「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」

あれから風邪もすっかり治った私は今宵もカカシとベランダで会っていた。カカシと会うのはあの一件以来だったのでどんな顔して会えば良いのか戸惑ったが、至って普通の様子で安心した。やはりあれは夢だった。あの時はあんな夢を見た自分を強く恥じたが、実際にキスをされていたらそれはそれで問題なわけで、今となると夢で良かったとほっと胸を撫で下ろしていた。

「病み上がりなんだから気を付けなさいよ」
「はいはい」

相変わらず口うるさいカカシに適当な返事をするとあからさまに不服そうな顔を私に向けた。これ以上ここにいるとまた何か小言を言われそうだったので、じゃあ、またねと別れの挨拶をして逃げる様に自室へ戻った。


***


しばらく経った日のこと。今日の天気は気持ちの良いくらいの晴天だった。休日だった私は早起きをしてコインランドリーに向かい、カカシに借りていた毛布を洗っていた。
洗濯が終わり、濡れた毛布を取り出すとお気に入りの柔軟剤の香りが鼻腔を擽った。つい習慣で柔軟剤を入れてしまったが、カカシは大丈夫だったろうか。心配したが、また洗い直すのも手間が掛かるので仕方ないと諦めた。

濡れた毛布を自宅に持ち帰り、ベランダに広げる。
太陽が燦々と降り注ぎ、柔らかな風に煽られて自身の髪を揺らした。今日は絶好の洗濯日和だ。厚手の毛布も乾くのが早いだろう。
ふと住宅街に目をやれば自分と同じように洗濯を干している者もちらほらいて、思わず微笑んだ。

本当、今日はこんなに晴れて気持ちの良い日だ。

手摺りに手を置き、緩やかに吹く風を感じると必然的に心が弾む。いつものように鼻歌を口ずさんでいると、ふと隣の部屋から物音が聞こえた。私は鼻歌をやめて、微かに聞こえてくる音に耳を澄ました。

カカシ、いるのかな?

だったら毛布が乾いたら返しに行こう。そう決めて、ベランダを後にした。


しばらくソファにもたれ掛かり、先ほど淹れたばかりの紅茶を飲み込む。

暇だなあ。

紅と会おうかな。あ、でもこの前、長期任務で暫く里から離れるって言ってたっけ。
忍の休みは不定期らしく、かなり先を見越して約束を取り付けておかないとなかなか会えない。久しく会えていない紅に寂しく思った。カカシとは部屋が隣同士なので頻繁に会えるから、紅がいつ帰って来るか今度聞いてみよう。

毛布、早く乾かないかな。

幾ら洗濯日和だってそんなに早く乾くわけないよね。未だベランダで気持ち良さそうに風に揺れている毛布を見つめて、自嘲気味に笑った。

そういえば、毛布のお礼もそうだけど、お見舞いに来てくれたお礼もしなくちゃな。

ーーそうだ。何かお礼の品を買いに行こう。

そうだ。そうしよう。予定を見つけた私は意気揚々とソファから立ち上がり、家を出た。


何が良いだろうか。


商店街を一周まわって歩いて見たが、これといって良いものがなく私は困り果てていた。
もういいや。諦めた矢先、ふと花のような清潔感のある良い香りが鼻を掠めた。足を止めて香りの出所を探すと洒落た外観の店が目に止まる。
こんな店あったけ。何気なくショーウィンドウを覗くと色取り取りの入浴剤や石鹸などが棚に並んでいた。
恐らくバス用品専門店のようだ。気付けば足が勝手に動いていて、吸い寄せられるように店に入った。

「わあ」

煌びやかな店内に感嘆の声を上げて私は辺りを見渡した。サファイアの様に青く透き通る石鹸。嗅いだだけで癒される深緑を連想させるような香りの入浴剤。どれもこれも私を魅了するものばかりで、目を輝かせていた。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「えっ、あ、はい。プレゼントを探していて」

カカシへお礼の品を渡す買い物に来たことをすっかり忘れていた私は店員に聞かれた事で思い出し、素っ頓狂な声を上げて返事をした。
店員は当店の商品は贈り物も喜ばれるんですよ。と変わらずにこにこと微笑んでいる。

「男性にプレゼントしたいのですが、オススメはありますか?」
「なら、こちらはどうでしょう」

バス用品を貰えて嬉しいのは女性だけだ。そう思いながら店員になんとなく訊ねてみれば、店員は困る事なく私にお勧めの商品を見せた。

「こちらの入浴剤なのですが、香りも甘くなり過ぎず男性にも人気ですよ」

良かったらどうぞと渡されたテスターを嗅いでみるとスゥと鼻が通るような爽やかな香りだった。甘い匂いではないし、これなら大丈夫かな。

「こちらの商品、風邪の初期症状の時や鼻詰まりの解消にもなるんですよ」

なるほど。少し前に風邪を引いた私だったら喉から手が出るほどの商品だったな。もっと早くこの入浴剤に出会っていれば良かった。後悔したが、これはカカシへ送るプレゼントだと言う事を思い出し、じゃあこれでと店員に言った。

「ありがとうございました」

ついでに自分用に違う物を一つ買った私は浮かれた足取りで店を出た。
カカシは喜んでくれるだろうか。それとも入浴剤なんて興味ないと言われるだろうか。まあ、例えそうだとしても消耗品だし困りはしないだろう。右手に持つ洒落た店のロゴが書いてある紙袋を見て心を弾ませながら家に向かった。

