「カカシとチフユ。どうしてお前らはいつもこうなっちまうかなぁ」 溜息混じりと共に煙草の煙を吐いたアスマは心底呆れた表情を浮かべていた。ふう、アスマの唇により吐かれた紫煙は舞い上がり、ゆっくりと霞んでゆく。煙の果てを暫し見つめた後、目の前に座るアスマに視線を移した。アスマの表情は変わらない。呆れた表情のままだ。ーーそんなのこっちが聞きたいくらいだ。 カカシと廊下で会った数日後、アスマは突然にして私の部屋に訪れた。意外な訪問者に驚いた私はやけに深刻そうな顔を浮かべるアスマにどうしたのと訊ねた。アスマは硬い表情を変えることなく、ここじゃなんだからと近くの居酒屋へと誘導した。なんとなくアスマが部屋に訪れた理由は分かっていた。話せない内容、それは恐らく隣の部屋の主の事だろう。 案の定、席に着いてから早々にアスマの口からカカシという名が出てきて、やはりそうだと確信した。 「で、お前はどうしたいわけ?」 「分からない。私はやるべき事をやったし、これ以上どうすればいいのか分からないよ」 アスマの質問に正直に答える。だってそうだ。 私はカカシに好きとちゃんと伝えた。そして、ちゃんと振られた。気持ちの整理も少しずつだが出来たし、これから順風満帆な日々を送る筈だった。 それなのに、カカシがあんな惑わす事を言うから。 今回ばかりは私ではなくカカシを責めるべきだ。そう反論した目をアスマに向けると私の言いたいことを察したのかアスマはまた一つ嘆息を漏らし、あのなぁと口を開いた。 「チフユが変わらないとお前らいつまで経っても平行線のままだぞ」 それでもいいのか。アスマの咎めるような強い口調に僅かに苛立つ。アスマこそ私とカカシにどうしろと言うのだ。 「私が変わってもカカシには彼女がいる。平行線なのは当たり前だよ、アスマ」 そうだ。カカシには付き合っている彼女がいる。しかもカカシと同じ忍の彼女。私が入り込む隙間など最初から無いのだ。アスマはそれをちゃんと理解して言っているのか。 「チフユ。それ、カカシに直接確かめたのか?またあの日みたいに突っ走ってるだけじゃねぇか?」 アスマが言うあの日とはカカシがいなくなると勝手に勘違いした私の事を指しているのだろう。だってあれは紅とアスマが大袈裟に言ったからでしょう。私は悪くない。何気なく頭で呟いたその言葉にはっと息を呑んだ。ーー私、人の所為にしてばかりだ。 思い込んだら周りが見えなくなってしまうのは私の悪い癖。思えば母にも自分が良いように解釈した結果、傷付けてしまった。 今回もそうだ。あの女性は髪は濡れてはいたもの、カカシの部屋にいた理由がちゃんとあったはず。カカシに確かめもせず勝手に彼女だと思い込んで、もしそうじゃないとしたらーー続く言葉に黙るしかなかった。 「アイツは滅多に弱さを見せないが、実は大切な仲間を何人も失っているんだ。そのせいか人に執着しなくなったアイツは言い寄る女がいれば受け入れて、何人とも付き合っていた。まあ、来る者拒まず去る者追わず、だな」 悪い。チフユは聞きたくなかった話だよな。アスマは申し訳なさそうに謝った。女性がらみの件はカカシの部屋から言い争うような声が聞こえていたのである程度予想はしていた。それよりもカカシには大切な仲間を失った事実があることに衝撃を受けた。カカシ、お父さんの他にも失った人がいるんだ。そう思うと胸がぎゅっと掴まれたように痛くなった。 「でもチフユと出会ってからアイツは変わった。付き合ってた奴らときっぱり別れて、カカシ自身もなんていうか、優しい目になった気がする」 ようやく穏やかな表情に戻ったアスマは私を真っ直ぐ見つめた。アスマは私と出会ってからカカシが変わったというが、それは違う。私こそカカシと出会ってから変わった。それが何なのか、良い事なのか悪い事なのか今は分からない。 「だが、今のアイツはまた前に戻りつつある。チフユ、話を聞いてやってくれ」 頼む。頭を下げるアスマに慌ててやめてと小さな声で止めた。ようやく頭を上げた彼は眉を下げてひどく窮した顔をしている。些細なことなど気にせず笑い飛ばすアスマがこんな顔するなんて。驚いた私は返す言葉が思い付かず、黙り込むしかなかった。 アスマにとってカカシは同僚でもあり大切な親友だ。二人の関係は私と出会うずっと前から続いているのだろう。かけがえのない仲間だからこそ、カカシを心配してアスマは私に頭を下げている。これ以上アスマの優しさを踏みにじる事は出来ない。 「…カカシ、今どこにいるの?」 「今日は非番だから家にいると思う」 ぽつりと呟く問い掛けにアスマは直ぐに答えた。そっか、家にいるんだ。なら、今しかない。平行線上にいる私達が交わる為には誰かが動くしかない。それはアスマでもなく紅でもない。…自分だ。 「私、カカシと話してくるね」 アスマを見て言うと、彼は悪いなと謝ってほっとした表情を浮かべた。 「ここは俺に奢らせろ、な?」 「…いいの?ありがとう」 その代わり頼んだぞ。私の背中をぽんと軽く叩いたアスマを見て苦笑いを浮かべる。期待に応えられるか私には分からない。