一人で生きてゆくのは容易い事だった。
何も執着せず、日々淡々と過ごしてゆけばいい。

大切な物など、この左目だけで充分。
誰かを愛するなんて左目を手に入れた代わりに捨てた。

この目で里を守るのがたった唯一、我が身を生かす糧だった。











、血生臭い。


鼻につく独特な匂いは、何年経っても慣れることはなかった。三代目からの命令で暗部から解任されたオレは少しの間上忍としての任務を遂行してきた。だが、単独での任務は今日で最後。明日から下忍担当上忍になる。

このオレが先生だなんて。

思わず苦笑いを浮かべて、血に濡れて染み込んだ重みのあるベストを脱ぎ捨てた。ドサリと音を立てて洗濯機の中に入ったそれは本来、草色のはずが褐色になっていた。染めたのは自分の血ではない。全て敵の血だ。

洗濯機の電源を入れると電子音が脱衣所に鳴り響き、微かな振動を立てて動き出す。本当は手洗いしてからの方が汚れは落ちるが、任務明けで疲労困憊の自分にはそんな気力など皆無だった。

それよりも一刻も早く、この不快な匂いを洗い流したい。

纏っている衣服を脱ぎ捨てて、洗いのマークが点灯している洗濯機へ次々と放り込む。裸になれば冷たい空気が肌に触れて思わず身震いした。寒さを堪えて風呂場に続く戸に手を掛けようとしたが、耳から入ってくる音にピタリと動きが止まる。

鼻歌…?

僅かだが、聞き取れる声は女の声だった。その声の主は恐らく隣人だ。柔く透き通る声は自分の身体に染み込んだ鉄錆の匂いと余りにも不釣り合いで笑ってしまう。
聞こえる曲は父が機嫌の良い時に口ずさんでいた曲だった。物心つく時には母がいなかったオレに父は何度もこの歌を聞かせてくれた。
だが、今はあの優しく厳しい父の声を聞くどころか、もう二度と会えない。なんとも言えない切なさが込み上げて、振り払うように手にかけていた戸を開けた。

シャワーの蛇口を捻り、頭から浴びる。身体に張り付いた匂いは幾ら石鹸で洗い流しても落ちる事はない、ずっと鼻の奥に染み付いて残ったままだ。

鬱陶しい。

諦めて、張っていた湯の中に足を入れる。気付けば隣人の鼻歌は聴こえなくなっていた。なんだ、もう少し聴いていたかったな。少し残念に思いながらも先程から頭にこびりついて離れないあの曲を口ずさんだ。

浴槽に身を委ねて少し熱めの湯に浸かっている間、ふと隣人のことを考える。
隣人は顔も知らなければ名も知らない。
ただ唯一に知っていることは、よく鼻歌を口ずさむ女、という事だけ。
隣の部屋と自室の間には薄い壁を隔てただけなので、容易く物音が耳に入る。普段は常に死と隣合わせに立ち、神経を張り詰めている自分にとっては何故かその生活音は心に安らぎを与えるものでもあった。

ふう、溜息か深呼吸か分からない大きな吐息が水面に揺れて、波紋を作った。
瞼を閉じるとこのまま眠りについてしまいそうだったので、慌てて浴槽を出た。


***


「なんで私だけを見てくれないの!?あなたの気持ちが分からないっ」

声を荒げてオレを睨みつける女は果たして、いつ出会った女だったか。記憶を辿ってもどの女の一人なのか検討もつかない。
じん、と広がる頬の痛みは先程この女が平手打ちしたもの。避けることは容易に出来たが、殴って気が済むのなら世話がないと思い、じっと堪えて受け入れた。

「なんで何も言わないの?」

俯き黙り込むオレにますます苛立ちを募らせる声色は変わらず荒々しい。
女はくノ一だった。起伏が激しく感情に左右されるのは、忍として如何なものだろうか。出しかけた言葉は火に油を注ぐだけなので、呑み込んだ。

