数日後、カカシの言う通り私は風邪を引いた。 二人で朝日を見た日、久しぶりに出勤した私は特に体調も悪くはなく、元気だった。寧ろあの日は気持ちを切り替えられたので仕事をする意欲はいつもより増していた。何なら食欲もあり、夕飯を食べ過ぎて後悔していたくらいだ。久々に充実した一日だった。明日も頑張ろう。そう満足して就寝した。 問題はその翌日の朝だった。 どうも喉の調子が悪く、節々が痛くて怠い。更には熱っぽいのでまさかと思い、体温計で測ってみたところ38.5度。これは完全に風邪を引いた。三日間、仮病を使って休んだバチが当たったのだ。体温計を見て落ち込んだが、これ以上は仕事を休む事は出来ない。気休めに市販の風邪薬を飲み込み、未だ気怠い自分に鞭を打って仕事に行く準備をした。 「えんどうさん、体調戻ってないようだったら帰って大丈夫だよ」 昼休憩まで何とか持ち堪えた私は昼飯どころではなく自分の机に突っ伏していた。あと午後だけ頑張れば帰れる。自分に喝を入れていた矢先、上司に言われた言葉はそれだった。 恐らく昼飯も食べずに机で項垂れている私を見兼ねて声を掛けたのだろう。 違うんです。三日間休んだのは仮病であって、今が本当に体調が悪いんです。なんて口が裂けても言えない私は熱がある回らない頭でなんとか違う言葉を探していた。 「…大丈夫です。そんなに酷くないので」 「えんどうさんが大丈夫でも他のみんなに移したら大変でしょう?」 あからさまに迷惑そうに投げた上司の言葉は社会人として当たり前の事だ。本当にそう。皆に移したら元も子もない。…せめて、今日じゃなければ。 私が働く職場は木の葉隠れの里で作られた調味料や乾物など製造元から仕入れて飲食店などに卸す食品卸売業だった。よりによって月末でもある今日は忙しい日でもあり、出来れば帰りたくないのだが。そう伝えようとしても未だ目の前で仁王立ちして見下ろす上司は私を見るなり、ほら早く、と帰るのを待っているので何も言えなかった。 「…では、お先に失礼します。ご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」 上司と同僚達に一礼してから部屋を出る。途中、皆の恨めしい視線が突き刺さったが、上司の指示なので仕方ないと思ったらしく、お大事にと言われただけで済んだ。 *** あれから重たい体を引き摺りながらもなんとか自室に帰って来られた私は着替えもせず、倒れるようにベッドに沈んだ。朝よりも確実に体が熱いのは気のせいではないだろう。熱を測るのさえ怠くて動けない。というか気力がない。 こんな時、一人暮らしというのは大変なものだ。小さい頃、風邪を引いた時によく玉子粥を母に作ってもらったなとあの味が恋しくなった。もう二度と食べられないのだと思うとより気持ちが沈んでゆく。 こんなんじゃ、駄目。しっかりしないと。 力を振り絞ってリビングまで歩き、引き出しにある薬箱を開けて風邪薬を出して見たが、今朝飲んだもので最後だったらしく空の瓶を見て落胆した。 なら、せめて食べるものを。そう思い、キッチンに向かい、冷蔵庫を開けてみると見事に何もない。 さっき帰り際に買っておけば良かった。過去の自分に悔いても仕方ないので、諦めて覚束ない足で寝室に戻り、寝る事にした。 どれくらい時間が経ったろうか、目を閉じて夢と現実の狭間でうつらうつらした頃、ふと壁からいつものノック音が聞こえた。 何も言わずノックするという事はベランダに出てこいということだろうか。 「…待ってて、今ベランダに出るから」 「え、何その声」 じんじんと痛む喉でようやく出せた声は自分でも驚くほどの掠れた声だ。私の声を聞いて驚いたカカシは間髪入れず反応した。 「…風邪引いたの」 「だから言ったでしょ。あんな格好で外に出たから」 溜息混じりに話すカカシのその言い方は私がさせているのか、それともカカシの癖なのか。慣れてしまった私は反省もせず苦笑した。 しばらくカカシから声を掛けることはなかったので今日はベランダで会うのを諦めたのだろう。 