「ごめんなさいね。カカシは峠を越えたから大丈夫だって言うつもりだったのだけど、チフユが走って行ってしまったから言えなかったの」 「すまねぇな。チフユがあまりにも切迫詰まった顔してたから面白くなっちまって言えなかった」 カカシのいる病室から出た後、紅とアスマはロビーで私が来るのを待っていた。二人は私の姿を見るなりこちらに駆け寄り、声を揃えて謝罪を口にした。 紅ならともかく、アスマの面白いという言葉に引っ掛かりを感じた私は訝しげにアスマを見る。しかし人の話もろくに聞かないで突っ走った自分が悪いと気付き、大丈夫だよと口にした。 「カカシ、どうだった?」 「なんか言ってたか?」 間髪入れず問い詰める二人に圧倒され、思わず苦笑いを浮かべた。二人共、好奇心に満ち溢れて目を輝かせている様に見えるのは気のせいだろうか。 「カカシは元気だったよ」 「それで?他には?」 他にはって。アスマは一体何を期待しているのだろう。何が言いたいの?アスマに単刀直入に問うと、気まずそうに目を逸らして言葉を濁らせた。なんだろう。アスマの様子にますます怪訝に思いもう一度訊ねようとしたが、紅が放った言葉に思わず口を閉ざす。 「チフユ、もしかして泣いた?」 紅は目が腫れてるわよと私の顔を心配そうに覗き込んだ。紅の案ずる声にはっとする。そうだ、私泣いたんだっけ。自分が涙した事もすっかり忘れていた私は何て答えようか考える。 紅は何でもお見通しだ。カカシと同様に私の変化に直ぐ気付いてしまう。きっと嘘を吐いても彼女のことだ見抜いてしまうだろう。それに紅とアスマは初めてできた大切な親友でもある。二人なら言っても大丈夫かな。そう思い、意を決して口を開いた。 「私、カカシに告白して振られちゃった」 空気を壊さぬようにと笑ってごまかした言葉は空回りしていないか不安になった。案の定、紅は驚愕した声を上げてこちらを凝視しながら固まっていた。予想通りの反応だと苦笑する。しかしアスマは納得出来ないような顔を浮かべて私を見ていた。 「アスマ?どうしたの?」 「そんな事あるわけねぇだろ、だってカカシはお前のこと「アスマ」 紅は厳しい口調でアスマの名を呼び、制した。カカシはお前のことーー何?続く言葉が気になりアスマに聞こうとしたが、唇を真一文字に結び、固い表情をする紅を見て問う事は出来なかった。 「そう、頑張ったのね。チフユ」 紅は優しく宥めるように語り掛けた。その声を耳にして今更になってカカシに振られたんだと自覚させた。そうだ。私は初めて人を好きになり、初めて告白をして、初めて振られたーー。全ての初めてはカカシだった。そう思えば思うほど目頭が熱くなり、涙で視界が霞む。 「駄目だね。こんなんじゃ」 やるせなく笑えば紅はますます心配そうに見つめる。幾ら辛くて涙が出ても時間は待ってくれない。泣いても喚いても明日は必ず来る。だったら私の恋心もいつか時と共に流れてくれるのだろうか。そしてその傷が癒える日が来たらベランダでまた話せる日が来るだろうか。その時はカカシと友達としてまた夜空を見上げながら晩酌が出来たらいいな。そんな未来を想像すれば、やはり自分は甘くて浅はかな人間だと自嘲した。 「チフユ、落ち込むなよ。って言っても無理か。なんたって好きな奴が隣同士だもんな」 肩を落とし涙を浮かべる私にアスマは慰めの言葉を掛ける。最後の余計な一言が武骨でぶっきらぼうなアスマらしいと思い、つい口元が緩んでしまった。 「アスマ、余計なこと言わないの」 すかさずアスマの言葉を咎める紅に微笑ましく思えて、悲しく冷めた自身の心にぽっと温かい明かりが灯る。改めて二人に出会えて良かったと心から思った。こんな風に私の周りにはたくさんの愛で溢れている。だから寂しくない。大丈夫、きっと前を向いて行ける。 「二人共、ありがとう」 ようやく心の底から笑えた気がした。私の笑顔を見て紅とアスマは安心したのか、笑みを溢す。大丈夫、大丈夫。何度もその言葉を呪文のように繰り返し、悲しみが再び心に宿らないように笑った。 *** あれから数日が経ち、カカシは退院したらしい。その情報は紅からで、未だカカシとは生活リズムの違いからか顔を合わす事はなかった。 時が経てば気持ちもだいぶ落ち着いて行った。カカシに対する想いが完全に無くなったと言えば嘘になるが、以前のように泣いたり取り乱すことも無くなった。 意外と平気だ。私。 自分でも驚く。こんなに神経が図太かったかと疑うくらいだ。それは私に悲しむ隙を与えないでくれている紅とアスマのお陰だった。都合さえ合えば私を呼び出して三人で食事をしたり、紅の家に泊まりに行ったり。ふとカカシを思う時があれば決まって二人が気を紛らわしてくれて、その都度助けられていた。 二人の温かく優しい気持ちには本当に感謝している。 毅然として常に真っ直ぐ前を向く紅と穏やかで包容力のあるアスマ。二人は誰が見てもお似合いの恋人同士だ。 二人を前にするとやはり羨ましくなったが、それはお互い信頼し愛し合っているから成立するわけで、自分にも果たしてそんな相手が出来るのか二人を見るたび不安に思った。ーー違う。私は私だ。ゆっくり進めばいい。 マイナスな事ばかりが頭を巡るので、風呂上りに飲んでいた焼酎割を流し込んだ。