偽日 3/4-2

-*-
 小早川の屋敷に毛利より送られてきた隆景と、彼の家臣数十人が入った。 それを見届けたゆめはその足で、隣国の吉川家へと渡ることにきめた。 距離五里もないというので今日中には着くかと、見送りを寄越す人を断り、歩き出した。
 さんさんと降り注ぐ陽光を受けて、万緑の木々が枝葉を青風にたゆらす。ひたひたと白さの中で頬に腕に纏わりつく朝霧は、落ち着き払って 暁の内を進みながら、元就に言われた吉川の情勢を思い出している。
(吉川家の現当主興経は大将の器量にかけるとして、家臣の中には早く嫡子 千法師に後を継がせたい派閥が台頭してきている。 それに反発するように、現当主興経の地位を守ろうとする古参派もいて、家中は荒れている。 元就はその隙を突いて、両派が争う間に自身の息のかかった毛利元春を、吉川家当主にしようとしているのか……)


 後ろから軽い馬の走る音に次いで、呼び声して振り向いた。見れば、慶次の姿。馬で急いできたと見え、みるみる間に走り込んできた。
「あっ、慶次さん。お早いですね」
「吉川へ行くんだろ、俺も一緒に行っていいか?」
 慶次の言葉に驚きながらも返答すると、慶次は笑って馬から乗り出すとゆめの身体を掬いあげた。慌てるゆめにしっかりつかまっててくれよな。と、声が近い。
「居心地悪いかもしれないが、勘弁してくれ」
「はっあ、はい」
 と、横乗りにのせられて、慶次の心配する声に頷いていると、そのまま馬が歩きだした。 大人しく毛並みの固さに触れていると上から声がかかる。
「吉川は迎えに来ないのか」
「あっ、ええ。今大変な時期みたいで」
「そうか、吉川も大変だな」
 突然馬がいなないて、身をのけぞらせたかと思うと、馬上は揺れ動きとっさの事に慶次がゆめの身を抱き留めた。 馬が戻るとすぐにゆめは馬蹄の際にまむしがいるのに気付いて、胸に短刀を取り出すと飛び投げた。まむしは刺さる刃の下でのたうちまわっている。

「蛇か?」
「まむしですね」
 ゆめは馬から降りると、まむしから短刀を抜いた。刃の刺さったまま暴れたせいか、まむしの動きは鈍くなっていた。 慶次は馬をなだめてから横に並んだ。
「その刀……」
 言われてゆめは短刀に毛利の家紋があった事に気付いた、慌てて柄ごと手の内に掴んでさっさと鞘に戻そうとした。 慶次の視界は別にずれ、ゆめの腕の刀傷に注がれていた。隣に並んでいたかと思うと、短刀の柄を握る手を取った。反発をこめて反応するゆめの傍に寄る。
「貸しな、よもぎで曇りは取れる」
「あ、………」
 手を握り締めると、短刀はいとも簡単に慶次に渡ってしまった。ただ、慶次は単純に刃の血を懐紙で拭うと、よもぎを摘んで拭った。
「すごい、刃の反射だな」
 いい刀だと、と言って鞘に納めると、くるりと柄を向けて向けて返した。慶次は家紋には気づかないようで、ゆめは受取りながらほっと胸をなでおろす。
「あ。ええ……」
「その短刀どうしたんだ?」
「前に奉公していた時に……少し」
 曖昧に笑い返すと、慶次は深く悟った様でそっか。と、頷いて馬に上ってからゆめを助けて馬に乗せると、彼女の身体の安全にと、横手をあてがいながらそのまま進みだした。  しばらく沈黙が降りて、ゆめは居心地悪くも馬のたてがみを見ていると、なぁ。と、慶次の声がした。肩越しに振り向くそぶりして気を向けると、いいたくないならいいんだけど、と繋がった。
「あんた本当は武家の娘なんじゃないのか?」
 その質問を予測していたゆめはそれでも肩が反応してしまうのをとっさに押さえた。頭が白めいて言葉が出ない、このままやり過ごせたら。と感じる一方、黙っているのが却ってあやしいかと、頭巾の下でこぼした。
「実は……落胤だった。なんて言ったら、どうしますか」
「えっ? でも、あんた」
「嘘です」
 笑いをこめていうと、慶次はまだ戸惑っているようだ。少し余裕が出来て、思い付いたままつなげていく。
「奉公先で、躾を頼まれていただけです。御子様が蛇や虫がお嫌いで」
「そうかい。あんたって、つくづく不思議な人だな。でも、占いしだし経験豊富の方がいいよな」
 慶次の軽い笑い声が続いて、ゆめも思わず顔をほころばせた。その後に続く慶次の世間話を聞いているとやがて、吉川家が見えた。 門番に通してもらう様に言って、馬を預け置くと慶次と二人で通された。




-*-
 吉川家の当主吉川興経は、大内方と尼子方への背反を繰り返し、 同盟国から疎まれ、家臣からも不審の声が上がっていた。 しかし、吉川の軍五千は、中国を穿つ尼子と大内にとって大きいものであり、 先の戦いで、吉川が尼子に寝返った事で、大内は吉川を攻略しきれずに敗走する節もあった。 渦中の情勢をうかがっていた慶次は難しく眉をひそめていたが、 ゆめはその話の中で元就の指示を達せられるには、と細く考えていた。 既に、元就による元春が当主に就任のための吉川家への調略は始まっており、 吉川家重臣は興経を離れ毛利方へつくものもいたが、 忠節を重んじてあくまで興経についていくものも、血筋にこだわり嫡子千法師を擁する派もいて、内紛が起きていた。

