見てはいけない現場を見たら大変なことになった


「確かこの部屋のはずなんだけど……」

普段は立ち入らないフロアに足を踏み入れた私は、資料を腕に抱えたままドアの外でうろうろとしていた。5分ほど前、すれ違いざまに「手が離せないから、これ渡しといて!」と書類の束を押しつけていった同僚の姿はとうに見えず、誰かに訊ねようにも人がいない。仕方なく、意を決して目の前のドアをノックする。コンコンコン。……応答なし。もしや誰もいないのだろうか。おそるおそるドアを開ける。

「し、失礼します……」
「っ……ふふふ……っはは」
「え!?」

部屋に入るなり笑い声が聞こえてびっくりして目を向けると、近くの机にグレーのスーツ姿の人がいた。その人は立った状態で両手をデスクに突き、前屈みになって肩を震わせている。いきなりそんな光景を目にして驚いたが、彼が誰なのか気づいて二重に驚いた。
降谷零。警備局警備企画課……いわゆる公安の所属だ。顔を見ずとも一目でその人だとわかる金色の髪と浅黒い肌。警察庁の中では抜群に目立つ外見ながら、以前は出勤していること自体が珍しかったため誰も名前を知らなかった。噂では潜入捜査をしており、除籍されていたらしい。その任が終了したのか、半年くらい前からちょくちょく庁舎内で見かけるようになった。引きで見ても目立つ外見だが、近寄ると甘やかなタレ目のスーパーイケメンなのですぐに「あれは誰だ?」と噂が広まり、名前が突き止められ、現在は女性職員の間で共有されている。……ただし、彼は体を張って潜入捜査をやっていたような公安の人間である。公安といえば色々なお友達がいることで知られており、自らが潜入していたのなら余計に「たぶん、かなりヤバい(友達がいる)」。これが皆の共通認識であった。そのようなわけで遠まきにされているのだが、顔がとにかくいいので憧れている女性も多い。私も廊下で見かけたらちょっとドキドキする。それがこんなに近くで見られるなんて、とミーハーな気分になった。
降谷さんは相変わらず堪えきれないといった様子で笑っている。公安のひとはエリート意識が高いと聞いたことがあるし、自分の仕事っぷりに笑いが込み上げているのだろうか……?俺ってこんなに仕事できてすごい、みたいな。抱いている公安のイメージがひどい。それはそうと部屋を間違えました。降谷さんがいるということはここは警備企画課だ。資料を渡すように頼まれたのは別の部署の人なので、明らかに違う。

「…………」

無言で退室しても大丈夫かなぁと様子を窺うと、降谷さんが手を突いている机の上をコロコロと何かが転がっていくのが見えた。細くて、円柱で短い……印鑑だ。なぜ剥き出しの状態でデスクにあるんだろうと思ってよく見ると、印鑑の下に一枚の紙があることに気づく。押印していたと考えるのが自然だろう。ジロジロ見てはいけないと思いつつ気になって覗いてみると、「降谷」の印が上下逆さまになって押されていた。

「……え?」

それを見下ろすように未だに肩を震わせている降谷さん。まさかこのひと、自分で逆さまにハンコを押してそれがおかしくて笑っている……?思わず髪の毛に隠れた横顔を凝視する。
これは声をかけてもいいのだろうか。いや……普通に怖いし、帰ろう。降谷さんが崩れそうなほど笑っているのに、同じ部屋にいる他の人たちは全員スルーしてるし。見なかったことにしよう。
そっと右足を引いて踵を返そうとしたそのときだ。

「……」

こちらを見た青い瞳と、そこそこの至近距離で目があった。

「っ!?」

美しいブルーの虹彩が見るものを惹きつける。ガラス玉に影を落としそうな長いまつ毛。眉はその繊細さに反して太めで男らしくきりっとしている。通った鼻筋に薄い唇、それに見慣れない褐色のエキゾチックな肌の色。遠目だと爽やかな美男子に見えるけれど、間近でじっと見つめていると惑わされてクラクラきてしまいそうな色っぽさがある。ついドキドキして眺めていると、降谷さんが姿勢を正してこちらを向いた。