あの時いつでも壁を叩いてねと大口叩いた自分が恥ずかしい。同時にカカシに申し訳なく思えて、ごめんねと心の中で呟いた。 ーーピンポンー… ふとインターフォンが部屋に鳴り響く。誰だろう。体が重く怠い私はこんな状態では出られないと思い、仕方なく居留守を使う事にした。 何回か鳴り響いた後、ドアをノックする音に切り変わる。聞き慣れたその音にある人物が浮かんで、慌ててベッドから降りて玄関に向かった。 「やっぱりカカシだ。どうしたの?」 玄関のドアを開けて見ればそこには見慣れた銀髪の男が立っていた。いつもベランダで会っていた彼が今日は玄関にいるので何か変な感じがする。 「またそんな格好で出てきて」 カカシは私の姿を見るなり嘆息を溢してそう咎めた。彼の言うまたとは寝巻き姿でベランダに出たあの日を指しているのだろう。私の今の姿は薄手のシャツにタイトスカート。しかも裸足。カカシに言われても仕方ない。 返す言葉が見つからず、ただ黙ってカカシの顔を見ているとカカシは何も言わず徐に私の額に手を当てた。大きな手のひらが突然にして視界を覆ったので思わず目を閉じてしまう。 「…熱、かなりあるよ」 抑揚のない声が耳に入り、瞼を開けてみると心配そうに覗き込むカカシの顔が直ぐ近くにあって、思わず後退りした。 カカシは額に張り付けていた冷たい手をゆっくり剥がし、変わらず私を見る。自身の額にはカカシの手の感覚がまだ残っていて、それが名残惜しいと感じてしまう自分は熱があるからそんな思想を抱いてしまうのか。 「ちょっとお邪魔するよ」 「え、ちょっと」 突然、カカシは私とドアの隙間を縫って侵入して来た。咄嗟にドアを閉めて入って来られないよう手で制したが、気付けば彼は後ろに立っていて、余裕のある笑みを浮かべている。 「忍って言ったでしょ、オレ」 「…そうだったね」 カカシの言葉に一気に疲れが押し寄せ、そういえば自身に熱があるのを思い出した。カカシは私に寝室で寝るよう促し、忍特有のサンダルを脱いで部屋に上がった。 「はい、これ。手土産」 言って、渡して来たものは風邪薬とちょっとしたレトルトの粥や栄養ドリンクが入った袋だった。家にあったものを持って来ただけなんだけどね。そう付け足した彼の言葉に素直に喜ぶ。 「ありがとう。助かるよ」 「まぁ、オレ料理出来ないしこれぐらいしか出来ないけど。それに、チフユの事だから料理しなさそうだと思って」 相変わらず一言多いカカシに今度は私が嘆息を漏らす。その一言さえなければカカシって優しいねって素直に言えるのに。もしかしたら彼はその余計な一言のせいで損して生きているのではないだろうか。 「失礼ね。カカシが血まみれで倒れてた時、お粥作ってあげたじゃない」 「そうだったね。だからそのお礼をしに来たの」 あっけらかんとした態度で話すカカシに呆れた私はベッドに横になった。そっと目を閉じて、初めて出会った日を思い出してみる。そうだった。血まみれになって倒れていたカカシは病院に行きたくないと言ったので、仕方なく私の部屋まで運んでこの寝室のベッドで寝ていたのだ。 遠い昔のようだな。あれからカカシとこんなに仲良くなるなんて思ってもいなかった。 「え、カカシ?ちょっと何してんの」 考えに耽けていると自身の胸元に手のような熱を感じて、慌てて目を見開いた。咄嗟に胸元を確認すればシャツのボタンが三つほど開かれている。 「寝巻きに着替えさせようと思って」 悪びれる様子もなくカカシは淡々とそう口にした。当たり前の事をしているのに何をそんなに驚くのか。そう言いたげに彼は不思議そうに私を見つめている。カカシの言葉に驚愕した私は信じられないと叫んだ。 「大丈夫っ、自分で着替えられるから、とりあえず出てって!」 カカシを寝室の外まで押し退けてドアを閉める。私はドアに寄り掛かり、未だ鳴り止まぬ心臓をどうにか落ち着かせた。何考えてるの。信じられない。 ーーこれではカカシのせいで熱が下がる所か、上がる一方じゃないか。 とりあえず、寝巻きに着替えようと服を脱ぎ、袖を通した。