「今、吉川家内の中では、現当主吉川興経につく興経派。 興経の嫡子の千法師様に跡を継がせようする千法師派。毛利が推す元春を次期当主にする。毛利派。三派に分かれて御座います」
「三つか」
 しばらく黙っていた。ゆめは逡巡し、毛利の理想は元春をつかせることだから、 家臣の中の毛利派を盛り上げればいいのか。と思った。 それと同時に、現当主興経派、その嫡子千法師とその派を排除する。 先の小早川から軍配師として元就の為になる事を目標として、 いくつか「戦国策」「三略」などの兵法を読んでみもした、幼少のころ以来だった。それらの文字ばかりなる知識を思いだそうとして、やっぱり頭を使うとこんがらがってくる。と思っていたら、 うっかり隣で慶次がこちらを見ているのを過ごしてしまった。

「あんた、何か難しく考えこんでるな」
 思いがけぬところで指摘され、言葉を失っていると、ぽんと頭を叩かれた。 余りに自然な動作で、とっさに相手に反抗する事も、身を庇う事もできなかった。 ゆめは黙ってから、隣で風に吹かれる風来坊にそっと顔を上げた。
「御当主の事ですが」
「うん、話によりゃあ、どうも興経がふらふらしてんのがいけないみたいだな」
「家臣の不安が、分裂を煽ってますね」
「この情勢の中、生き抜くために大きい者に着くのは大事だが、ころころと変えちゃな」
「それならば、嫡子千法師様に継がせる向きがあるのも仕方ないと思います。でも、千法師様にどれほどの器量があるでしょうか?」
「うーん。そうだな。千法師は、まだ年端も行かない子どもだろう」
「じゃあ、もう御一人の候補の元春様は?」
「まぁ、評判的には元春がいいだろう。元服を終え、初陣も果たしてる。ただ、千法師は嫡子。元春は養子だ」
「嫡子がいても、不相応なら、養子が跡を継ぐ。元春様が優秀なら、それもあるんじゃないですか」
「うん。けれど、俺はそうはおもわねぇんだ。元春は元を言えば他人だ。毛利が策略で送りこんでるって噂もあるしな」
「血筋なんて、端から見れば分からないですし。それに、血が繋がっていても、争い合う事ってあります」
「そうか」
 思わず、吐露するような言葉は慶次に甘えていたのかもしれない。 頭巾をたらして俯いているゆめをみて悟ったらしい慶次は、そっと深く顔を向けた。

「なぁ。あんたさ、辛い時は辛いってちゃんと言えよ」
 見返すゆめの表情には、慶次に対する思いから疑問が浮かぶ、微かに反発の由もあったが気付けば心配する眼差しに甘えて言葉に出していた。
「辛いって……、なんですか」
「例えば、その傷」
 慶次が知っていたのかとと、思わず左腕の傷あとを手で押さえて隠すと、注がれている彼の眼差しに徐々に包まれるようだった。
「痛かったろ?」
 顔を上げると慶次の優しさに気が緩みそうになる、目のあった先の彼の色が心配そうに変わるのに、ゆめは思わず口を結んだ。
「この間、武家っていっていたあんた。どうして、その家出て占い師になったんだ?」
 ゆめの脳裏を数々の場面が変わった。言おうかどうか迷った、そして言ってどうなるか考えた、この目の前の男をうまく動かせるかもしれないと思った。 目の前の男を騙すのは苦しかったが、知らず口に出ていた。
「……家督争いにまきこまれて」
 えっ。と言葉に詰まる慶次に、二の句を告げようとして、ゆめはためらい口をつぐんで目をそらした。慶次は直ぐに理解したと見え、落ちる肩をくるんだ。
「そっか。それは、辛かったな。きっとその時あんたが感じたものが辛いってことだ」
「そう、ですか」
 あのただ胸に迫る恐怖を思い出して、胸を押さえた。 身内が分かれるのが悲しいのではない、ただ殺される恐怖に、大事な人を奪われる恐怖にひっ迫していただけだ。 そして、天秤にかけるまでもなく重い方をもぎ取り、守って逃げた。 そこまで思って固くなっていると、慶次がすっと手を握り、手の内に温めた。 ゆめは彼を見上げながら、自分が得てきた複雑な気持ちを、彼が理解するのは遠いことだろう。と思った。 しかしながら、握られた手は熱を含んで温かく、解き難かった。
 顔を上げれば慶次の深い表情に当たった。照らされて、心からこの人は太陽だと思う。
 明るくて、眩しくて、そしてなにより温かい。
 憧れ焦がれた、太陽だった。




-*-
 吉川家の合議の場となり、呼ばれてゆめと慶次は連座した。 話を聞いていると、まず、興経派が主張し、反論するように千法師派、間を取ったように元春派が出てきた。
「今の吉川家があるのも、興経様のご尽力によるもの。このままお任せするまで。何も問題はない」
「いや、興経様の数々の裏切りによって、尼子・大内両から疎まれておる。早に千法師様に継がせ、 どちらに着くかを決めて」
「千法師様はまだ幼い。年頃である元春に継がせ、その後千法師様といたしてはどうか?」
 元春はを推すという使命を握り締めて、ゆめも口を開いていた。
「お言葉にございますが元春様の評判は世間にも聞こえております。毛利の力も入れます。小早川との連携がでましょう」
「そうだ。元春様と、興経様の娘との婚約も進んでいる。その次期当主は千法師。その後は、元春様の御子と致せば問題ない」
「そうして、興経様に出家してもらいましょう」
 元春派は、暗に千法師の将来も約束する事によって、三つ巴の交戦から、興経派を孤立させる向きが強くなった。 なんとか、元春になってほしい。そうすれば、後は元就が体制を整えるからと、ゆめは胃のキリキリする思いを踏みながら、 話の動向を聞いていた。 何とか、元就の居に添えれるように元春を当主につけたかった。そして、いよいよ会議が進んでいったかと思うと。 それまで考えこんでいた様子の慶次が顔を上げた。