久しぶりに飲んだ焼酎は独特の酒臭さを口内で放ち、やはりこの味は好きじゃないなと顔をしかめた。余ったからやるとアスマに言われ、受け取ったまだ半分以上もある一升瓶の焼酎は自分が苦手でもある所為か、なかなか減らずキッチンの片隅に置いてあった。 捨てるのも勿体ないしどうしようかな。コップに注がれた焼酎をぼんやり眺めていると隣の部屋からバタンと扉が閉まる音がした。恐らく玄関の扉だろうか。微かに足音を立てて歩く音が耳に入り、どくんと心臓が波打った。 カカシにあげてみるのはどうだろうかーー。 いやしかし私は振られた身だし、話し掛けるにしても気まずい。いや、それ以上に気まずく思うのはカカシだろう。振った相手なのだから。 それでも友人としてならーー。甘い考えを持つ私にカカシはどう思うだろうか。私は前のようにカカシと他愛もない話をして笑い合いたい。求めるものが恋人ではなく友人なら。 淡い期待を抱いて、気付けば壁をノックしていた。 「カカシ、いる?」 返答はなし。寝てしまったのだろうか。それとも無視をしているのだろうか。後者だったら嫌だな、と胸が締め付けられる。 「アスマから焼酎もらったんだけど、余っちゃって‥一緒にどう?」 なんとなくカカシは隣の部屋にいる気がした。すかさず「友達として一緒に」と、その言葉も忘れず付け加えると暫くしてから微かに低い声が聞こえた。 「…ごめん無理。任務明けで疲れてる」 弱々しく発するその声は本当に疲れているのだと確信する。そうだよね。カカシの生活は不規則で大変だもんね。落胆しつつもそっかごめんと謝れば、その後カカシの声が聞こえる事はなかった。 夜が明けて、翌日の朝。私はいつものように会社に行く準備をしていた。 顔を洗い、髪を一つに束ねて簡単に朝食を済ます。洗面台の鏡の前に立ち、薄くファンデーションを塗ったあと頬や瞼にも化粧を施す。最後に淡いピンクの紅を唇に引けば、自然と仕事意欲が湧いて今日も頑張ろうと自分に喝を入れた。 玄関に向かいスリッパを脱いで、仕事用の黒いパンプスに履き替えるとカツンと低いヒールが硬い床を鳴らした。今日も寒いだろうか。ふと心配になりマフラーを巻いていこうかと悩んだが、靴を履いてしまった後なので、いいやと構わず扉を開けた。 ガチャリと音を立てながら扉を開けて外に出るとひんやりした朝の冷えた空気が上着から覗く首元を攫った。やはりマフラー巻いてくればよかった。溜息を溢しつつ鍵を掛けていると隣の玄関の扉が開く音に気付く。音のする方へ目をやればカカシも部屋から出てきたところだった。 「…おはよう、カカシ」 玄関から同じタイミングで出てきた私達はまるでどこかの小説のようだ。ぼんやりそんなことを思いながら未だ気まずいカカシに挨拶をした。 カカシは私の存在に気付いたのか目を丸くさせ驚いている様子だった。だが挨拶を返す事もなく直ぐに視線を逸らして自室の部屋の鍵を閉めた。その態度に違和感を覚えたが、気のせいだと振り払い再び声を掛ける。 「カカシ、昨日はごめんね。疲れは取れた?」 「…まあね」 何の感情もなく虚ろな目をするカカシに胸がざわつく。一体どうしたのだろうか。とうとう私を見限って嫌いになったのだろうか。カカシの顔を見ればますます不安が煽るので、ごまかすようにアパートの廊下から見える空を眺めた。 「今日は天気が良いね「チフユさあ、よく振られた相手に気にもせず話しかけられるよね」 話題を変えようと発した言葉はカカシの冷たい声により消えた。なにそれ。まるで私がカカシに振られて引け目に感じてるみたいじゃない。 カカシの馬鹿にしたような物言いに頭に血が上る感覚がした。何を思ってそんな酷いことを口にするのか。カカシを見れば未だ私とは目を合わせずドアノブに手を掛けたまま一点を見つめている。 「ねぇ、カカシ。振られたら話し掛けちゃいけないの?むしろ気にしてるのはそっちじゃない?」 放った言葉は自分でも驚くほど強い口調だ。でもそのくらいカカシに言われた事に腹が立っていて、いても立ってもいられなかった。どうしてそんな事言うの?あなたに告白したのがそんなに嫌だった?訊ねようとしても悔しくやるせない気持ちの方が大きくて、喉に詰まり掛けた言葉は上手く出てこない。 「…そうかもね」 ようやくカカシはドアノブから手を離して私を見た。相変わらずその瞳は冷たくてカカシが今どんな事を考えて、どんな風に私を見ているのか分からなかった。 なにそれ。振ったのはそっちなのに。そもそもカカシには彼女がいるでしょ。なにを今更ーー 聞く事は容易いが、ようやく整理出来た心をこれ以上かき乱されたくなかった。続くカカシの言葉を聞くのが恐ろしくて私は逃げるようにアパートを出た。しばらくアパートから距離を置いて駆けたあと、ぴたりと足を止める。カカシは当然ながら追っては来ない。当たり前な事なのに更に怒りと悲しみが私を煽るのでぎゅっと握り拳を作った。 私、どうすればいいんだ。 自分に問い掛けても答えなど返ってくるわけでもなく、行き交う人々の中にぽつんと一人取り残されたような気がした。早く私もあの波に乗らなくては。焦燥感に駆られて足を踏み出そうとするが、意に反してなかなか前に進まない。 私はどうしたいのか。カカシをどう思えばいいのか。ねぇ、誰でもいいから教えてよ。 |