その間も思い浮かぶのはカカシのさっきの行動で、胸元に触れ、擽るような手の熱や長くすらりと伸びた指先がやけに綺麗だっただとか雑念が湧いて出たので頭から振り払うようにベッドに飛び込んだ。 「…その、ごめんね?」 ドア越しから弱々しい声が聞こえた。私の慌てた様子を見て流石に悪いと察したのかカカシは柄にもなく詫びる。 「大丈夫。私こそごめん。…びっくりしちゃって。入っても大丈夫だよ」 カカシは私を思って良かれとした事だ。変に意識する自分も悪い。強く言い過ぎた事を後悔して部屋に入れる事を許した。 ドアを開け、恐る恐る私の顔を見遣るカカシの表情はまるで悪い事をして叱られた子供のようだ。 「…熱は?」 「分からない。朝に測ったきりで」 「じゃあ、測った方がいいよ」 カカシに促され、枕元に置いてあった体温計を脇の下に挟む。しばらくして電子音が鳴り響き、取り出して確認するとあまりの熱の高さに項垂れた。 「39.0度…」 カカシは手に持つ私の体温計を覗き込むと、たちまち険しい顔付きに変わった。 「とりあえず熱が下がるまで寝ていた方がいい」 はいこれ。渡されたおぼんには温めて皿に移しかえられたレトルト粥と水が入ったコップ。その脇には風邪薬が乗せられていた。食欲ないのになと呟く私の独り言を聞き逃さなかったカカシは空腹時に薬を飲むのはいけないと咎めた。 「そうだね、ありがとう」 受け取り、礼を口にした。とりあえず後で食べようとベッド横のサイドテーブルに置き、体をベッドに沈めて目を閉じる。 しかしカカシの視線を感じて眠れない。仕方なく目蓋を上げて彼を見れば、私を見下ろすカカシと目が合った。 「えっと、何?」 「チフユがそれを食べて薬を飲むまで見届けようと思って」 「…あ、そう」 恐らく私がちゃんと食事をするのか見張るつもりなのだろう。カカシの鋭い視線を感じながら仕方なく蓮華を持ち、粥を掬って無理やり胃へ流し込んだ。二、三口食べるのが精一杯だった私はまだ粥の入った皿をおぼんに戻す。 「それだけじゃ、食べたってことにならないでしょうよ」 未だ見下ろし私の行動を逐一注意するカカシは鬼だ。言い返そうにしても早く食べて横になりたい気持ちの方が勝っていた私は掻き込むように口に入れて薬と共に水で流し込んだ。 もう限界。これ以上食べたら吐く。カカシにこれで良いでしょ、と涙目で訴えかけた。 「じゃ、おやすみ」 ふ、とカカシは微笑んだ。寝る許可を貰った私はほっと安堵して目を閉じる。今度こそ、眠れそうだ。 そういえばカカシにお礼言うの忘れちゃったな。あ、あと毛布も返さなくちゃな。徐々に眠りに落ちてゆく中でカカシの顔が浮かんだ。 ーー夢を見た。ひどく心地よい夢の中で私は目が覚めた。いや、これは現実なのか。夢なのか。ぼんやり重い瞼を開けてみると見慣れた自室の天井が見える。 やっぱり自分は目が覚めたのだと自覚した。しばらくそれを眺めているとふいに視界が覆われ、天井の明るい白色から影色に変わる。 同時に唇に何か温かいものが触れた気がした。なんだろう。この感覚。なんだっけ。思考を巡らせて思い出そうとするが、なかなか浮かばない。柔く温かいそれが離れた瞬間、吐息が唇に触れて撫でつけられる。ああ、思い出した。これって、 ーーキス? 慌てて飛び跳ねるように起き上がった。部屋を見渡してみるが、そこには眠りにつく前と何も変わらないままの寝室だった。 痛む頭を抱えて思い出す。確か風邪を引き、心配したカカシが部屋に訪れた。それで無理やり粥を食べさせられて、風邪薬を飲んで、 そういえば、カカシがいない。急いでベッドから降り、スリッパに履き替える。リビングに出て辺りを見渡すが、やはりカカシの姿はない。 まさか、ね。 まだ熱が残る唇に人差し指で触れた。まさかカカシがするわけないだろう。私のシャツのボタンを躊躇なく外せるあのカカシが私を女として見ているわけがない。 だとしたら、あれは夢か。やけに生々しい夢だった。そんな夢を見るのは恐らく熱があるせいだろうか。 未だ下がらぬ熱の所為にして卑猥な夢を見た自分を恥じらいながら寝室に戻った。 |