それよりもそんな大声を出されたら近所迷惑でしょ。現に先程、隣の部屋から煩わしげに咳き込む声が耳に入った。
聞かれちゃったかな。隣人にはこの会話を聞いて欲しくない。なんとなくそう思ったオレは再び大声を上げようとする女を阻止しようと言葉を待たずに自身の唇を重ねた。

「だから、お前だけを見てるって言ってるでしょうが」

そう耳元で囁けば女はたちまち頬を赤らめさせ黙り込む。手っ取り早い方法はいつもこれだった。甘い言葉を吐き、抱き締めれば皆、単純に大人しくなり言う事を聞く。
所詮そんなものだ。そこに愛なんかなくても簡単に堕とせる。
女の首筋に顔を埋め、薄い皮膚に口付けると容易く赤い印が付いた。組み敷いた女を見下ろせば、真っ赤に頬を染めて恥じらいながら視線を逸らす。
さっきまで怒り狂っていたのになんて単純な女なんだ。冷めた気持ちで女を見つめ、何も感情もないその行為をただ繰り返した。








「お前ら全員、不合格」

言い放ったオレの言葉に目の前の三人は罰が悪そうに項垂れた。不合格を告げられた事がよほど気に食わないのか、三人共、納得できない目をオレに向けている。そんな顔しても結果は変わらないのに。オレを恨むのではなく己のチームワークを見直しなさいよ。
言いたかったが、それでも何が不合格なのかは告げなかった。自分達で気が付かなければ意味がない。オレは溜息を一つ溢し、背中に刺さる鋭い視線を感じながらも気にせず無視して去って行った。

仲間を大切にしないチームなんて、クズだ。直ぐに敵に見破られ隙をついた瞬間やられるに決まっている。だったら簡単に合格なんてさせない。そもそも意識の低い人間に忍なんて務まるはずがない。なんだったら、子供の内に忍をやめて貰った方がよっぽど良かった。こんな幼い子たちに悲しみや絶望を味わせたくない。そんな思いをするのは自分だけで十分だ。

三代目にアカデミーを卒業したての下忍を育てろと命じられてから数日が経つが、変わらず気乗りしないでいた。日の目を見ることのない暗部だったオレが明るい所での任務だなんてやはり考えられない。一生、暗部でいいくらいだったのに。
他にも相応しい人間はたくさんいたはずだ。それなのに何故、三代目がオレを下忍担当上忍にしたのか不思議でならなかった。

「のう、カカシ。お前、ちと厳し過ぎるんじゃないかの」

火影室に呼び出され、部屋に入るなり三代目はオレを一瞥すると深みのある声でオレを咎めた。呼び出される理由は自分でも見当はついていた。なかなか下忍合格をさせないオレに三代目は痺れを切らせているのだろう。

「カカシ、お前は厳し過ぎる。他人にもそうだが、もう少しばかり己にも優しくしても良いのではないか?」
「はぁ‥」

言っている意味が理解できず、曖昧な相槌を打つと三代目は目を細めて笑った。優しく厳しさを兼ね備えたその顔にはたくさんの皺が深く刻まれている。かつては神経を張り詰めらせ、顔を強張らせていた三代目も木の葉隠れが立て直り始めた今は穏やかな顔つきになりつつある。
真っ直ぐ見透かすような目を向ける三代目をまともに見れず、どうしたらいいのか戸惑い俯いた。

「下忍担当は一旦休め。代わりにカカシには違う任務を命ずる」
「ですが、」
「今のお前ではまだ無理じゃ」

三代目の重く威厳のある声にこれ以上、口答えなど出来なかった。優しい三代目の事だ。思い悩んだ自分を察して気を使ってくれているのだろう。火影とはどうしてこんなにも人の気持ちに寄り添う力をお持ちなのだろうか。