「……見た?」
「なっ、何をでしょうか!?」

初めて喋る声を聞いた。もっと二枚目キャラみたいなクールな声音を予測していたが、想像よりずっと甘い声で余計にドキドキしてしまう。
見た?と問われれば見た。とてもイケメンな降谷さんのお顔を……。一体何のことだろうと思いながら、降谷さんが距離を詰めてくるからこちらも自然に後退する。……すごく、大きい。そのまま寄ってくるので、いつの間にか壁際に追いやられてしまった。

「っ……!」

なにこれどうしよう。出口はすぐそこだったはず……と横に目を向けると、視界をスーツを纏った片腕がトンと遮る。

「ひぃっ」

ビクッとして正面に向き直ると、降谷さんが壁ドンの体勢で私を覗き込んでいた。

「あっあああの、何かご用でしょうか!?」
「見られたからには、帰すわけにはいかないな……」
「見てません!何も!」

これどういう状況?からかわれているんだと思うけど、今日初めて会話をしたのに……。
降谷さんが首を傾げて私を見下ろしている。退路は塞がれ、助けを求めようにも隅っこで壁ドンされている女に誰も気づいていない。この男の身長がデカすぎて見えていないのだ。それきり何を言うでもない降谷さんに観察され、混乱が極まる。
もしかしてさっきの印鑑を押した紙、機密文書だったのかな……!?でも、ぱっと見は福利厚生の案内みたいだったけど……。ここで変な疑いをかけられて拷問でもされたら怖すぎるので(公安への偏見)、正直に口を開く。

「わ、私が見たのは降谷さんが逆さまにハンコを押して爆笑してたところだけです!それ以外は何も見てません」
「見てるんじゃないか、やっぱり」
「ひええ!?そこですか!?」
「…………あれ?」
「へっ?」
「僕の名前、知ってるの?」

ふざけているのか、真面目なのか判断がつかないやり取りの途中、降谷さんがきょとんと目を丸くした。その顔はぐっと子供っぽく見える。
それを見て私はしまったと思った。降谷さんの名前は皆知っているが、降谷さん自身は自分が警察庁の中でそんなに有名になっているとは露ほども思っていない。つい最近まで潜入していた別部署の男の名前を知っているなんて、怪しく思われても仕方がないだろう。

「違っ……知りません。今、印鑑を見てお名前を知っただけで」
「一瞬で、しかも逆さまの漢字なんて読めませんよね?」
「ほほほんとです……」

ああ、こんなところで公安のヤバい人に目をつけられて人生終わりたくない(公安への偏見)。なぜか急に敬語になった降谷さんにビビっていると、壁に向かって喋っている降谷さんを不審に思ったのか「おい、降谷」という声が聞こえた。これは天の助けだ。

「うん?」

金髪の人の注意がそちらに向かった一瞬の隙に、私は行く手を阻む長い腕をくぐり、全速力で部屋を後にする。背中から「あっ」と声が聞こえたが、無視して長い廊下を走り抜けた。
のちに、この時の降谷さんは三徹目の極限状態であったことを同課の人から聞いた。



「……それ、手作りですか?」

そう訊ねると、隣に座った男がにこりと眩しいばかりの笑顔を見せて頷いた。お弁当箱に詰められたおかずは彩りもよく、野菜や肉など栄養の偏りがないよう考慮されている。
……あの日以来、降谷さんは庁舎内で私を発見すると全力で追いかけてくるようになった。一体どこからその情熱が出てくるんだろうと思うほど熱心で、廊下の端っこにいたと思ったら次の瞬間目の前に立ち塞がっていたりする。何の用かと聞いても「君が逃げるから」という犬みたいなことしか言わないので目的は分からずじまいだった。なんやかんやで追われるのは心臓に悪いし、異常行動は理解できないが普通に会話をするぶんにはいい人なので、今日はこうして機会を持って庁舎内でランチを一緒にしている。