「なぁ。俺さ、ずっと考えてたんだけど。今のまま、良くなるってことが一番なんじゃないのか」
 家臣とゆめの目が同時に慶次に向く。少しばかり反発の意を込めた幾重の目にも慶次は堂々と見返すと、軽く息を吸った。
「この家は、吉川のもんだ。問題になってるのは興経が、ふらふらしてるからだろう?  だから、一番いいのは現当主の興経が腹くくって、尼子大内のどっちにつくかはっきりして、良政を退くことだ」
「それはごもっともだが、そうなればいさかいなど起きていない」
「起きちまったものはしょうがない。これから変われるよ」
「それに、千法師もいつか継ぐんだからそんなに焦ることなんてない。興経は息子に立派な背中見せてやる方が大事だと俺は思う」
 飛んでもない発言は慶次の力強い勢いによって、徐々に浸透し始めた誰もが願いながらも叶えられずと思っていたことだった。 納得し始める向きに焦ったゆめが、反論を告げようとすると同じ元春派から声が飛んだ。
「待って下さい、慶次殿。それでは毛利の元春殿の立場はどうなる? 毛利から養子にもらった元春を、ないがしろにすれば。毛利と小早川との仲が悪くなる」
「いや。それでも、家族が一緒にいる事が一番だ。それに、元春をないがしろになんてしない。 吉川の養子だが、元春も元は毛利の人間だ。国元に帰る手もあるし、元春が吉川の一人としてやりたいなら、吉川家に組すればいい」
「それは、確かに。興経様はここまでやってきているのだし。まだ三十半ばであるが」
 発言しようと頭巾の下で大きく言おうとすると、慶次がぽんと叩いた。ゆめが慶次を見ると、家臣のいくつかは、これに頷きはじめている。
「そうだな。興経様にも、聞いて行こう」
「千法師様にまだまだ教える事もあるしな」
「元春様は、吉川娘との婚姻だけでも毛利との関係は続くだろ」
 皆、慶次の意見を待っていたかのような広がりは、ゆめを焦りで焼いた。早くなる鼓動に任せて立ち上がろうとすると、慶次がぽんとたたいた。皆に声をかける。
「さっ、今日の所は、一旦終わりだ。酒を飲もう」
 皆が待っていた説かれた様にくつろぎ始めた、食事に下がっていくのを見て、ゆめは声を失ってから猛烈に襲いかかってきた波に、慶次まで一足で向くと大きくなる声をどうにも出来ずに叫んだ。

「どうして、固まりかけていた話をひっくりかえしちゃうんですか」
「俺やっぱり思うんだ。第三者を入れるなんて間違ってる」
「そんなのこの件には当てはまりません。もう一度話し合って、ちゃんと……」
「家臣だって、本当はれっきとした当主の元に団結するのが理想だって思ってるはずだ」
「だからって、興経様はもういっぱい間違えてきたじゃないですか。今の機に、年も器量も合う元春様にって」
「あんたは何で元春にこだわるんだ?」
「……っ家中で争えば、弱体化を招き、他家に付け入られるか、自滅する。今の吉川は、興経様の不義によって弱体化していたから。 それだったら、第三者でもなんでも入れればいいと思ったんです」
「……あんたの家って滅んだのか」
「違い、ますけど、でも」
 ゆめは言い続いた言葉でそれを消した。慶次は、口を結んでからゆめの話を受けた。
「慶次さん。今の中国は状勢は尼子と大内でしょう。その吉川家はどっちにも睨まれてて、陶だって、きているし。 でも当主交代にも嫡子の千法師様はまだ小さいから、それなら新しい当主の下に一致団結する。それでいいじゃないですか」
「……」
「それに、元春様を入れれば、今勢い盛んな毛利家の補佐を得られます。 当主の興経様を信じていない人がいる今、新しい当主を迎えやり直す事は利益でもあるじゃないですか」
 声高になっていくのを止められない、慶次以外もう誰も話を聞いていないのにここで元春にしなければ。との思いが加速していた。 慶次の顔色に緊張が走っては、ゆめのぶれる腕を抑えた、反発の意して見返すゆめに眉の張ったまま見つめ返した。

「ふらふらと優柔不断を興経様は繰り返すにきまってます。今度こそ家臣が割れたら、吉川家は潰れますよ」
「いや、変わるさ。人は、変われるよ。興経が間違えないよう、俺も支えるし家臣が団結するなら出来る」
「そんなに、うまくっ」
「吉川は変わろうと思ってんだ、それなら、絶対に変われる」
「そんな希望的なことばっかり言って、吉川が滅んだらどうするんですか?」
 口が勝手に震えて、どうにも止まらない。慶次が腕を止めていても、その震えは止まらなかった。
「じゃああんたは、どうしてそんなに悲観的なんだ? 人は変われる。よくなりたいと皆が思ってるんだから、絶対にそう動く。 今回の事を繰り返す真似はしない。あんたならわかるだろ?もう二度と繰り返したくはないはずだ」
 つきんと痛みが来て、刹那黙った。慶次が畳みかける。
「あんた、身内が身内を分かつ。辛い思いをしたんだろう。なら……」
「……もう争わないようにと、軌道を変えるんです」
 目に涙がたまる。毛利家だって、皆が毛利を考えていれば……。そこまで考えてふっと思った。
(慶次がいたら、どうなっていただろうか。松寿丸様を擁して、元就を補佐にして。松寿丸筆頭家老の父親と元就派の家臣をうまく並べて協力していけばいいって、そう力強く言ってくれたのだろうか)
 誰かが、利も益もないところで、叫んでくれたなら、自分の権力欲しか見えてなかったあの大人たちを止められることができたのだろうか。

