙しない息を落ち着かせて、目当ての彼のすがたを捜した。きょろきょろと辺りを見回すと、ちょうど裏部屋から出てきたらしい双子とアシスタントたちを発見する。
 ──リネ!気がついたら、口から彼の名前が飛び出していた。彼はこちらを振り返って、一瞬驚いたような顔をする。そして、ひさしぶりにわたしの名前をつぶやいた。
 パタパタとそちらへ駆け寄ると、状況を察したらしいリネットがアシスタントを連れてどこかへ去っていく。リネはすでにいつもと同じ、仮面のようなにこやかな笑みを繕っていた。彼の顔を形作る表情筋や微細な血色の様子が、ショータイム中のリネを模倣するように愛嬌を振り撒いて見せる。──けれども、どうしたってその藤色の瞳の奥には、不安とやるせなさが入り交じった感情がちらついている気がしてならなかった。
「きみが来るなんて思いがけないサプライズだ。どうしたの?今日はたしか仕事の日だったよね」
「リネ、その、話したいことがあって」
 すうっと、深く息を吸った。自分のなかの鼓動が暴れ出すように鳴り響いている。
「あの夜のこと、ごめんなさい。リネの言うことを信じられないなんて言って、リネを傷つけた」
「そんなのきみが気にすることじゃないよ。僕のことは大丈夫だから」
「もう隠さないでいいよ。リネのこと、何が事実かわからなくても、もう疑わないって決めたから」
 頭上から、かすかに息を呑む音が聞こえた。いつの間に自分の手に力が入っていたのか、強く握られた拳の中で、あの指輪がいたく締め付けている。
「……ううん、隠していてもいい。本音を言わなくてもいい。それでも、リネがくれるやさしさや好意は本物だって、わたしは信じてるから」
「……それでいつかきみが傷ついても?」
「リネになら、どんなに傷つけられたっていいよ。傷つくのを恐れてリネを避けるより、ちゃんとリネに向き合って傷つけられたい」
 リネは、何も言わず押し黙っていた。普段の饒舌な魔術師の彼はどこにも居ない。ここに居るのは、自分のことになると器用さを失って口下手になる、ただの男の子だ。彼が今見せている戸惑いや葛藤は、決してまやかしなんかじゃない。
 するりと、ふいにリネがわたしの手を取った。人差し指の指輪を指の腹でやさしく撫で回され、じんわりと温かな肌の感触に、握られた拳が自然とゆるく解れていく。そして、彼はわたしの手の甲を持ち上げて、軽い口付けを落とした。小さなリップ音をたてて、幼い子どものような笑顔で彼は言う。僕はやっぱり、きみのことが好きみたいだ。

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