けど私はカカシにちゃんと向き合って話をしないといけない。今度は逃げずにちゃんと。 アスマに叩かれた背中の感覚がまだ残っているなか、私は店を出た。 ーーああでも、やっぱり無理かも。 アパートに近付けば近付くほど徐々に弱気になってゆく自分がいて情けない。ふぅ、溜息なのか深呼吸なのか分からない吐いた白い息は夜空に溶け込むように消えた。 どんなにゆっくり歩いてもいつかは辿りついてしまうもので、アパートを前にしてぴたりと足を止めた。ふとアパートから見えるカカシの部屋を見上げるとカーテン越しの窓から漏れている明かりが見えた。アスマの言った通りカカシは部屋にいる。ぼんやりと浮かぶ照明器具の光を確認すれば、ますます心拍数が加速していった。 それでも、行かないと。 重い足取りで見慣れた自室の前を通り過ぎ、その奥の部屋の前で止まった。 落ち着かせようと深呼吸をしてから声には出さない気合いを入れて、恐る恐る玄関のチャイムを押した。呼び鈴の機械音が静まった空間に響き渡る。 暫く経ったあと、微かに玄関まで向かう足音が聞こえた。その音に反応してまたドキリと心臓が跳ね上がった。 「何?」 扉を開けて出て来たカカシの第一声はとても冷淡で淡白な声色だった。その声に思わず怖気付き、目の前の扉から一歩退きそうになる。 ここで逃げたら同じ事の繰り返しだ。無意識に握り拳を作りながら背の高いカカシを見上げる。彼は早く用件を言えと言わんばかりに冷たく鋭い目を私に向けていた。じわり、緊張のせいか手の内がうっすらと汗ばんでいてとても気持ち悪い。 「カカシとちゃんと話し合いたくて」 息を大きく吸い込んで発した割にはとても小さな声だった。微かに震えていた声だったが、カカシにちゃんと届いただろうか。変わらないカカシの表情を見て、つい不安を募らせた。 「…もうチフユとは話さないと決めたから」 投げるように放たれたその言葉には感情も何も込もっていなくて、これ以上話しかけるなと見えない線引きをされている気がした。 バタンと音を立てながら閉ざされた扉は拒絶を示す意味。目の前の彼が離れてゆく。怖い。気付けば足が震えていた。 『どうしてお前らはいつもこうなっちまうかなぁ』 溜息を吐きながら呆れた表情を浮かべるアスマの顔が頭に浮かんだ。そうだね。本当どうしていつもこうなってしまうのかな、私達。…ごめん、アスマ。やっぱり私には無理だよ。 帰らなくちゃ。 そう思うのに自身の足は自室に帰ろうとはせず、まるで床に張り付かれたように突っ立ったまま動けなかった。帰りたければすぐ横のドアを開けたら容易く帰ることが出来る。それなのに諦めきれない自分がいることに苦い感情が虚しく広がった。 開けてよ、カカシ。 目の前の扉にそっと指を這わすとひんやりと冷たい無機質の扉は自身の手の熱を直ぐに奪っていった。少しだけ汚れて色褪せた扉の色は自分の部屋と同じ見慣れた色。指先だけでは物足りなく思い、そっと手のひらを置けば扉の向こうの人物に会いたいとより強く胸が焦がれた。 「カカシ」 静寂なアパートの廊下に私の声が響き渡る。つんざくような静けさに耳が痛い。 暫く目を閉じて佇んでいると微かに嗚咽が漏れぬよう必死に声を押し殺しているような声が聞こえた。それはなんとなく扉の向こうの直ぐ側で彼が泣いているような気がして。 泣いてるの?そう声を掛けようとしても閉ざされた扉を目の前にして躊躇する私はなす術も無い。ぐっと喉に詰まった言葉を呑み込んだ。 ごめんね、カカシ。私、あなたのこと何も知らない。だから何も言えない。 気付けば寄り添うようにあの歌を口ずさんでいた。小さく微かに震えている自身の声は瞬く間もなく暗闇に溶け込み消えてゆく。 ねぇカカシ。忘れようとしたけどやっぱり私はあなたが好き。今までカカシに助けられてばっかりで頼りない私だけど、あなたの全てを知ってあなたの全てを受け入れたいの。だから、お願い。あなたを教えてよ。お願いだから。 口ずさんだ歌と一緒に涙が溢れ出て、思わず両手で顔を覆った。 「チフユ、」 名を呼ばれて顔を上げた。音を立てて開かれた扉の向こう側に立っていたのは恋い焦がれていた人物だった。玄関の照明で照らされた白銀の髪はゆらりと揺れて煌めく。視線を髪から顔に移すと見慣れた色違いの双眸から流れる物が目に入り無意識にびくりと肩が揺れた。 恐る恐る一歩、彼に近付く。露わになった頬まである傷を伝い止めどなく溢れる水にそっと指先で触れた。湿り気を帯びて指先を濡らす生温いそれは間違いなく涙だった。 彼の布越しの吐息が私の前髪を揺らす。私の視線に耐え切れなくなったのかカカシはそっと目を逸らした。 私よりずっと大きいはずなのに小さく体を丸めて苦しそうに涙を流し続けるこの男が堪らなく愛おしい。気付けば腕を広げて包み込むように抱き締めていた。埋めた彼の襟足から放つ香りはあの毛布と同じ優しい匂い。もう二度と離れないようにと抱き締める力を込めた。 カカシ、お願いだから私に全て委ねて寄り掛かってよ。私にあなたを守らせてよ。分からないから側にいさせてよ。 未だ背中越しで泣く彼はそっと縋るように私を抱き締め返した。 |