「俺とあんたじゃ、考えが違うみたいけど。俺はそんな悲しい顔をさせたくない。  過去のあんたを救えないけど、今のあんたを元気にしたい。笑ってて欲しいんだ」
「そんなこと言わないで下さい。他人にどうしてそこまで」
「他人じゃない、俺はあんたが好きだ」
 慶次は顔を見ながら、頷いた。だから、他人じゃない。と、念を押されて思わずゆめは口をつぐむ。いつしか、掴まれた腕の力が下ろされていた。
「過去が傷になってるのは分かる。だけど、冷静にならなきゃ」
 ゆめは仇を見つめた、眩しくて自分が砂になってしまいそうだった。 その身の中で真に恐れているのは、太陽でなく、元就の闇だと知った。 呑みこまれそうで、二度と戻れなくなりそうで。そうして、事実二度と戻れない。 ゆめは眩暈が点描する意識の中、背を伸ばす様な事実に気付いた。

(きっと、毛利家の争いは止められなかった。あの家督争いは、最後に権力を得るために元就が仕向けたものだったんだ)
 その事実に立って居られぬほどに衝撃が襲う、何のために来たのだろう。ずっと元就の中で踊らされていたのか。すべてすべて。 そして、どうあがいても元就が使う駒一つ、兵一人にも満足になれなかった。疑問をすりつぶし、理性に反抗してでもただ元就の傍に居たかっただけなのに。
 言葉を失って身体を離すゆめに慶次が呼びかける。 水の落ちる様な柳の不確かさで振り向いたゆめは、そっと呟いた。
「帰ります」
「どこへ」
「どこでも、ありません」
 手を振り切ると沈黙が降りる。心配そうな慶次の言葉が引きとめるのを無視して去ってい
 喉を裂く様に激しくなる鼓動を飲んで、 目が映すままに現実を解き、息が不思議に零れ散るのも飲み込むと、そのままふらふらと、小屋に戻っていた。 もしかしたら、追いかけてきていたかもしれない慶次はいなかった。
 玄関に元就が立っていて、胸を冷やした。と、同時にかっかかと身体が燃えた。 その背に近づくのも恐れていたら、先のたゆむ色緑の兜が振り返った。
た。

-*-
「元就………」
 ごめん。とこぼした。吉川の当主は興経のまま、変わらない。と続けると、 すと息を吸った声が弘がぬ前に声が飛んできた。怒気を孕ませた元就が、渇いた唇を食む。
「何故だ!なぜとりこぼした」
 私の力不足だ。呼吸をするがやっとという状態で ぶらりと下がる両肩と共に、それだけを息の底から声を絞り出すと、膝をついた。元就は冷たい目で見おろしていたかと思うと、一歩近づいて止まる。
「前田だな」
 黙りこくるゆめに元就は目を開いたかと思うと、怒りと呆れの混じる声で追い詰めた。
「殺せと、申したはずぞ」
「違う、前田のせいじゃない……。元春を推せなかったのは、私の」
「なんたる体よ、貴様はその程度か」
 元就の火の燃え行く様な呆れ口調に思わずいきり立った。弾ける様に見上げるゆめに浴びせていく。 ためらった後、言い淀んだ唇を食むと、重たげな瞼に伏せられた目をかっと持ち上げた。
「悪かったと思う、私のせいだと思う。でも私だって考えてるんだよ。 毛利にどうやったらいいか。考えて、前田は殺さない 要らないと思ったんだよ。 下手に殺して目立ってもいやだし、争いになっても困るからって。 私だって、毛利の事考えて。役にだって……軍配師になりたかった。ずっと、だから」
 悔しさと思いきれぬ毛利への思いが胸に轟いて、ゆめは表情を滑り落してはうなだれた。風の様な元就の危うい声が脳に響く。
「言い訳など聞いておらぬわ」
 言いかけたゆめの声が元就の目に呑み込まれる。能面の様な顔の中、ただ熱の様な眼差しを流し込むのを真剣に砥いだ目で見据える。 叫び声は自分を離れて広がっていく。口擦り段々と、紅潮してくる頬。ついに  ゆめは無言の時を流す元就の眼差しの先を読み取っては、勝手に答えを投げつけた。
「もう、元就の言うばかりにはできないよ。全部仕組んでたくせに。全部だまして、父親も、幸寿丸様も、殺させたくせに」
「勝手に貴様がついてきただけだろう」
「そう仕向けたのは元就でしょ」
「ふん、全て我が策。気付くも気づかぬも貴様の居所ではない」
 落ち込んでは引き上げられ、浮かれては釘を刺される。生きるも死ぬも元就次第。 仲良くなれば裏切らねばならず、嫌われては仕事が勤めあがらない。そんな二反の思いにずっと暗まされて生きていきた。 少しでも楽しみを知れば悪夢が諌め、悲しみにくれれば、思いは死ぬる。 ゆめはがっくり肩を落としたかと思うと、

「もういい……、嫌だよもう」
「貴様に選択肢などない」
 肌に食い込む力で腕を掴まれ顔を上げれば。怒っていると怯えた元就の顔から感情の一切が消え、身の内から冷酷さが出ていた。
「もういいよ。全部潰して、私も消えれば都合いいんでしょう。尼子も大内も慶次もぶっこわしてさぁ、私が死ねばいい話でしょ」
 パンと響いた衝撃と共に、首がねじれた。初めは何が起こったのか分からなかった。 叩かれたところが熱を帯びてじわっと広がったと思うと、ゆめは驚きに声を失って元就を見た、怒っているのを始めてみたと、目を開いて見入った。
「貴様……」
 と、唇が震えたかと思うと、胸倉を掴まれ再び張り手が襲い、尖り尽くした眼差しが皮膚を割って刺さった。
「我を何だと思っておる。何のために我が一派を殺し、何のためにここまで通っていると思っている。何のためにここまで耐え忍んで、何のためにここまで積み立ててきたのだ! 中国を盤石させるため、毛利を反映させるために決まっておろう。そして」
 返答の出来ぬ内に元就は苛烈に言葉を立て続けると、吸う息に不意に間をあけ、怒した背を向けた。
「二度言わせるな。我と貴様でもう一度、日輪の元を歩む為ぞ」

