「チフユ。元気にしていたか?」

久しぶりに見た父親は私の向かいの席に座り、気まずそうに微笑んだ。笑った拍子に出来た口元や目元にはあの頃よりも皺が深く刻まれていて、父と会わなかった年月がそれだけ長かったと表しているようだった。

「別に、普通だよ」

素っ気ない私の返事に父は変わらぬ苦笑いを浮かべてそうか良かったと心にもない事を口にして相槌を打った。

今日は久しぶりに家族が揃う日だった。
久しぶりに会うのもあって、身なりを多少なりとも気を使った私は新しく新調したワンピースに身を包んで高鳴る心臓を落ち着かせていた。
母はまだ来ないだろうか。父と二人きりで気まずい気持ちを隠せず無意識にスカートの裾を握ったが、途中で皺が出来ていると気付き慌てて手を離した。

ふいに店の出入り口のベルが軽快に鳴り響く。聞き慣れた足音と共に私達のテーブルへやって来たのは母だった。

「久しぶりね、チフユ」

懐かしい声で私だけに挨拶をする母は父の顔を一切見ようとしない。今でも母と父の間には深い溝があり、それを埋めるのには時間が解決してくれるとかそんな単純なものでは無かった。恐らく永久に二人の溝が埋まる事は無いだろう。

母は私を見るなり会いたかったと嬉しそうに笑った。しかしその言葉は本意ではないと直ぐに気付く。恐らく母も同じように父から手紙を貰い、渋々ここに来たのだ。実際、母からの手紙では毎回会いたいと書かれていたが会う事はなかった。こうしてきっかけがなければきっと母と会う事なんてない。

「久しぶりだね、お母さん」
「そうね。チフユ、元気にしてた?」

笑みをこちらに向けている母の目元には父と同様、皺がより深く刻まれている。若干、頬が欠けたように見えるのは気のせいだろうか。

「元気だよ」
「そう、良かった」

私が歳を重ねれば必然的に両親も歳を取る。外見は変わるが私達のぎこちない関係は今も変わらないままだった。

手紙に書かれていた集合場所は幼少期によく連れて来られた喫茶店でサンドイッチが美味しかった記憶がある。
父がこの場所を選んだ理由は恐らく家族が唯一知る場所がこの喫茶店だけだから。
私はまたあのサンドイッチが食べられればいいなと思い、店員にコーヒーと一緒にサンドイッチを注文した。

「母さん、元気だったか?」
「…見ての通りよ。あなたの彼女は元気にしてるの?」

母の刺々しい物言いに父の顔が一瞬にして凍りつく。父は焦りを隠せず酷く狼狽した様子で何も口に出来ないでいた。哀れな父の姿に自業自得だと頭で呟く。

「まぁ、あの子が元気でもそうじゃなくも別にどうでもいいけど」

ようやく父を見た母の目は酷く冷たい。最後に優しい母の目を見たのはいつだったか。記憶を辿ってみたが、かなり遠い昔だ。
父のせいで母は変わってしまった。父の浮気を知ったあの日、母は能面の様に笑顔を貼りつけて冷たい笑みを浮かべるようになった。実の娘の私にでさえも本当の笑顔を見せてくれなくなり、それがとても悲しかったのを覚えている。

「…元気だよ」

父は母を見ずに俯きながら問われた言葉に肯定した。まだ愛人と暮らしているのだろう。心底最低な父親だと呆れた私は一つ嘆息を漏らし、未だ頭を下げて項垂れている父に訊ねた。

「で、お父さんはなんで私達を呼んだの?」

さっさと用件を聞いて気持ちを楽にしたかった。母の言葉にすっかり背中を丸めて小さくなっていた父は私の問い掛けにビクリと肩を揺らし、ようやく頭を上げて母と私を交互に見ると真一文字に結んだ唇が重々しく開いた。


「正式に離婚して欲しいんだ」


離婚。その言葉はまるで耳元で叫ばれたかのように私の耳を貫き、頭に響き渡った。
父を見れば情けない程に眉を下げていて、その顔がますます私の怒りを煽った。

「…本気なの?」
「…ああ」

私の問い掛けに父は小さく頷く。
じゃあ、何。父はそれが言いたくて私と母を呼んだの?離婚したいから?どこまで身勝手で傲慢なんだコイツは。そもそも母が許すわけないだろう。許して楽にさせるなんて事、母は絶対にしない。

「いいわよ」

淡々と冷たく声を発したのは母だった。驚いて横にいる母の顔を見れば、そこには感情もなく憔悴し疲れきった顔があった。母は私を見て悲しそうに笑い、謝った。

「ごめんね、チフユ。お母さん、もう疲れちゃったの」

気迫もなく力が抜けた弱々しい声色で話す母は父を憎しみ続けた結果、自分までも苦しみを与え続けて来たのだろう。そして耐えられなくなった母の心はたった今、壊れたのだ。今までずっと父を恨み生きてきた母の疲弊した顔を直視出来ずに私は俯いた。