そろそろ毛布も乾いた頃かな。

家に着き、ベランダに干してある毛布に触れると柔軟剤のお陰か、つい顔を埋めてしまいたくなるほどふわふわに乾いていた。それを丁寧に畳み、大きめの紙袋に入れた。

カカシ、いるかな。

いつもの様に壁を叩いてカカシをベランダに呼び出すのもいいのだが、ベランダで礼をするのも如何なものかと思った私は玄関からカカシを呼ぶ事にした。

カカシの部屋のチャイムを鳴らす。そういえばカカシを玄関から呼ぶのは初めてだな。そう思うとなんだか妙に緊張し始めて、ぎゅっと毛布と入浴剤の二つの紙袋を持つ手に力が入った。

暫く待っていると小走りにこちらに向かってくる足音が耳に入る。良かった。まだ出掛けていなかった。


「あなた誰?」


玄関の扉が開かれ私を迎えたのはカカシではなく、見知らぬ女性だった。女性は草色のベストを羽織っており、一目で忍だと理解した。その長い髪は微かに濡れ、肩にはタオルが掛かっている。恐らくシャワーの後なのか。でもなんで?ここはカカシの部屋なのに。女性の姿を見て胸がざわついた。

「カカシさんに何か用?」

冷たく言い放つ女性はこちらを睨むようにして私を見下ろしていた。あまりの気迫に戸惑い、女性とは目を合わせず口を開いた。

「…あの、隣の部屋の者なんですが、カカシにこれを返したくて」
「あぁ、あなたが」

私を知っている様な口ぶりに疑問を抱く。どこかで会っただろうか。女性の顔を見て記憶を辿るが、思い出す限り初めて会う顔だ。
カカシを呼んでくれる様子もない彼女にとりあえずカカシをここに連れて来て欲しいと願えば、彼女は無視をして私が手に持つ紙袋を指差した。

「それ、何?」
「…カカシに借りていた毛布とお礼に入浴剤を渡そうと思って」

言うと彼女はますます不機嫌そうに眉を潜ませた。そもそも何故、初対面の人間にそこまで邪険に扱わられなければいけないのか。女性の態度に段々と腹が立って来たが、ここで言い返して喧嘩でもすればカカシと女性の交友関係にひびが入ったら困る。私は気持ちを落ち着かせて、喉まで出し掛けた言葉をぐっと呑み込んだ。

「あなた、忍の事なにも分かってないのね。そんな匂いを放つもの、体に染み付いたりでもしたら敵にここにいると言っている様なものじゃない」

女性は一息でそう言い切った。さすがに言い返そうにしても彼女の言う通り忍の事が分からない私は何も言えない。きっと忍の彼女が言うのだから本当の事なのだろう。目の前にいる彼女の顔を見たくなくて目線を足元に移すと、靴のつま先に小さな泥が付いているのに気付く。…やだな。

「それだけじゃない。その毛布についた柔軟剤もそう」

間髪入れず彼女は言葉を続ける。言い放つ彼女は私に口を開く隙を与えない。違う。私が何も言えないのだ。忍ではないから。

「あなた、カカシさんを殺す気?私だったらそんな事しない。大切な人だもの」

大切な人。その一言で彼女とカカシの関係性が分かった。彼女にとってカカシは愛する人で、カカシにとって彼女は、

「…だれ?」

部屋の奥から声がして反射的にビクリと肩を震わせた。カカシの声だ。まだ眠た気なその声は先程まで寝ていたのか。いや、そもそも情事をした後なのかーー。彼女の濡れた髪を見て連想すると自分の心に見えない黒く汚い何かが渦巻いて、ますます胸が苦しくなった。

「新聞の勧誘だった。断っとくね」

部屋にいるカカシから私を見せないように隠しながらそう言葉を投げた。そして再び鋭い目をこちらに向けるともう来ないでと小声で告げ、ドアを閉めた。

「カカシ…」

ぽつりと唇からその名が溢れた。小さく呟くように呼んだ声は当然ながら気付かれず、目の前の扉は閉じたまま。もしかしたらと淡い期待を抱いた自分に呆れた。目の前の扉を開ければ会いたい人に直ぐ会えるのにそれが出来ない。この扉は違う世界の境界線。これ以上、踏み込むことは許されないような気がした。

ガシャン、音を立てて落ちた紙袋は私の足元に転がり無残にも中身が露わになった。
ゆっくりしゃがみ、散らばったそれらを拾い上げてゆくと涙で視界が滲んで歪む。洗った毛布も買った入浴剤も全て無駄だった。


『大切な人だもの』


彼女が口にした言葉が頭に浮かぶ度、自身の心がじわりと暗く冷たくなってゆく。自分は何をそんなに彼女に対して苛立っているのか。何をそんなに彼女とカカシの関係を知るのが怖いのか。尽きない疑問は疎ましいほど心から溢れ出る。
悲しかった。私より彼を知る彼女が。悔しかった。彼女が容易く彼を大切だと言えて。
私だって、私だって。ベランダでしか見せないカカシを知ってる。あの悲しげで憂いを帯びた横顔をあなたは知らないでしょう。それだけじゃない。口ずさむ儚く優しい歌声も知ってる。月に照らされ眩しく輝かせる白銀の糸のような髪も目に焼き付くほど何度も見た。

私だけにしか知らない、私だけに見せる色違いの双眸、声、表情、全て。あなたより私の方が彼を知っている。あなたより私の方が彼を誰よりも大切に思っている。
あなたより私の方が彼の事をーー

続く言葉に思わず息を呑んだ。ねえ、もしかして。つまり私は、


カカシが好きなんだ。


頭の中で浮かんだ言葉はじっくりゆっくり染み渡るように心に溶けていく。言葉にすればするほど確信に変わる。

そう、私はカカシが好き、好きなの。


唇から溢れ落ちた





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