 声が聴覚を伝わって、奥深くを刺激する。言葉の響きに顔を上げると、元就の表情がまっすぐ向いている。身体には震えが走っていた。 元就は、自分が知るより遥かに、細かく、危うい道を渡ってきたのだろうか。 喉を込み上げてくる思いを呑んだ。そして、過去を未来を今を焼き焦がすこの人物に、身の内全てを掛けても惜しむなしと芯から拝伏した。 それを言葉づけるものは敬愛であり、同情であり、畏怖でもあり、憧憬であり、崇拝であった。 ゆめは、神を見た飢餓者の様に虚しい力の抜けた露わな表情で震え、身を崩しながら近づいた。

「元就、……」
「必ず中国を全土を手中に収め、毛利を安泰し平安を確立する」
 聞くうちに強く噛みしめた唇から血が流れ、伏せた眼から涙が出る、涙で沁みる度に心洗われる気がした。
「……元就」
 頬に触れようとすれば元就は 触れるな。と、手をのけたかと思うとゆめを引き寄せ、唇に盛る血と流る涙を身の内に入れ込んだ。 息の滅するまで満ちては穏やかなゆめが瞼を降ろすのに、月の知らぬ時間が静かに浮かんでいく。
 臥して瞼を閉じる元就に流れていたゆめの掌はかの頬に乗り、喉を転がり、胸へ落ちてようやく落ち着いた。 少し伸びあがるようにして寄せた唇が元就の頬へ触れれば、柔かな吐息を緩めた。 ゆめは諦めに淡く、戒めに緩く、決意に固い笑みを口元に刷きながら、祈るように瞼を下ろした。

 静々と雲が波打つ冴えた夜天の侯
 ゆめは許さざる方法で一人塀を超えると吉川の屋敷内に入った。 知った足をつま先立てて、武者震いを纏い悲壮を呑みこんで、修羅を忍び行く。
 屋根裏の一角を、小刀で切り取って出来た穴へするりと身を忍ばせる。 床に屈伸して着地すると、真っ暗闇に囲まれて目が慣れるまでもなく火打ちの小さな火をすくい取った。 輪郭を得た刀箱や櫃を音を立てぬ様に開き、その幾振りをも取り出しては刀の刃を潰し、弓は弦を断ち始めた。更に手をついて箱を数え、最奥へ辿りついては櫃に入れられている、いつか話に聞いた吉川家の宝刀を見つけると、柄巻固き、手に重いそれを掴み上げると外へ出た。 そして、吉川の名の象徴の鞘を払い、千法師派の家臣、元春派の家臣を夜陰にまぎれて刺殺した。





-*-
 小屋へ戻り衣装付けをしては再び衣の下に心臓を置いて、ゆめは吉川の門をくぐった。 厨にて女中と挨拶を交わしていくと、目の隙を狙って薬を得、しばらく廊下を歩いている。
「あっゆめさん。大殿様が呼んでいますよ」
 すると、若い家臣の一人が背から声をかけてきた。 半透明の匂い雅な気配に近づいたゆめの目が鋭く放ったかと思うと、慌てて笑顔を取り繕った。
「はい、ただいま」
 と、用事終えたとて、去り行こうとしている家臣に声をかける。
「興経様の用事って御当主の事でしょうか?」
「はぁ、おそらく」
 ゆめは家臣の目をじっと見つめ、それから小首傾げた。
「貴方は、この家督の事についてはどう思ってるんですか」
「興経様あっての吉川家でございます。私はそれを支えたいと心から思っております」
 ほんのりと目元淡く、まだ肌の固いその家臣をゆめは息を詰めて目におさめていたかと思うと、家臣に不審の色が去来するのを先んじて、そうですか。と微笑んだ。
「じゃあ、行ってきます」
 そして、当主の所へ行くまでに薬ついでに、酒のありかを見当つけた。 ひりびりと良心が耳元で剥がれていく音がする。それ止める事も屈む事も嘆く事も出来ずどうにも止められなかった。


 ゆめは陽のあたる縁側を歩いて障子の前に立つと、静かに座りこみ両手で開いた。 家臣に興経に呼ばれたことを告げ、取り次ぎを願う。家臣が開いた障子の隙間から見える興経は肘掛に身体を預けて遠くを見ていた。元就もこんな風に外を、太陽を拝むことがあるのだろうか いつも夜中に帰る彼の、日に照らされる横顔の美しさにゆめは焦がれた。
 此度の家督争いの責を感じて、自分が歩んできた道を反芻しているのかもしれない。と、思いながらゆめはひれ伏すことも忘れて見入っていた。まもなく、名を呼ばれゆめははっと顔を戻した。 無礼を詫びると、興経は男伊達にしては小さく見える肩を揺らして、これを否定した。