『ぶつける相手が生きているんだからどうだってできる』

浮かんだのはカカシが言ったあの言葉だった。ベランダで鼻歌を口ずさみ隣で静かに聴いていたカカシの横顔はどこか寂しそうだった。カカシはあの時、どんな気持ちだったのか。
変えられなかった自分を無力だと悔いているカカシは私に相手が生きている限り変えられる可能性は十分にあると言ってくれた。だったら私はカカシの言う通り、自分で変えるしかない。

「…もう元に戻る事は出来ないの?」

気付けば声に出していて、俯いていた顔を上げて両親に向けた。二人は気まずそうに私と目を逸らそうとするが、それでも構わず真っ直ぐ見つめる。

「お願い、前みたいに戻って」

お願いだから。震える唇で何度も願った。ぎゅっと作った握り拳が食い込み、痛い。でも、そんなの気にしてられないほど私は本気だ。だって私はカカシに頑張るって言ったから。あのカカシが柄にもなく励ましてくれたのだから私は頑張る。

「ごめん。チフユ」
「ごめんなさい。チフユ」

私が願えば願うほど二人はごめんと謝る。何に対してのごめんなの。私をずっと一人にして寂しい思いをさせてきたから?私を置いて好き勝手に生きてきたから?

だったらそんなの全部いらない。
そんな事より私はカカシとベランダで眺めた、あの星のように煌めいた思い出に戻りたいんだ。

「ねぇ、「チフユ」

母が私の名を呼び遮る。反論しようと口を開いたが母の顔を見て出しかけた言葉は呑み込むしかなかった。

…生まれて初めて母の涙を見た。

泣きじゃくる母は今まで見たことのない姿だった。
涙を決して見せない強い母を持つことは私にとって誇らしく自慢の母だった。その母が今では両手で顔を塞ぎ、嗚咽を押し殺して泣いている。そんな母を目の当たりにしてしまったら、これ以上口にする気になれなかった。

「…好きにすれば」

もうどうする気にもならない。視界の隅で私の言葉にほっとする父の顔が見えて腹が立つ。あからさまにそんな顔するな。まるで私が我儘言ってるみたいじゃない。悪いのはアンタでしょ。そう叱咤したくても落胆した私には父を責める力など残っていない。
未だ泣きじゃくる母にバッグからハンカチを取り出して渡すと母は礼を口にして受け取った。賑やかな店内で掻き消されてしまう母の声を聞いて私の心は呟く。もう無理なんだ、と。

「ごめん」

父は私達を見てまた謝った。もういいから黙って。口にせず目で訴えかければ父はようやく黙り込み、泣いている母をただ呆然と見ていた。

「‥お待たせしました。コーヒーとサンドイッチです」

私達の不穏な空気を察してか控えめに声を掛け、頼んだ物をテーブルに置く店員は泣いている母を訝しげに一目見て立ち去って行った。
目の前に置かれたサンドイッチはあの頃のままなのに私達家族は随分と変わってしまったなとそれを見てぼんやり思った。

一つ手に取って口に入れる。色んな感情が混ざり合いぐちゃぐちゃになった今の私では全く味がしない。
美味しいサンドイッチの記憶は味のないサンドイッチに上書きされた。また一つ、私のキラキラした思い出は泥を塗られ、黒く汚される。
それでも構わず食べ続けた。父に弱さなんて見せるものかと。母みたく泣いたりなんてしない。

「それじゃ、帰るわね」
「チフユはゆっくりしていっていいから」

注文したコーヒーに口もつけずに二人は席を立った。恐らく一緒の空気を吸いたくないのだろう。私は頷きバッグから財布を取り出して自分の分の支払いを父に渡した。父は私の出した金を見ると一瞬固まって受け取ることを躊躇していたが構わず強引に押し付ける。

「借りなんてアンタに作りたくないから」

言い退けて仕方なく受け取った父は何も言わずに情けない表情をしていた。母も同様に父に金を渡した後、ごめんと一言私に謝る。立ち去ろうとした母に慌てて声を掛けた。

「お母さん、また手紙書くね」

本当は大丈夫かと問いたかったが、明らかに大丈夫ではない母にそう訊ねるのは愚問かと思い、別の言葉を投げかけた。
母は私に借りたハンカチを手で握り締めて弱々しく笑った。

「ハンカチ、洗って返すね」

その場から去って行く母の後ろ姿はあの頃よりも小さな背中だった。

もしかして、母が手紙に会いたいと書いたのは本心だったのではないだろうか。母は会いたいと言って、私も会いたいと言ってくれるのを待っていたのではないだろうか。母の言葉に色々理由をつけて都合良く解釈していたのは自分の方だ。

私が母を支えていれば母の背中はあんなに小さくならなかったのかも知れない。
私がちゃんと母と向き合えばあの冷たい笑顔もしなかったのかも知れない。…何もかも全て遅い。

ーー結局、何も変えられなかった。

店内は相変わらず賑わう家族やカップル達の楽しそうな声が響き渡っている。

新品の真新しいワンピースは誰に褒められるのでもなく無駄に終わった。浮かれていた自分が情けなく恥ずかしくてこんなの着てくるんじゃなかったと後悔した。
一人テーブルに残された私は他人からどう思われているのだろう。どうせ、大して気にも止められていないか。自嘲気味に笑い、食べかけのサンドイッチをまた一つ頬張った。

相変わらず味はしなかった。


涙を忘れた





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