「そっちの包みはなんですか?」
「果物ですよ。よければどうぞ」

そう言ってリンゴが入ったタッパーを差し出す降谷さん。蜜入りで美味しいんですよ、と彼は言ったけれど、私は中身よりもそれをくるんでいた可愛いネコ柄の布の方が気になっていた。今までチラッと見たことがある降谷さんの持ち物は無地のものばかりだ。これは明らかに別の人間の趣味……。

「彼女さん、マメですねー」
「……ん?」

なるほど、降谷さんには恋人がいるらしい。いや、奥さんかも。自分の用意したものを他の女が食べていたら不快だろうと思い、いただくのはやめにする。こんなにスペックの高い人だから恋人がいてもおかしくはないと思っていたけど、公安の男の彼女って、もしや関係者ではなかろうか。だとしたらこうしてふたりでいるところを見られたらマズイ。
私は腰を浮かせて、隣に座る降谷さんからそっと距離をとった。

「いや、ちょっと待て」

せっかく気を遣ったのに、私の行動を見るや降谷さんが手を伸ばしてきた。ガシリと勢いよく手首を掴まれ、こんなことをして噂になったら……と蒼白になる私をよそに、恨めしげにこちらを見つめてくる。

「急にどうしたんですか?」
「ちょっと降谷さん、手を離してくださいよ!私はまだここで働きたいんです」
「それは結婚したら家庭に入るということ?」
「えっ何言ってるの?降谷さんの彼女に見られたらどうするんですか!」
「…………この包みのことなら、潜入先の喫茶店で子供達にもらったものです。絵が喫茶店で可愛がっていた猫に似ているので」
「……え?潜入?降谷さんってほんとに潜入捜査してたんですね」

嘘だとは思っていないけれど、正直には聞けない雰囲気だったし聞いてほしくないだろう。そう思っていたのに、彼は何でもないことのように口を開く。

「長い話になりますが、聞きますか?もちろん細かな情報は伏せますが」
「え、うーん……そんな貴重な話、聞かせてもらえるなら聞きたいですけど……聞いたら消されたりしない?」

しないよ、と笑った降谷さんはまず手始めに探偵として活動したことを話してくれたが、濃い潜入生活の話はランチの間ではとても終わらなかった。次の日も、そしてその次の日もランチを一緒に食べたが、やっぱり終わらなかった。



まどろみ始める時間に刺激的な話はやめてとお願いしてから、夜半は決まって彼がかつての潜入中に開発したメニューの話になる。ケーキ作りに失敗してそれがきっかけで新しいレシピを生み出したとか、期間限定のモーニングの話とか。お腹が空いてしまって眠れなくなることがわかったので、そろそろこれも別の話題に変えてもらう必要がありそうだ。
ねえ、と呟くと、なに?と返事がある。

「降谷さん、潜入の話ってまだ終わらないの?もう二年も聞いてるのに」
「君も降谷だろ、今は」

もぞもぞと布団の中で身じろぎすると、大きな手がずれた毛布を引き上げた。
この人のことだから、これからもずっとこの話は終わらないのだろうなと思う。もう逃げたりしないのに、いまだに律儀に丁寧に話してくれるのが嬉しかった。けど、こうして過去の話を聞いていると、自分の知らない降谷さんを見てきた他の人が羨ましくもなる。二年間ずっとうんうんと頷きながら聞き続けてきたけれど、今度、けっこう妬いてるって正直に伝えてみようかな。どんな顔をするだろう、と考えて、緩んだ唇からふふっと声が出る。
降谷さんは不思議そうにしながらもそっと髪を撫でてくれて、私の意識は心地よい眠りにゆっくりと沈んでいった。

「……公安……こわい」
「…………どんな夢見てるんだ?」




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