「私は時節によって従属する相手を、尼子に代え、大内に代えてきた。ひとえに吉川家が生き残るためだったのだ。しかし、見る事に家臣は割れた。もう、誰からも信じれてはいないのだ。このまま当主にしがみつかず、隠居した方が身のためではないか」
「な、何言ってるんですか、まだまだ現役ですよ。千法師様が世になるまでしっかり、努めておいでにならないと。家臣も慶次さんの下に結束してるみたいです」
 ゆめは笑顔のままつらつらと出てくる自分の本心がいに少なからず驚いていた。嘘嘘ばかりで、何が本当か分からない。 元就以外の自分の真実に価値などなかった。
「そうか、前田慶次。彼には感謝の言葉にできない」
「しっかりお勤めくださいませ」
「千法師へしっかりと継がせなければな」
「えぇ」
「そうか、私は改心し、堂々生きるぞ」
「はい」
 ゆめは表面上だけ頷いてみせると、興経は涙を落とすようにそっと瞬いて頬を緩ませた。そして立ち上がり去ろうとする際に、西日の差す陽だまりのでくるりと振り返った。人のよい眉を緩ませて、しどけなく笑った。
「見えるか? あなたには、我が息千法師が当主となる未来が、盤石なる我が吉川家が」
「はい、見えます。吉川家が末長く安泰する世が」
 ゆめはにっこり口元を歪めると、顔のはずれで笑うような微笑を深めた。


 そして、その帰り際さっきの家臣を見付けた。 ゆめは身の内が殺意で塗りたくられたのを急いで押し込めるとて、家臣に飛びかかったと思うと、短刀を引き出しこれを刺し込んだ。 震えた手は急所を外れている。
 それでも、なんとか池に蹴り込むと、彼は水の中に落ちていった。温んだ血の泳ぐ水の抵抗が身体の合間を泡立たせ、上へのぼって行く。 むせかえるぬるさに顔をしかめながら刀の血を拭うと、池へ手ぬぐいを捨てた。
(これで、全ての派の家臣を殺した。互いに憎しみ合えば、戦乱になる……)
 あとは、千法師と奥方と……、前田慶次を排除すればいい。
 何度も傷ついてきた心にまた一つ大きな斬り込みが入った。その傷から出る血は流れ続け、もう塞がる事はないのだと静かに感じた。胸が軋んで、元就の全て思い出し、張り付ければ、腫れた内壁がただれて胃に落ちてくる。 全ては元就。唯一の糧として筋とした。ゆめは何度も息を吸って、燃えそうな喉を殺し、はちきれそうな胸を潰し懐の短刀を握って手に感触を沁みだすと、ゆっくり歩き出した。





-*-
「奥様」
「あら、ゆめじゃないの」
 ゆめは顔を変えたように笑うと話しかけるとて、にこやかに首をかしげた。
「千法師様、お元気ですか? 此度のいさかいも興経大殿様が当主を続け召される様ですね」
「ありがとう。慶次さんが口利きして下さったとか、頼りになるわ。もちろん、あなたもね。あなたの事、信頼してるのよ」
「……毛利の元春なんて」
「他人なんて入れられませんわ。これからは、吉川家一丸となって世を渡るの」
「そうですね」
 明るい笑い声が響いて、顔を上げた。目の前で楽しそうに笑い、言葉を紡ぎ、そして自分を映す。 彼女を葬ることは何よりも辛く耐えがたかった。彼女を滅した後に、自分がどうなるか分からない、どんな罰を受くかもわからない、その恐怖は合った。しかし、元就を置いて他に気にかけることなどなかった。
「あ、この薬を是非服用くださいませ。乳母にも呑ませるよう、大殿様が」
 千法師様にもしっかり。と、笑顔を張りつけたまま歩いた。心臓が跳ね過ぎて振り切れ、今胸にない。 感情が凪ぎ、驚くほど頭の中に何もない。ただ歩くばかりを指示して、足が動き身体を運ぶ。 二度と、笑えないと思っていた。けれど、却ってもう泣けない方がおかしいのかもしれない。 そして、歩む先にあのふいふらりとした羽と結髪、黄木の衣に房のついた身姿の慶次を見付けた。

「慶次さん」
「あんたもう平気なのか。心配して」
 この顔を見るが最後と、ゆめは慶次を見上げた。 見入り、見惚れ、見抜くほどにして彼を目に焼き付けた。
「あの時は、ごめんなさい。でも、慶次さんに言われてはっとしたんです。故郷へ戻って。考えて……」
 彼の前に嘘は言えず、本当のことなんて云えるはずもなかった。
「あっ、これ酒です、興経大殿様が慶次さんにって」
 彼は色んな表情を含め言葉を紡ぎかけたが、ゆめの笑みの前にそれらをしまいこむと、くいと人の良い笑みを浮かべた。
「そうか。じゃああんたも呑もう」
「喜んで」
 ゆめは手で揺れる酒の重みを知りながら、ゆっくりと笑い返すと、用意してきた枡に酒を傾ける。
「ありがとう」
 あれ、なんか変な味する。と、首をかしげる慶次にゆめが慌てて腕を取って向かせる。
「あのっ、慶次さん。私……」
 頭巾をとって、笑った。あっ。と小さい声をもらして慶次が見るのを俯いて受けると、そのまま言葉を紡いだ。
「嬉しかったです。その、この間」
「ん?」
「あの、好きってその……」
「そうなのか?」
「はい……」
「そ、そっか」
「はい」
 ゆめが目を上げると、慶次はごくっと酒を呑みほしている。瞬時に目を伏せ、間を繕う様に懐から薄い盃を取り出した。
「下さい、私にも」
 と、ゆめが微笑んだ瞬間。慶次の胃を強烈に割る様な熱い戻りが走った。

