「じゃあ、帰るね」

男はそう言い放つとベッドの周りにだらしなく落ちたシャツを淡々と拾って着替えてゆく。衣服の擦れる音が静寂な部屋に響き渡る。慣れた手つきで着替える男を横目で見れば、まるで無理矢理に服を着せられている猿みたいだな、とぼんやり思った。

男は視線に気付いたのか「なに?」と間抜けな顔で問うた。これ以上この部屋にいるな。早く帰れ。喉からその言葉が出掛かり、ぐっと飲み込んだ。
私は「なんでもない」と、淡白な返事で返せば男は気にする素振りもなくボトムスを履き、無機質な音を立ててベルトを締めていた。私はそれを確認した後、頭まですっぽり布団を被り、寝たふりをする。頭上からため息が聞こえた気がしたが、気にしない。

バタン、玄関のドアが閉まる音がした。
ーーようやく帰ったか。

上半身だけ起こして伸びをする。乱れた髪を適当に一つに結んで、ベッドから降りた。日差しが少しだけ透けたカーテンを開けると、今日は雲一つもない晴天。くらり、太陽の眩しさに耐えきれず目眩がしたので再びカーテンを閉めた。


洗面所に向かう。顔を洗って鏡を見ると自分の首元の印を見て幻滅した。

最悪。

もう顔だけではなく体全体を洗い流したい。そう思い、風呂場の浴槽の蛇口をひねり、湯を汲んだ。湯を溜めている間、お気に入りの匂いの石鹸を泡立てて、体の至る所を一つ一つ丁寧に洗う。特にさっきの男に触れられた箇所は入念に洗い流す。しかし、いくら良い香りがする石鹸で洗っても変わらないような気がして気持ち悪かった。

いつから、こうなってしまったのだろう。

目を瞑り、頭からシャワーを被りながら、男の事を思い出していた。
男は会社の同僚だ。以前、行われた飲み会で飲み過ぎたから部屋に泊まらせてくれ、としつこくせがまれた。あまりにも必死に頼むものだから、私は仕方なく泊める事にした。それからの事は自分も酔っていて覚えていない。
翌日の朝、裸で寝ていた自分と隣で眠る男を見て血の気が引いた。なんでこんな事になっているのだろうか。同僚の男は動揺していた私に気付いたのか、へらっと笑ってこう言った。

『大丈夫だよ。二人だけの秘密にしよう。だから、また泊まらせて、ね?』

断れば済む話だった。しかし、以前、断ると逆上して殴りかかったり、しつこく付き纏われて大変な思いをしたので仕方なく受け入れるようにした。はあ、長くて大きいため息を吐く。
擦りすぎて赤く腫れた首筋の跡を指でなぞる。しばらく跡が残るだろうか。嫌だな。鏡に映る自分がすごく汚らしく思えてつい目を逸らした。

この世は面倒な事ばかりだ。

湯船からお湯が溢れ出た音がして、慌てて蛇口を捻る。どれくらい考え込んでいたのだろうか、お湯がもったいない。
最近、薬局で買った少しだけ値が張る乳白色の入浴剤を入れて浴槽に足を入れた。ラベンダーの匂いに包まれてようやく気持ちが落ち着いて来た。やっぱりこの入浴剤にして良かったな。気分が良くなってきたので鼻歌を歌いながら浴槽の縁に寄り掛かかる。ああ、このまま溶けてしまいたい。

ふと、隣室からシャワーの音が聞こえた。

私は慌てて鼻歌をやめる。薄い壁で作られただけの風呂場や部屋は遠慮なく隣人の生活音が聞こえて来る。どうやら、隣人はシャワーを浴びているらしい。
目を閉じて、しばらく水の流れる音に耳を傾ける。
私はその生活音が何故か嫌ではなかった。むしろ、心地いいとさえ思っていた。
たまに一人でいると無性に押し潰れそうになる。そんな時に人が生きている『音』を聞くと何故か安心出来た。

シャワーの音が止まり、浴槽に浸かる音が聞こえた。隣の人も湯船に浸かってるのだろうか。
隣人は、恐らく男性だと思う。低い声で鼻歌を歌っているのを一度だけ聞いたことがあったから。

ーーなんだろ、変な感じ。隣人も湯船に浸かっている事を考えたら、自身も湯船の中にいる事が恥ずかしくなった。より一層、湯の中に体を沈め、振動で出来た波紋を見つめる。よくよく考えれば顔も知らない人なのに恥ずかしいだなんて馬鹿みたいだ。

のぼせたのかな、そんな事を思い、浴槽から出た。


見えない音に焦がれる





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