「…三代目の命であれば、御意」

オレの返事を聞いた三代目はふっと笑って頷いた。話は終わって用は済んだ。オレは頭を下げると踵を返して火影室を出た。
三代目が命じた任務は貴族の護衛だった。久しぶりのAランクの任務に身が引き締まる思いがする。無意識にすっと背筋が伸びた。

ふと窓に目をやればアカデミーの子供たちが組み手の練習をしている姿が見えた。
真剣な表情をする割には鈍い動きの組み手に、可愛らしく思えてつい口元が緩む。

できればあの子達が戦争など行くことのない平和な世界であって欲しい。
大切なものを失い、嘆き苦しむのは自分だけでいい。あの子達が迎える明るい未来にするためにはオレ達、大人がしっかりしないといけない。

ーーこの左目を譲り受けたからには意思を引き継ぎ、平和を守ってみせる。

決意を改め、視線を廊下に戻すと歩き出した。






帰宅途中、住んでいるアパートの前でふと立ち止まり見上げると、自室の隣のベランダには干された洗濯物が風に揺れていた。いつも同じ時間帯に洗濯が干され、いつの間にか取り込まれている規則正しい生活を考えると隣人は恐らく一般人か。
忍である職業柄、考察してしまう自分に苦笑いを浮かべる。
止まったままの足を動かして自室へ続く廊下を歩く。
ポケットから鍵を取り出してドアノブに差し込むと無機質な音を立てて開いた。扉をそっと開ければ、廊下から窺える家具も少ない殺風景の部屋が目に映り込んだ。

ただいま。

心の中で帰宅を告げる。当たり前だが、返事が聞こえる事などない。サンダルを脱いでリビングに続く廊下を歩けばひんやりと裸足から伝わる冷たい床にもうすぐ冬が訪れるのだと連想させた。
とりあえず渇いた喉を潤そうと思い、冷蔵庫から飲料水の入ったペットボトルを取り出す。
飲みながら冷蔵庫の中身を確認すれば使いかけの調味料だけで食料が何もない。後で買い出しに行かないといけないなぁ。面倒だなと嘆息を漏らすと、ふと隣の部屋から玄関の扉を開ける音が聞こえた。恐らく隣人が帰宅したのだろう。

なんだ、入れ違いだったか。顔を見られる良い機会だったのに。少しばかりがっかりして冷蔵庫の扉を閉めた。


飲みながらリビングまで向かい、ドサリと大きな音を立ててソファにもたれかかる。そうだ、本でも読もう。続きが気になるんだったと、ポケットに忍ばせた本を取り出して開いた。
しばらく耽読していると静寂な自室と反して隣の部屋からはパタパタと忙しく歩く足音が耳に入った。おまけに鼻歌まで口ずさんでいる。ベランダとリビングを行き来しているということは、洗濯物でも取り込んでいるのだろう。


平和が訪れたというべき、なのか。


大戦の傷が癒え始めて里はようやく静かで穏やかな日々を送りつつある。
一般人なら尚更、戦とは無縁に過ごしていたのだろう。ーーだが、それで良いのだ。そのために忍が存在するのだから。守るためにオレはここにいる。
悲しみを背負うのは俺たち忍だけで十分だ。

それでも大切な人達を失った悲しみは癒えることはなかった。どんなに綺麗事を並べても、事実は変わらない。ただ残酷に時が流れるだけ。
読みかけの本を閉じてソファの隅に置き、より腰を沈めて瞼を伏せた。脳裏に浮かび上がるのは父さん、オビト、リン、先生の顔。全て大切な人達だった。
どうしようもない感情が込み上げて喉の奥が詰まり息苦しい。頭から振り払おうと、いまだ聴こえる呑気な鼻歌を必死になって耳を傾けた。

本当、平和だ。

相変わらず隣人は顔も知らなければ名も知らない。ただ唯一知っていることと言えば、やはり、よく鼻歌を口ずさむ女、だ。

これからどんどん寒くなる冬が訪れるというのに、春の日差しのような温かい歌声を耳にしながらオレは眠りについた。


見えないあの子





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