「っう、ぐはっ」
 えっ、何だこれ……。と驚いたままかたまり、傾いだ。 哀な叫びが咳き込み混じってくごもれば、咽た唇から鮮血が吹き出でて、見る間に次の波が来る。 息を吸う間にもう口から鼻から、見る間に耳から目から血の出るとて、まもなく。血流が肌を裂いて噴き出した。
「…ん、た、これ……飲んっ、めだ」
 と、慶次は毒の回る満身ながら、ゆめの盃をはじいた。その行動をゆめは目を張って見入っていた。慶次の名を呼んで見た、時間が止まる、自分が止まった。慶次は死んで行く。 見開いた瞳がきゅうと絞られ、凍りつくのを止められない。 ぐったりと胸に寄せた慶次の身体はまだ温かいのに、もう死んでいる。ゆめの喉が生々しく飲下した。
 くらぐらくらと潰れ込む慶次を支えきれず、ゆめは柱との間に挟まれている。その柔かい慶次の胸に頬を付けた時、心の奥が最後の警笛を鳴らして暗転していった。 慶次は肩を落とした思うとずり落ちて、縁側へ転げて落ちては肢体を土の上へ寝かせた。 土白く削げ入っていく頬に、彼の溌剌とした優しく甘い瞳は既に閉じている。 目を閉じれば闇に包まれた、吸いきれぬほど胸に息を寄せて、むせびこむ程に涙声で叫んだ。

「慶次さん! いや、慶次さん慶次さん」
「どうしたんですか?」
 ゆめの異常な事態に家臣のいくつかが集まってきた。
「慶次さんが、……っ、の酒で……ぶっ」
 話す途中でゆめも口内を口噛みすると、唇から筋に血を垂らした。
「ゆめさん!大丈夫ですか」
「酒に毒が盛られているぞ」
 くらぐらと畳に倒れ伏せて見せると、家臣の一人が転げた一升瓶を取り上げ、その異様と化した毒の匂いに声を上げた。 やがて声が人を呼び騒ぎになっては、家臣団が集まり始めた。
「誰の罠か!」
「慶次さんは、興経様を擁立していた。おそらく、それを良く思わない人物だろう」
「早く千法師様につがせたい、奥方と家臣の仕業か」
「ばかっ、元春を当主とし毛利と手を汲もうとするやつらでないのか」
「いや、このお家騒動に乗っかった尼子の仕業かもしれない」
 ゆめは人々の間を抜け、くらぐらと逃げおおせては吉川の門から出ようとすると、騒ぎを聞いて駆けつけたはずの当主興経の奥方が地に崩れ、彼女の腕から千法師が転げ出た。
「奥方様も殺された」
 焦りと興奮で回らない叫びが響いた、そうこうするうち池から死体が見つかった。また血が流れたのを見て、誰かが悲鳴を上げた。
 すぐに疑いあったとて喧嘩をこじらせた二人の死体が出来上がって、血が流れた。悲鳴が上がって、血に触れた。また死んで、血に濡れた。 怒号が響いて、血に染まった。刃が交わって、血に潰れた。誰もが不安になり、彼もを不信がり、互いが互いを殺し合っては、話が大きくなった。


 勝手に転び逢い、重なり合う。天下で蠢く人間の小さき宿命と薄き縁。互いを煽り、互いに互いを憎しみ合わせ、疑心暗鬼にする。 やがて、静粛、天誅、名ばかり大義の殺し合いが吉川家に吹き荒れた。なんてことはない、かつての毛利の状況を自分の手で作り出していただけだった。
 元就が、唯一の光であらば、自分は一点の影となる。 ゆめは喉を殺して泣きながら目に曇る刃を磨きつつ、胸を焼く武士の無情にただただ炙られ続けていた。




-*-
 吉川家内は混乱している。ゆめは小屋に帰って元就を迎えては、何度も息を吸って目の前の彼を見た。 天秤にかけた何よりもの存在は、やはり何よりも重く胸に映る。すでに、かけた片方には父親、慶次、尼子吉川の命。良心が重くなるほどに、元就にのめり込まざるを得ない 宿命を知っていた。
「領地に攻め込んでもいいし、残った家臣たちを引き取ってもいいし、もう元就のままにすればいい」
 早口でそう告げると、ゆめは喉苦しいとて、胸を押さえて何度も短い息を吸い戻した。心を打つ音が耳元でだくりだくりと臥込む中、ゆめはただ自分が生きていると感じていた、太陽に許されず、偽日を光と拝む、目の眩んだ影法師。
 それでも、ゆめは顔を上げるとしどけない元就の光の下で、幼少の頃の情念を今も変わらぬとて浮かべた目に曇らぬ元就への渇仰を色づかせた。
 緒は切れず命はここにある。元就は自分に差し出されるゆめの掌を包み、肩を押しやった。頬を傾げきしと欲情を噛んで、押し当てるように唇へ口付けた。 その柔さに緩む間へと舌を入れ、口の端からすらりとなぞる。初めての様に淡く苦い血の味。 噛んだ口内の傷に触れて、痛みを頬に伝え、苦みを舌に引く。びくりと反応した指先が元就の肌に食い込んだ。
 離れてしばらく、元就はゆめを視界に入れたまま、抱く腕に力を込めて確かな重みを感じながら、しなやぐ髪を掻き寄せた。 閉ざされた瞼に疲れが影っても、戻り来た鋭さに元就は薄暗く照らされた満足を得て、指に絡ませていた髪を抜いた。



-*-
 小早川と吉川を手に入れた頃、陶が従属した大内に対して下剋上を起こした。 大内家当主の義隆は殺され、家臣も陶の手の者によって降伏するまで次々と刎ねあげられた。 西国一と言われた大内の分の領地と大軍を手に入れた陶はさっそく尼子と戦い、彼らを押し切って、 領地の一部を占領するまでになっていた。
 その後、陶は同じ大内の部下で有りながら、力を付けてきている毛利を危険視し、 毛利が手に入れたばかりの吉川小早川に対して、無理な貿易を武力を背景に申し込んだり、 軍兵を領地へ侵入させ、農民の田畑に狼藉するなど挑発を掛けていた。 また先の戦に尼子との戦いに兵を出さなかったことも引き合いに出した。

