バーボン(草食系)と逆襲の降谷さん2




事の発端は本当にしょうもないことだった。組織の幹部であるジンの命令でヨーロッパに渡っていた私は問題なく任務を終え、三日後に控える日本での作戦に加わる予定でいた。ところが、空港で火災が発生して飛行機が飛ばなかったのだ。火災はそこそこレアなケースだが、飛行機の欠航は地域や季節によってはよくある。この時点で私は特に焦らず、翌朝の振替便に乗ることにして……今度は乗ったその便が悪天候で他の空港にダイバートしてしまった。まあまあ、と思ってちょっとだけ慌ててジンに連絡を入れたが、この時の文面は「到着が作戦前日になるかも〜」という実に楽観的なものであった。今思えば、あそこでもう少し切羽詰まったというか、気の利いたメールを送っておけばよかったのだ。すぐに別の便を探してチケットを購入し、呑気に空港のカフェで紅茶など飲んでいた私の目に飛び込んできたのは、電光掲示板に流れる「ストライキにより欠航となった路線の案内」。私は蒼白になってカップを取り落とした……。

作戦の翌日にのこのこ姿を現した私に、ジンは言った。やることがなくなって暇だろ?政府要人から情報をとってこい、と。不幸な事故が重なっての遅刻だったため、頭を蜂の巣にされることは免れたのだが、そういうわけで普段はあまりやらない所謂ハニートラップを仕掛けることになったのである。冒頭のベルモットとのやりとりはそういうわけだ。私はハニートラップの経験がほとんどないので、早い話が組織内の男で練習しろという、何というか、そういうことで。正直、そんなものはやりたくない。しかもベルモットが練習相手にと選んだのがバーボンだったのだ。何故なのかとベルモットに問い詰めたら、「彼がやってもいいって引き受けてくれたのよ」と言う。普段姿を見せない男が、そんなことのために……絶対に、何か目的があるに違いないのだ。この男の噂の一部で、女癖に関するひどい噂もある。……私の心は暗く絶望していた。

「それで……どうしたらいいの?できればシャワー浴びたいんだけど……」
「そこに座ってください」
「……わかった……」

ホールの別棟にあるホテルの一室。指し示された通り、キングサイズのベッドの端っこに腰を下ろす。かなりいい部屋のようだが、豪華な調度品を眺める精神的余裕はゼロだ。私が腰を下ろした隣にバーボンも座る。俯く私の視界に、男の黒いタキシードがちらりと見えた。……覚悟を決めなければ。ここで反抗することは得策ではない。階級的にコードネーム持ちは全員同列扱いであるが、やはり内部では微妙なランク付けがある。この男が私よりも大分上に位置していることは間違いない。素直に言うことを聞いて使えるやつだと思わせれば、新たな情報源になるかもしれないし……こんな時でも本職の責務を忘れない私は潜入捜査官の鏡である。どんな酷いことをされたって、私は屈しない。ブルーのドレスを膝の上できゅっと握り締める。
バーボンはそんな私の様子など気にならない様子で、「ハニートラップで実際に体を許すのはNG、体を求められたら撃ち殺すこと」とか、「本当に能力のあるスパイはむしろホテルの部屋に入った瞬間に相手を制圧」とか、え、マジで?というかなり攻撃的なハニートラップの心得について話し始めた。……顔に似合わず過激派なんだろうか。




「以上です」
「…………」

基礎的な話をつらつらと述べて、バーボンはそう結んだ。そういう講義から入るなんて本格的だ。さすが情報のプロフェッショナル……いや、それを言うなら私もなんだけど。このあと実践が待っているのだと思い体を硬くする私の隣で、男が腰を浮かせる。……あれ、私から何かしなくていいのかな?こちらから抱きついたりして誘惑するべきか。迷っていると、男が妙なことを口走る。

「僕は戻りますが、あなたはここに泊まって行ってください」
「…………は?」

思わず間抜けな声が自分の口から漏れた。隣で立ち上がった男を驚いて見上げる。今、この男は何と言った?僕は戻りますが?聞き間違いだろうか。

「…………戻るって言った?」
「はい、そろそろ日付が変わりますので」
「あの……しないの?」
「……え?誰がそんなことを言いました?」

バーボンは不思議そうに首を傾げ、ぱちりと瞬きをした。ものすごく顔がいい。……え?ベルモットは色々教えてもらえって言ってたけど、終わりでいいの?ぽかんと口を半開きにして男を見るも、何を言ってるんだこの女は、みたいな表情で見下ろされてカッと頬が熱くなる。いや、待て。普通に考えてハニートラップの訓練がこれだけで終わるはずがない。どこの学校の授業だよ。こういうのは実践あるのみだし、誰かに手解きしてもらえと言ったジンの嫌な笑みはそういうことを示していたはずだ。まさか私の姿を見て抱くに値しないと思った、とか?ハニトラの心得を話しながら、どうやって撤収しようか考えてた、とか。そんなの、ひどい。この話を聞いた時から気が気じゃなくて、毎日悩んでいたのに。ショックを受ける私を眺め、バーボンが覗き込むように顔を寄せてくる。

「どうしました?具合でも……」

ギロリという効果音が相手に刺さりそうなほど、私は目の前の男を睨み上げた。ん?とほんの少しだけ目を大きくした男の、上質そうな布で覆われた腕をガシリと掴む。次の瞬間、私は両手で思い切りその腕を引っ張って、引き倒すようにしてバーボンをベッドに押し倒していた。



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