 陶が攻めて来る。と、ゆめは告げる声を震わせていると、元就の声が地に着いて響いた。
「造作もないわ。陶を迎え撃つ」
 元就の頬は冷たく、あれほど恐ろしく思っていた顔が頼もしく思えた。そして、新に命を振ろうと思った。
 もうどこにも罪悪など考える余地はなくなっていた。 ずっと、犯した罪に退避する大義名分を探していた、中国安定。毛利家盤石、 自分が殺されかけたことを理由にもしていた。理性に抗いきれず、正当化しては相殺していた。 そんなものは初めから要らなかった。考えずにただ元就がママを実行していればよかった。 元就の言う事なら何でも信じられた、計算の外れた事も予言の違う事もなかった故に、彼がままを映して行動していられた。 唯一の糧。それだけで驚くほど従順に身体が付いてきた。


 そして戦が始まった。
 ゆめは陶の小城の食料を送る農民を買収し、毛利側の宮尾城へ持ちこませ、更にさらに陶に渡す船に忍び込んで俵を斬り捨て海へ落した。 やがて、厳島へと進軍した陶は、宮尾城の南にある塔ノ丘に布陣する。 すぐに踵を返すと、元就が用意していた忍びへ陶の様子を情報を伝えた。
 雲が荒々しく行き雪違い、雨風が強く嵐が吹き荒れた、 これをきっかけに毛利が夜影に乗じて、陶本陣背後の山に上り、すぐに駆け下りて奇襲を仕掛けた。 狭い厳島にひしめいた陶軍二万が右往左往するうちに、 小回りのきく毛利軍が火を放ち責め立てる。退路を塞いで、陶を追え。と元就の指揮が続いて、陶は次第に海へと追い詰められた。 やがて敗走する声を聞く、火の手が上がったのを合図に、 ゆめは懇意にしていた島民と共に仕掛けを引くと、崖から海へ向かって石を落とした。 浅瀬にして攻撃するばかりか、船に穴を開ける事もできた。
 更に逃げられた者は暴風雨の中、元就率いる毛利軍の猛攻、 海へ逃げれば、停泊していた隆景率いる小早川軍の迎撃、 陸にとどまれば元春率いる吉川軍の追撃を受けた。ゆめも飛び回り、敵の船に乗り込んで向かい合って船頭を切ると、人の頭を蹴って走り抜け斬り勇み、 嵐に吹かれながら、海に落ちては奮戦した。
 嵐が次第に凪いで来た頃、大津裏で陶は父子で自害。 夜明けの近い頃合いに、陶の船に火の手上がる中、元就の前へ、親子の首が運ばれた。


 ゆめは一人高台にいて、毛利軍が無事に城中に戻っていくのを見ていた。 見れば天守閣に上るほど高く、白煙が上がっている、 よく見れば庭で女中がつくった大量のかゆ、熱燗に皆が沸いているようだった。
 毛利を賛美する声、毛利の勝利を祝う声、毛利の強さを讃える声、毛利の永劫を強める声。 全てが記憶を走馬灯のように回しながら、耳に沁み込んでくる。
ゆめはくらぐらする興奮と熱気によって、いつまでもその未来があるようにと祈った。




-*-
 雲に透いた光を薄ら見てゆめは目を開いた。背に畳の感触を覚えて小屋だと分かれば、いつの間に戻ったか全く思い出せない。 怪訝ながらも、手の重いのに気がついた。 朦朧とした意識を泳ぎ、腫れた目に拒まれながら視界を開けると、もう一つの手が重ねられて握られている、それを見た途端手の内が汗ばんで熱いのにはたと意識を起こした。 手の内の手が動く、顔を向ければ元就がいた。 ゆめは身体を射抜くその光を、眩しそうに目にしていたかと思うと、柔かく息を零し自分を切り分けた神なる元就に対峙した。


「尼子が降伏を申し入れてきた」
「えっ……」
 元就は満悦を退いた目に白き眩ゆい笑顔を見せた、ゆめの声にならない喜びが全身を甘く浸した。この瞬間の為に生きてきた。と身に振り注ぐ白い喜びを噛みしめると、元就の声が続く
「中国十国は我のもとなった。後に、天皇を呼び所領を確固させる」
「そっか、そうか。そっか……ついに」
 涙は却って雫に成らず、喉をからして、目元を熱く沁み込ませた。
「よかった」
 安堵の混じりたような細めいた息を漏らすと、やすり掛けされた視界を揺らして何とか元就に焦点を当てる。消え行く意識を目を開いて繋ぎ止め、つま先まで行き届かせると体に血を巡らせていた。
 やがて、静かに身体に乗りかかる元就の重みを感じ、ほっと瞼の力を緩め、潤み出した瞳に振り下ろした。 その触れるひとつひとつが、重なる肌のひとところ、ひとところが肌に溶け込むようだった。 触れる箇所が甘く肌の内へ入り、吐息がゆるりとかかる。
 こんな充足はなかった。 朝になり、元就を見てゆめは自然に笑みを見せながら、満ち足りたものを感じていた。 元就と声を呼べば、小さな身じろぎが肌に懸る。この位置でこの距離で元就を呼んで元就が居る。それだけでいいのだと思った。
 ぼんやりとしたまま転がった掌を見れば、そこ明かりが差し込んでいた。 軽く握ると、指に映る。それを瞬きで目に抑えた。 日差し眩しく、白く照り付ける目の前の残像は消え、やがて夢幻の終わりに迎えられた。

 いつまでも生きたいと思った。
 いつ死んでも構わないと思った。
 幸せだった。


 そして、ゆめは出ていく元就の背中を見送った。いつまでも彼を見ていたいと思うと同時に、微かな眩さを感じていた。
 やがて元就は、完全なる光を得、輝きとなるだろう。 眩く白く広く、そこには影の一敷もない。
 毛利の未来はずっとずっと先まで永遠のものとなる。 かの陽回りの前にゆめは影として消える、その前にあの男に会いに行こうと思った。





prev ・ next 





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -